第八十八話「泰蔵」


 紅子の父方の祖父だという、灰青色の作務衣(さむえ)を着たその初老の男は、玄関先で紅子と竜介を出迎えるなり、その場で凍り付いてしまった。
 無理もない。
 竜介は上半身裸、彼のシャツを紅子が羽織っているような状況では、誤解するなというほうが無理だ。
 竜介の話によれば七十歳近いらしい祖父の、年齢の割にしわが少ない額を眺めながら、紅子は今その中を駆けめぐっているであろうあらぬ想像が目に見えるような気がして、ひそかにため息をついた。
 ようやくその場の気まずい雰囲気がほぐれたのは、彼女の身にいかなる災難が降りかかったかを竜介が取り急ぎ説明してくれたあとだった。
 一旦、緊張から解放されると、泰蔵はたちまち久しく会わなかった孫娘を迎える祖父の顔になり、
「初めまして」
と挨拶する紅子に
「いやいや、十四年前に一度会っとるよ。ま、憶えてなくても仕方ないがな」
と、紅子の父親とよく似た笑顔で言ったのだった。

 とりあえずぬれた服を洗って乾かし、身体を温める必要があるということで、風呂場へ案内された。
 その道すがら、泰蔵がしきりに橋を直しておかなかったことを詫びるので、紅子はかえって恐縮した。
 ぼんやりしていた自分も悪いのに。
 浴室には広い脱衣室がついていて、洗面台の向かいに小さなドラム式の乾燥機付き全自動洗濯機が鎮座していた。
 それを見た竜介が言う。
「あれ?いつ買い換えたんです?」
「おう、つい先月な」
と、泰蔵。
「直し直し使ってたんだが、わしもトシだ、面倒になってきてなぁ。しかし、買い換えてよかったよ。さっそく役に立つときが来た」
 そう言う彼はどことなく喜々とした様子で紅子にその真新しい洗濯機の使い方を教えると、竜介とともに脱衣室を出た。
「わしらは縁側におるよ」
 と、言い残して。

「やれやれ」
脱衣室を出てしばらく後、泰蔵が大きく息を吐きながら言った。
「玄関に立っていたお前さんたちを見たときは、一瞬、肝が冷えたよ。「またか」と思った」
「よしてくださいよ」
竜介は苦笑した。
「鷹彦はともかく、俺にとっちゃ、あの子は涼音と同じです。あの子のほうだって、俺なんかに興味ありませんよ」
「ぜひともそうであってもらいたいね」
 泰蔵はそう言って首筋をかく。
 竜介が言った。
「十七年前みたいな騒ぎは、俺だってもうご免ですからね」
 泰蔵は、同意を込めて「ふむ」と鼻を鳴らす。
「黄根の御仁は、まだ見つからんようだが。彼の千里眼は、頭抜けておるからな。どこであの子を見ていることやら」
 くわばら、くわばら。
 彼は道化て大げさに身震いしてから、竜介の暗い顔に気づき、
「いや、すまん。お前さんにはトラウマだったか」
と、謝った。
 竜介はふっと表情をやわらげる。
「トラウマだなんて、大げさな」
「なら、いいんだがな」
泰蔵は弟子の顔を一瞥してから、話題を変えた。
「さて、と。あの子が風呂に入っている間に、熱いお茶でも用意して置いてやるか。竜介、服を着たら、茶菓子を選ぶのを手伝ってくれんか。最近の若いお嬢さんの好みは、わしにはとんとわからんのでな」

 一方。
 水気たっぷりの重い衣類をかたっぱしから洗濯機に放り込んだ紅子は、風呂場で頭から熱いシャワーを浴び、ようやく人心地ついていた。
 棚に置いてあったシャンプーを勝手に借りて髪を洗うあいだ、浴槽に湯を張る。
 熱い湯に身体を浸すと、もはやたいていのことはどうでもいいような気がした。
 泰蔵には訊きたいことがいろいろあるけれど、今はとりあえずここを動きたくない。
 冷え切りこわばっていた全身の血流がよみがえり、文字通り生き返った気分で彼女が浴室を出る頃には、洗濯機の中の服もすっかり乾いていた。
 紅子は上機嫌で鼻歌など歌いながら服を着たが、ヘアドライヤーで髪を乾かそうとして洗面台の鏡を覗き込んだとき、ふと日可理のことを思い出して気持ちが沈むのを覚えた。
 壊れたヘアドライヤーと、粉々に割れた鏡。
 あのとき――
 日可理はいったい鏡の中に何を見たというのだろう。
 ドライヤーを投げつけて、鏡を割ってしまうほど、一体、何に驚いたというのだろう。
 あるいは、何に――おびえたのだろう。
 今、紅子が見ている鏡の中の世界は、こちらと左右が逆である他は寸分違わぬ同じものだ。
 鏡の中の紅子もまた、こちら側の紅子と同じように、イライラした手つきで長い髪を乾かしている。
 まるで、あなたを裏切る余地など私にあるはずがない、と言わんばかりに。
 しかし、日可理はそんなふうに従順であるべき鏡面の向こうに、「何か」を見、そして意識を失ったのだ。
 彼女はあれから意識を取り戻しただろうか、と紅子は思った。
 特に何ごともなく、元の、深窓の令嬢然とした、静かな日可理に戻っているといいのだけれど――

 さて、それから十分あまり後。
 身支度を終えて風呂場をあとにしたものの、紅子は竜介たちの居場所が分からず、にわか迷子になっていた。
 「縁側にいる」ったって、その縁側ってどっち!?
 怒りにまかせて廊下を踏み抜かんばかりの勢いで歩き回っていたが、ふと人の話し声が聞こえたような気がして、足を止める。
「――そうか、白鷺の坊が、そんなことをな……」
 泰蔵の声だ。
「俺は最初、無理だと思ったんです。力のことがあるし……」
 と、今度は竜介の声。
 紅子は声の聞こえる方へ、そっと足音を忍ばせて近付いた。
 なんとなく、会話をさえぎるべきではないような気がしたのだ。
 和室の中を突っ切っていくと障子があったが、それは半分開いていて、その向こう側には庭に面した濡れ縁が広がっている。
 そこに、作務衣の泰蔵と、ネイビーブルーのTシャツに着替えた竜介が並んで腰をおろしているのが見えた。
 二人は紅子に背を向け、茶器と茶菓子を載せた盆を間に置いている。
 盆の上には、受け皿の上に伏せられた茶碗が一組あった。
 紅子は声をかけようとした。
 が、そのとき、竜介が再び口を開いた。
「でも、黄根さんの力を借りれば……」
「封じることは、そう難しくなかろうな。ま、あの子が望めば、の話だが」
 泰蔵が言う。
 紅子は、心臓が、ドキン、と大きく跳ねるのを感じた。
 何の話をしてるの。
 「あの子」って、あたしのこと?
「望まないわけないでしょう」
竜介が言った。
「平凡に、平穏に、という八千代おばさんの遺志に沿うこともできる。黒珠を封じたあと、以前と同じ生活に戻りたいと思うなら、力なんか邪魔でしかないんだ。それなら、いっそのこと力を封じて、俺たちとの縁も切っちまったほうがいいに決まって」
「そんなの、あたしはイヤだからね!!」
 紅子は成り行きとはいえ自分が立ち聞きしていたことも忘れて、気がつくと衝動的に竜介の言葉をさえぎっていた。

2010.01.11一部改筆


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