第八十五話「思いがけない言葉」


「玄関で待っててくれるかい。昨日の約束通り、例の人に会いに行こう」
 紅子の食事が終わる頃、竜介はそう言って、急須のお茶を入れ替えに来てくれた滝口と入れ替わりに食堂を出て行った。
 滝口は紅子の湯呑みに淹れたてのお茶を注ぎながら、「お食事はお口に合いましたか」とか「食後に何か甘いものでもお持ちしましょうか」などと気遣ってくれたが、朝食だけでお腹いっぱいだった紅子は入れ換えてもらったお茶だけありがたく飲み干すと、我ながら気が早いと思いつつ、そのまま玄関に向かった。
 上がり框に腰を下ろして竜介を待っていると、和室の片付けを終えたらしい英梨が声をかけてきた。
「紅子さん、おはよう。どうしたの、こんなところで?」
「竜介……さんを待ってるんです。あたしに会わせたい人がいるそうなので」
 さすがに相手の親の前で呼び捨てはまずかろう。紅子は気を遣ってそう答えた。
 すると英梨は少し慌てた様子で、
「あらまあ、もう行くの?大変大変」
とつぶやきながら、足早に玄関を出て行った。
 しばらくして、
「お待たせ」
 身支度を終えた竜介がやってきて、二人が玄関を出ると、ちょうど英梨が小さな包みを持って庭からもどってくるところだった。
 菊の香り。
「よかった、間に合って」
英梨はほっとした表情で微笑むと、おそらく庭に咲いているのを摘んできたのだろう、白と黄色の菊花をメインにした花束を竜介に差し出した。
「これ、ミヤコさんに」
 ところが、竜介は英梨の言葉に驚き当惑したような微妙な表情を返すだけで、受け取ろうとしない。
 意味ありげに紅子へちらりと視線を走らせて、英梨にもどす。母親の笑みが消えないのを確かめるようにしてから、ようやく、
「……ありがとう、持って行くよ」
と、彼は花を受け取ったのだった。

「雨上がりで足元が悪いから、二人とも気をつけて行ってらっしゃいね」
 英梨の言葉に送られて、竜介は先に立って歩き出した。
 屋敷の庭の奥にある木戸をくぐると、そこは舗装もされていないような山道だった。
「えっ、この先?」
 思わず紅子が言うと、竜介は肩越しに振り返り、
「ここから歩いて10分くらいかな」
と言った。
「俺は慣れてるから平気だけど、紅子ちゃんがきついなら車で」
「歩く」
 「俺は平気だけど」というフレーズが生来の負けず嫌いを刺激したらしい。紅子は気づくと即答していた。
 竜介はよほどこの道を気に入っているのか、それとも予期した通りの返答をよこす紅子のことがおもしろかったのか、たった今母親に対して見せた固い雰囲気もどこへやら、
「実は車道よりずっと近道なんだ。それに、こっちのほうがちょっとハイキングっぽくて楽しいだろ。景色もいいし」
などと、ぺらぺらいつもどおりの軽いおしゃべりを始める。
 たしかに、優しい木漏れ日を浴びて濃い緑の匂いをかぎ、遠いせせらぎの音や、小鳥のさえずりなどに耳を澄ましながら歩くのは楽しい。

 しかし、それも道がある程度平坦であれば、の話。

 足下に目を転じれば、そこここに木の根が張り出し、小石がごつごつと転がる上に急勾配で、道の片側は崖。要所に申しわけ程度の柵があり、頭上の枝が払われているほかはほとんど自然ありのままという、かなりハードモードなこの道は、「ハイキングコース」というレベルではない。
 紅子も体力には自信があるが、歩き始めてほどなく、息が上がるより先に、荒れた道のせいで足が悲鳴を上げ始めた。
 竜介はといえば、慣れた足取りでひょいひょいと前を進んでいく。
 その背中を紅子は恨めしく眺めたが、自分からは悔しくて休憩を言い出せない。
 会わせたい人とは誰なのか、道中尋ねようと考えていたが、今やついて行くのに精一杯。

 さっきの「ミヤコさん」が誰なのかも気になるけど……。

 紅子は竜介が持っている菊の束を見た。
 花の色は、仏前に供えることをあからさまに意識したチョイスになっている。

 あれ?ちょっと待って。
 ひょっとして、これから行く場所ってお墓とかそういう……?

 紅子は慌てて竜介を呼び止めた。
「あのさ、あたしに会わせたい人って、まさかと思うけどもうこの世にいない人?」
「まさか」
 竜介は立ち止まり、彼女を振り返って笑った。
「ちゃんと生きてるよ。俺がきみに会わせたいのは、玄蔵おじさんの父親、つまりきみの父方のおじいさんだ」
「おじいさん……?」
 予想外の返答に紅子は一瞬呆然とオウム返ししてから、
「ええっ、おじいさん!?生きてるの!?」
 驚き騒ぐ紅子に、竜介は横顔だけで笑って「もちろん」と言った。
「ちょうどいいや。少し座って休もうか」
 彼は手頃な岩に腰を下ろすと、紅子にも隣に座るよう勧めた。
「でも、それじゃあ、なんでその花……?」
 紅子が竜介の手元にある花を見て言うと、彼も彼女の視線を追って、
「ああ、これか」
と言った。
「きみのおじいさんは、この先の寺で住職をしてるんだ。うちの墓もその境内にあるから、母さんがこの花を俺に持たせたのは、ついでに寄ってこいって意味だろう」
 少し間をおいて、彼は言葉を続けた。

「美弥子さんは、俺を産んでくれた人なんだ」

 またもや、まったく予期していなかった返事。
 しかも、かなり微妙な話題になり、紅子は二の句が継げずしばらく黙り込む。
 竜介は困った顔で頭を掻いた。
「できるだけさらっと言ったつもりだったんだけど、やっぱり無理だよな、この手の話は」
「いや、うん……なんか、ごめん」
 紅子はうまい言葉が見つからなくて、謝ることしかできなかった。
 足元に視線を落とすと、泥で汚れたスニーカーのつま先が見えた。
 隣に並んでいる竜介のつま先はきれいだ。
「……それじゃ、昨日涼音が言ってた、血がつながってないとかいうのはホントだったんだ」
 紅子が独り言のようにつぶやくと、それを聞きとがめた竜介は、
「いやいや、あれは本当にウソ」
と、さもバカバカしいと言わんばかりに、片手をぶんぶん振って否定した。
「涼音と俺たち兄弟は、いわゆる「腹違い」ってやつだよ。もっとも、たとえ血がつながってなかったとしても、何も変わらないけど」
 つまり――ごく常識的なことながら――彼にとって、妹は飽くまでも妹、なのだ。
 紅子はちょっと頬がゆるむのを感じた。
 なぜ?
 理由を考える前に、
「さて、そろそろ行こうか」
 竜介がそう言って立ち上がったので、紅子はそれきり考えるのをやめた。

2010.01.10一部改筆

2021.05.13改稿


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