第八十七話「大失態」


 紺野家の墓は、霊園のやや奥まった場所にあった。
 玉垣(たまがき)に囲まれた立派な墓で、石段を上がった正面に墓石だけでなく五輪塔もある。さらにその脇には、黒い御影石で造られたとおぼしき墓誌があり、墓に入っている故人の俗名・命日などが彫られていた。
 竜介が英梨から預かってきた菊を花立に供えているあいだ、紅子はなんとなく墓誌に目をやって、そこに「美弥子」の名前を見つけた。
 そこに彫られた命日によると、美弥子は今から16年前に亡くなっていた。
 16年前というと――竜介は9歳くらいだろうか。
 紅子は密かにため息をついた。
 もしも自分の父親が、見知らぬ女性を連れてきて「再婚したい」と言ったら?
 玄蔵のためには歓迎するべきなのだろう。けれど、心の底から祝福できるかと言われれば、わからない。不安がないといえば嘘になる。

 そんな大きな変化を、今のあたしよりもっと小さなときに経験したんだ……。

 新しい菊を供えた墓に手を合わせ、目を閉じている竜介の横顔は、穏やかだ。
 今の境地に至るまでには、数え切れないほど大小の葛藤があったろう――母親がいないという寂しさとは、また違った孤独が。
 そんなことを思っていると、竜介が顔を上げてこちらを振り向き、ばっちり目が合ってしまった。
 紅子は一瞬、目をそらすタイミングを逸して挙動不審に陥りそうになったが、その前に彼は墓前から立ち上がり、からりとした笑顔で言った。
「付き合わせて悪かった。行こうか」
 その笑顔に、紅子はほっとしたような、いたたまれないような、奇妙な気分を味わった。
「うん」
とできるかぎり明るく返事をしたけれど、かえってわざとらしかったかもしれない。
 しかし、竜介はそんな紅子の内心など気づかぬ様子で、すたすたと歩き出し、紅子はその背中を追った。
 そうだよね、竜介にとっては、もう16年も昔の話、なんだ。きっと……。
 そう思いながら。

 そう、16年。
 どうしてなんだろう。この数字が気になる。

 竜介の背中を眺めながら、紅子は頭の片隅に引っかかった、小さな思考のもつれをほどこうとした。
 霊園を出てなだらかな坂を登りきると、こじんまりとした寺の本堂と寺坊らしき建物が見えてきた。
 山門は本堂の対面にあって、霊園側から来ると、寺の正面からではなく裏から回ってきたような形になる。
 彼らは本堂前を通ってその奥の寺坊へと向かった。
 ちなみに、霊園と山門から本堂までは石畳になっているが、本堂から寺坊までは、公私の境界をそれとなく示すように、石畳ではなく飛び石になっている。その途上には山の水を利用した小川が引かれ、大小の岩で高低をつけた小さな滝が涼し気な音を立てていた。
「やっぱり、昨日の雨で少し水かさが増えてるな」
流れる水の量を見て竜介が独り言のようにつぶやいた。
「紅子ちゃん、渡るとき気をつけて」
「うん」
と紅子は上の空で答えた。半ば上の空で。
 滝のそばには、来訪者を歓待するかのように笑みを浮かべる小さな観音像と、手すりのない幅1mくらいの石橋がある。
 その観音像は、紅子になぜか英梨を思い出させ、それが涼音と、頭の片隅にひっかかっていた16という数字と結びついて、彼女に一つのひらめきを与えた。

 16は、紅子の年齢と同じ数字だが、同時に、涼音のそれと同じ。
 16年前、美弥子が亡くなった年、涼音は生まれた。
 ということは――

 紅子は考えにとらわれたまま、石橋に足を踏み出した。
 竜介は先に向こうへ渡り、立ち止まってこちらを見ている。

 竜介たち兄弟と、涼音との間には血の繋がりがある。
 それが本当だとしたら。

 紅子は紗がかかったように、目の前が一瞬、薄暗くなった気がした。

 彼らの父親、貴泰は、美弥子の存命中から、英梨と不貞を働いていたことになる――

 そのとき、ぐらり、と視界が揺れたのは、精神的ショックからだと紅子は思ったが、違った。
 踏み出した足の下に、地面がなかった。
 竜介が、危ない、とかなんとか叫んでこちらへ手を差し出すのが見えたが、残念ながら間に合わなかった。
 バランスをくずした彼女の身体は、そのまま水の中へ。
 紺野家の秘密を知ったことは、紅子にとって大変な衝撃だったが、それ以上に、尻もちをついた痛みと、晩秋の水の冷たさと、何より、こちらを呆れて見ている竜介の表情に、泣きたい気分をいやというほど味わったのだった。

2010.01.11一部改筆

2021.05.13改稿


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