第八十六話「紅子、大失態」


 再び歩き出してまもなく、竜介の肩に、先のメジロとは違う小鳥がとまりに来た。
 それは背の青と脇の黄色のコントラストが実に見事な鳥で、メジロの愛らしさとは一線を(かく)す美しさだった。
「悪い、今日はご馳走ナシだ」
 何かおいしい物はないのか、とせっつくように肩先でさえずる鳥に竜介がそう言うと、相手はその言葉を理解したのかどうか、しばし首をかしげてから、どこかへ飛び去っていった。
「今のは、何ていう鳥?」
紅子は思わず感嘆して言った。
「あんなキレイなの、初めて見た」
「ルリビタキ」
竜介は短くそう答えてから、近くの(こずえ)を指さし、続ける。
「あそこにいる、背中が黒くて胸が黄色い鳥。あっちはキビタキっていうんだけど、あれもなかなかきれいだろ」
 紅子は足元に気をつけながら彼の指さすほうを見上げた。
 そこには彼の言うとおり、黒とオレンジに近い黄色というなかなかシャープな色合いの小鳥が羽根を休めていた。
 先の鳥と名前も大きさも似ているから、同じ種類なのかと紅子が尋ねると彼は笑って、キビタキはヒタキ科だが、ルリビタキはツグミの仲間だと答えた。
「へぇ、詳しいんだね」
 紅子が素直に感心すると、竜介はためらうように少し間をおいてから、
「亡くなった美夜子さんが詳しくてね」
と、ぽつりと言った。
「別に、その影響ってわけじゃないんだが。小さい頃に教わったことって、けっこう憶えてるもんだよな」
 彼の口調に感傷めいたものはなかったが、生みの母に対する「美夜子さん」という突き放したような呼び方に、紅子の胸は奇妙なざらつきを覚えた。

 母親が二人いるというのは、たとえ片方がこの世にいなくとも、いろいろと複雑なのかもしれない。
 竜介とその義母である英莉(えり)との関係は、傍らで見る限り悪いものではなさそうに見えたが、そこに至るまでにはやはりそれなりの葛藤(かっとう)があったはずで、それを乗りこえた結果が、たぶん、「美夜子サン」なのだろう、と紅子は思った。
 たとえば、たった今、玄蔵が再婚したいと言って自分の全く見知らぬ女性を家に連れて来たとしたら――?
 心中おだやかでいられる自信など、まったくない。
 美夜子の没年は今から十六年前だから、貴泰(たかやす)の再婚がその一年後だったとしても、竜介はまだ十歳くらいか。
 十六歳の自分でさえ想像しただけで不安を覚える変化を、彼はもっと幼いときに経験したのだ。
 当時の彼は、父親の再婚をどう思っただろう――
 と、そのとき。
 何やら涼しげな音が紅子の耳に届き、考え事を一時中断させた。
 それは、水が瀬を走る音だった。

 歩を進めるにつれてその音は次第に大きくなり、やがて向こう岸まで五、六メートルほどある川が姿を現した。
 さほど深くはなさそうだが、昨晩の雨のせいか、その流れには勢いがあった。
 一応、橋はかかっていたけれど、丸太を人一人渡れる程度の幅に並べ、荒縄で固定しただけの簡素なもの。
 手すりなどは無論、ない。
 おまけにあまり新しいとは言い難く、木材と木材の間にたまった土砂には雑草や地衣類がはびこっている。
「やっぱり、少し水かさが増えてるな」
竜介は橋の手前で立ち止まり、そうつぶやくと、紅子を振り返った。
「俺が渡ってから、ゆっくりおいで」
 言われたとおり、紅子は彼が向こう岸に着くのを待ってから橋を渡り始めた。
 雨で湿気た丸木橋はいかにも滑りやすそうに見えたが、恐る恐る踏み出してみると、意外にしっかりと踏みしめることができ、ほっとする。
 思ったより危なくはなさそうだ。
 足元への注意が緩むと、紅子の頭は中断されていた考え事のほうへ再び傾いていった。
 先刻、竜介の実母が自分の生年に亡くなっていたと知ったときに感じた「ひっかかり」が何だったのか――それがようやくわかりかけていたのである。
 問題は、紅子と涼音が同い年で、美夜子が亡くなった十六年前は紅子が生まれた年でもあるけれど、涼音が生まれた年でもある、ということ。
 そして――竜介や虎光の主張が正しいなら――涼音と彼ら兄弟の父親は同じだということだ。
 つまり。
 つまりそれは、貴泰が、前妻の生前から涼音の母親と不実を働いていた、ということに他ならないのではないか。
 このとき、紅子は一瞬、足下に穴が空いたようなめまいを感じた。
 たどり着いた結論が、あまりにも衝撃的すぎたせいだろうか?
 否、そうではなかった。
 次の瞬間、驚いた顔で何事か叫びながらこちらへ手を伸ばす竜介の姿がかしいでいくのを見たとき、紅子はようやく、どうやら自分の身体は現実に平衡(へいこう)を失ったらしい、と気づいた。
 そうして。
 気づいたとほぼ同時に、彼女の身体は、水の中に落ちていた。

