第八十七話「夢幻の森」


 紅子は真っ赤になって、反射的に後ろへ跳びすさると、木の幹に背中をこすりつけた。
「なっ、なななな」
 何のつもり!?
と訊きたいのに、舌が口蓋(こうがい)に貼りついて、うまく呂律(ろれつ)が回らない。
 一方、竜介は彼女の狼狽(ろうばい)など意に介さぬ様子で、
「ほら」
と、たった今まで自分が着ていたシャツを彼女に向かって差し出した。
「そのままだと風邪引くから、とりあえず上だけでもこれに着替えなよ」
「え……あ」
 何だ、そういうことか。
 頭にのぼっていた血がすうっと引くと、紅子はあらぬ誤解をした自分が恥ずかしくなった。
「いっ」
まだ口蓋に貼りついていた舌をむりやり引き剥がし、彼女は言った。
「いいよ、このままで。今日は暖かいし……」
「きみがよくても、俺が困るんだ」
少し大げさに苦笑しながら、竜介が言う。
「眺めが良すぎてさ。わかる?」
 言葉の意味をはかりかねつつ、紅子は彼の視線を追って自分の姿をあらためる。
 今日着ているのは、ジーンズと、クリーム色の八分袖Tシャツ。

 その淡色のTシャツが、水に濡れたせいで透けて貼りつき、下着が丸見えになっている。

 そのとき、竜介の目には、紅子の顔色が文字通り「一瞬にして」変わるのが見えたに違いない。
 もっとも、彼女の凄まじい悲鳴から耳を守るのに忙しくて、それどころではなかったかもしれないが。
 紅子は両腕で自分の身体を抱えてうずくまりながら、羞恥と後悔で青ざめたり赤くなったりと顔色をめまぐるしく変えていた。
 変わらないのは心臓の動悸だけだ。
 ああもう、何でこんなのを着てきたんだろ。
 もっと可愛いブラにすればよかった……じゃなくて!
 もっと厚手のシャツにしておけば、こんなことには――!
と、中身もかなり混乱している紅子の頭の上に、布と、竜介の声が降ってきた。
「俺はしばらくむこう向いてるから」
 布は、さっきの竜介のシャツだ。
 彼のつま先が回れ右をするのを見てから、紅子はのろのろと立ち上がった。
 まったく知らない相手ではないとはいえ、ついさっきまで男性の肌に触れていた物である。
 それをじかに身に着けることには、少女らしい潔癖さから紅子にも多少の躊躇(ちゅうちょ)がある。
 けれど、背に腹は替えられない。
 竜介が貸してくれたブルーグレーのダンガリーは、色といい布地の厚さといい、多少濡れても下着が透けるようなことはまずなさそうだった。
 サイズはというと、紅子には当然のようにぶかぶかだったが、着心地は悪くなかった――少なくとも、「湿気ていない」という、ただその一点においては。
 それに、ほのかにいい匂いがした。
 甘いような苦いような、不思議な香り。
 コロンかな?
 と、推測してみる。
 初対面の強烈な印象から、身なりを構わない男だと思っていたのに。意外な発見。
 シャツのボタンをかけ終えると、余った袖を折り返す。
「お待たせ。もういいよ」
 紅子が声を掛けると、彼は肩越しに彼女を一瞥してうなずいた。
「それじゃ、行こうか」
「あとどれくらいで着くの?」
 竜介にうながされて道行きを再開しつつ、紅子が訊くと、
「五分くらいかな」
彼は腕時計を見て答えた。
「むこうに着いたら、風呂と着替えを用意してもらおう。きみの趣味に沿う服があるかどうかは、わからないけど」
「あ、そっちはお気遣いなく」
紅子は率直に言った。
「今なら、乾いてるってだけで何でも我慢できそうだから」
 すると、竜介は声を立てて笑った。
「そりゃいいや」

 木立の影が途切れると、日ざしが竜介のむき出しの背中をまともに照らし出した。
 その背を何気なく眺めるうち、紅子は彼のうなじから背中にかけて流れる、不思議な光のすじがあることに気づいた。
 それは色素の薄い、柔毛(にこげ)の群れだった。
 うぶ毛にしては長いそれが、光の加減で淡い金色に輝いているのだった。
 鍛錬を積んでいる若者らしい、流麗な筋肉。
 それを覆う、みずみずしい象牙色の皮膚。
 その背中を左右に分ける金色の波は、奇異な印象よりもその美しさによって、見る者の目を奪った。
 まるで、誰も見たことのない幻の獣のたてがみ。
 なんてきれいなんだろう――素直にそう思う。
 性別に限らず、人の身体にこんな感想を持ったのは、紅子にとって生まれて初めてのことだ。
 あまりじろじろ見て、気づかれたら困る。
 とも思うのだが、どうしてだか目が離せない。
 気に入らない男――のはずなのに。
 そいつの裸を見てどきどきするなんて、あたしはどこかおかしいんだろうか。
 水に落ちたことといい、今日は本当に、どこかおかしいのかもしれない。

「おーい、ゴールが見えてきたぜ」
その声で紅子が我に返ってみると、竜介はいつの間にか数メートルばかり先にいて、こちらに手を振っていた。
「ほら、あれだ」
 急いで追いついた彼女に彼はそう言って、彼らの足下に建つ平屋を指さした。
 造りは竜介の家とよく似ているが、大きさは半分くらい。
 広さで言えば、紅子の自宅とほぼ同じくらいだろうか。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
先を急ごうとする竜介を追いかけながら、紅子は言った。
「あたしに会わせたい人って、誰なの?」
「紺野泰蔵(たいぞう)……って、名前だけ言ってもわからないか」
竜介は前を歩きながら、顔を半分だけ紅子に向けて、答えた。
「俺の武術の師匠で、きみにとっては、父方のお祖父さんにあたる人だよ」

2010.01.11一部改筆


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