第八十五話「赤い果実の味」


 まったく予期していなかった返事に、紅子は思わず足を止めていた。
 竜介は数歩先に進んでから、ようやく紅子がついて来ていないことに気付くと、おもむろに背後を振り返り、怪訝(けげん)そうに彼女を見た。
 紅子は思い切って口を開いた。
「ごめん、あの……つまんないこと言って」
 ややあって、竜介は相手が何を謝っているのかわかったらしく、先に見せたあの曖昧(あいまい)な笑みをまた見せた。
「うちのおふくろさん見たとき、親父にくらべて若いって思わなかった?」
「それは……若く見えるな、とは思ったけど」
紅子は独り言のように言った。
「でもそれじゃ、昨日涼音が言ってた、血がつながってないとかいうのはホントだったのか……」
「血がつながってない?」
紅子の言葉を聞きとがめ、竜介は眉をひそめた。
「あいつ、そんなこと言ってたのか?」
「違うの?」
 竜介は、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりにかぶりを振った。
「涼音と俺たち兄弟は、いわゆる「腹違い」ってやつだよ。もっとも、たとえ血がつながってなかったとしても、何も変わらないけどな」
 つまり――ごく常識的なことながら――彼にとって、妹は飽くまでも妹、ということのようだ。
 それを聞いて、紅子は安堵(あんど)にも似た奇妙な感覚を味わった。
 別に彼が強度のシスコン男であっても、それで自分が困ることなど何もないというのに。
 それはともかく。
 彼女はこのとき、涼音と彼ら兄弟のあいだに血縁が「ある」ということについても、どことなく引っかかるものを感じていたのだが、こちらのほうは疑問が疑問としてはっきりと形を取る前に、彼女の脳裏からいったん姿を消した。
 なぜなら、竜介がさっさと歩き出してしまったからだ。
 彼にそんなつもりはなかったのかもしれないが、紅子には、こちらに向けられた広い背中がそれ以上の詮索を拒んでいる、そんな気がしたのだった。