 川は、深くはなかった。
 少なくとも、身長百五十六センチの紅子が溺れるほどには。
 しかし残念ながら、水たまりに尻餅(しりもち)をつくのに比べれば、そこには雲泥の差があったと言わざるをえない。
 しかも、橋から高さにして数十センチばかり下へ落ちたわけだから、尾てい骨への衝撃もそれなりにある。
 おかげで彼女は不本意にも、痛みが引いて動けるようになるまで、しばし冷たい水と戯れねばならなかった。
 そんなわけで、竜介の手を借りてようやく岸にあがったとき、彼女の姿は着衣のまま風呂にでも入ったかのような哀れなものとなっていた。
「……ありがと」
 紅子は竜介の手を放すと、相手の顔も見ずに、むっつりとした調子で礼を言った。
 彼女にしてみれば、己の演じた大失態と今の格好への泣きたいような情けなさ、恥ずかしさといった内心の動揺を相手から隠すためにそういう態度を取ったのだが、端から見ただけでそんなことがわかるわけもない。
 現に竜介は、彼女の態度を額面通りに受け取った様子で、怪我はないかと尋ねたあと、
「向かって左端は通るなって俺が言ったの、聞こえなかった?」
と、やや呆れたような口調で言った。
 川へ落ちたのは完全に自分の不注意で、彼のせいではない。
 それはわかりきっているのだが、全身びしょぬれで不快な思いをしているところへ、今さらどうにもならないことを言われれば、やつあたりの一つもしたくなる。
「考え事していて聞いてなかったっ」
紅子はイライラと語気荒く答えると、何か言い返そうとする竜介を無視してぷいと背中を向けた。
 そうすると、今踏み外して来たばかりの橋が目に入る。
 向こう岸から見てその左側は、川のちょうど真ん中辺りで見事に折れていた。
 地衣類のはびこり方が明らかに尋常ではなく、木材の変色も著しい部分。
 腐っているのは一目瞭然である。
 足元にちゃんと注意を払ってさえいれば、踏み抜くことなどありえなかった。
 そう思えば思うほど、自分の失態が呪わしい。
 竜介の家庭の事情について、いらぬことをあれこれ考えた天罰か?
 かたわらの立木に片手をそえ、片足ずつスニーカーの中に入った水を捨てながら、紅子はため息をつこうとしたが、それは途中でくしゃみに変わった。
 日差しは暖かいけれど、季節は秋、しかもそろそろ晩秋である。
 水浴びするような陽気ではない。
 下着まで水浸しになったせいで、彼女の身体は急速に冷えつつあった。
 ふてくされている場合ではない。一刻も早く服を乾かすか、着替えるかしなければ風邪を引いてしまう。
 紅子は左右の二の腕を互いの手で摩擦しながら、竜介を振り返り、
「目的地まであとどれくらいかかるの?」
と、尋ねようとした。
 が。
 彼女のその質問は、半ばで途切れた。
 そこにいた竜介の格好を目にしたとたん、彼女の舌はおろか、全身が固まってしまったからだ。
 何を思ったか、彼は着ていたシャツを脱ぎ、裸の上半身をさらしていた。

2010.01.10一部改筆


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