 紅子自身、母親についてあれこれ問いただされるのはあまり好きではない。
 ごく幼い頃に死に別れて、彼女のことをほとんど何も知らないせいもあるが、これまで他人から何度も同じような質問を受けてきて、うんざりしているということのほうが大きい。
 質問者にとっては初めてでも、答えるほうにとっては何十回目、というのはよくあることだ。
 ただ、竜介の場合、義理とはいえ母親がいる分、紅子とは事情が多少違うだろうけれど。
 紺野家の墓地を出たあと、道がアップダウンの多い少しきつめのハイキングコースという趣になったこともまた、紅子の考えをさえぎった。
 昨夜の雨に打たれて落ちた木の葉が鮮やかな黄と紅の絨毯(じゅうたん)を織り敷いていて、目には美しいのだが、油断していると濡れた葉に足を取られそうだ。
 ようやく勾配が緩み、紅子が足元に集中させていた視線をふとあげてみると、竜介はすでに数メートルばかり先にいて、道ばたに屈み込み、片手に何かを()み取っていた。
 彼女が追いついたことに気付くと彼は立ち上がり、フユイチゴを食べたことはあるか、と訊いてきた。
「フユイチゴ?」
 おうむ返しに訊き返す紅子に、彼は手を開いて、摘み取った物を見せた。
「これ。見たことない?」
 くぼませたその掌には、直径一センチくらいの房状になった赤い実がいくつか、宝石のように光っている。
 彼はそのうちの一つをつまむと、「どうぞ」と言って彼女に差し出した。
 受け取ったものの、本当に口に入れてもいいのかどうか紅子がためらっていると、彼はお手本を示すように自ら一つを口に放り込んで見せた。
「食ってみなよ。うまいから」
 紅子は再び、手の中の小さな実に視線を落とした。キイチゴを小振りにしたような、赤い実。
 衛生上の問題。中に潜伏している恐れのある生物(つまり、虫)。
 そういった問題が一瞬、脳裏をよぎったけれど、昨夜の雨に洗われた実の輝きは、それらを考慮に入れてもあまりあるほど魅力的だった。
 ままよ、と口に入れるや、舌の上に広がった思いがけない甘味に彼女は目を見はった。
「甘!おいしい!」
 驚く紅子を竜介は楽しそうに目を細めて見ていたが、ふと、肩に小さな重みが加わるのを感じ、そちらへ視線を転じた。
 そこには可愛らしい小鳥がとまっていた。
「お客さんだ」
 彼はそう言って、掌中の実を一つ、自分の肩にやって来た「客」にわけてやった。
 大きさでいえばスズメくらいだろうか。
 黄緑色のその小鳥は、竜介が差し出した実をくちばしで受け取るとそそくさと飛び立ち、高い(こずえ)に場所を移した。
 ごちそうをゆっくり味わうのは、人の手の届かない安全な場所で、ということらしい。
「今の、ウグイス?」
 片手を目の上にかざしながら、鳥が飛び去ったほうを見上げて紅子が尋ねると、竜介は、
「メジロだよ」
と、口の中に実を放り込みながら答えた。
「目のまわりが白かったろ。それに、ウグイスはもっと茶色がかってる」
 フユイチゴの実をもっとどうか、と勧められたので、紅子は彼の掌から新たに数粒もらう。
「でも普通は、ああいう緑色をウグイス色って言わない?」
と訊くと、
「ウグイス餅やウグイス豆の色から連想するんだろうな」
竜介は笑った。
「だけど本当は、ウグイスの羽根と同じ、渋い色だよ」
「へー、そうなんだ」
 そういえば――と、紅子は思い出した。
 祖母の形見の中にくすんだ緑色の着物があり、祖母が生前それを「ウグイス」と呼んでいた。
「鳥の絵柄が入ってるわけでもないのに、いったいどこがウグイスなんだろうって思ってたんだけど、色のことだったんだ」
 今頃になってやっとわかった。と言うと、竜介が言った。
「粋な人だったんだな」
 肉親をほめられて悪い気はしない。
 しないが、ちょっと照れくさい。
「そうなのかな。よくわかんない」
と、紅子は苦笑した。
「生きてるあいだは、石頭で融通のきかないクソババァって思うことのほうが多かったし。やれ大人しくしろだの、やれ行儀がなってないだのってさ。あたしの髪の毛をこんなふうにのばしたのも、ばあちゃんだし」
一つにまとめてみつあみにした長い髪の先を指でひらひらともてあそびながら、彼女は苦笑した。
「髪をのばせば女の子らしくなるとでも思ったのかな。そんなわけないのに」
 竜介は最後の一粒を口に放り込むと、彼女をうながして再び歩き出した。
「その髪、俺は好きでのばしてるんだと思ってた」
「惰性で放ってあるだけだよ」
 そんな他愛ない会話をしながら歩いていて、紅子はふと、さっきまで上り下りのきつさと足元の悪さに少しばかり疲れていたのが、楽になっていることに気づいた。
 今の立ち話がちょうどいい小休止になったようだ。
 一方、竜介の足取りは、屋敷を出たときから変わりなく軽い。
 そこには紅子との体力の差もあるだろうが、この山を歩き慣れているということのほうが、たぶん大きい。
 道の段差、傾斜。どこに何があるかを身体が憶えているから、足元にあまり注意を払わずともつまずくことがないし、歩幅がぎくしゃくすることもない。
 歩調を一定に保てるから、疲労は最小限ですむ。
 竜介は、あの場所にフユイチゴの群生があることを知っていて、それを口実に、足が遅れ気味になっている自分を待っていてくれたのかもしれない――と紅子は思った。
 思っただけで、確かめることまではしなかったけれど。

2010.01.10一部改筆


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