第八十四話「亡者の王」
気がつくと、薄暗い、巨大な広間にいた。
これは――昼間、VTOLの中で見た夢の続き?
彼女がそんなことを考えていると、目の前の薄気味悪い人工的な「樹木」の根元で、蠕動を続けている大小さまざまな卵のうち、最も大きなものの表面が、内側からの圧力に破裂するようにして破れた。
壁や床に彫られた饕餮紋の目が青白い光を放ち、遠雷のような咆哮を上げ始める。
それは、忌むべき卵の中から生まれくる、呪われたものへの祝福だった。
まず左右の手が、もがくように裂け目をつかむと、両側から押し開いた。続けて、粘液にまみれた頭が、続けて両肩が、ぬるりと現れる。
肩や腕は筋肉で盛り上がり、自分を包んでいた粘膜を力強く外側に押しやると、「それ」は自分の身体の重さを確かめるように、ゆっくりと立ち上がった。
饕餮紋が放つ青白い光の中、いつの間に現れたのか、黒衣にフードを目深にかぶったいくつもの影が、生まれたばかりの「それ」を取り囲んでいた。
影たちはそれぞれが、うやうやしく儀式めいた動作で、「それ」の全身をぬぐい清め、足元に織物を敷き、その手を取って粘液のプールから出してやり、青白い裸体に黒いトーガのような長衣を着せかけた。
彼らにとってたいそう重要な、尊ぶべき存在らしい「それ」は、人の、男の姿をしていた。
洗い清められた青白い肌につやつやと流れる黒い巻毛が美しい、長身の、堂々たる美丈夫。
亡者の王――
そんな言葉が彼女の脳裏をよぎる。
思えば、彼女はそのときすぐにその場を立ち去るべきだった。あるいは、目を覚ます努力をすべきだった。
だが、彼女はそのどちらもしなかった。いや、できなかった。
目の前の「亡者の王」が放つ凄絶な力の気配が、彼女をその場に釘付けにしていた。
彼はおもむろに視線を上げると、その暗い狂気を孕んだ瞳を、まっすぐ彼女に向けた。
最初から、彼女がそこに「いる」ことを知っていたかのように。
彼が、どんな力を使ったのかはわからない。
次の瞬間、凄まじい爆風が彼女を吹き飛ばし――
気がつくと、紅子は布団の中にいた。冷たい汗をびっしょりかいて。
雨は一晩で上がり、翌朝は快晴だった。
いつの間にか縁側の雨戸が開けられ、障子越しに差し込む朝の光で紅子は目を覚ました。
部屋の時計は8時近く、少し寝すぎたかと思いながら朝食を食べに食堂へ行くと、室内にいたのは食卓の前に座って寝間着とぼさぼさ頭のままで茶をすすりながら新聞を読んでいる竜介と、彼が食べ終わった皿を片づけている滝口の二人だけだった。
「おはようございます」
滝口が先に紅子に気づいてと言った。
「ちょっとお待ちになってくださいね。ただいまご朝食を運びますので」
ありがとうございます、と紅子は言って竜介の向かいに座る。
竜介は読んでいた新聞を無造作にたたむと、台所へ向かおうとする滝口に手渡してから、紅子におはようを言った。
「あたし、寝坊したかな?」
紅子が尋ねると、
「そうでもないよ」
竜介が答えた。
「俺もさっき起きたところだし、鷹彦はまだ寝てるし」
「鷹彦、ゆうべあたしたちより先に部屋に戻ったのに?」
戻った理由は、彼の意志ではなかったが。
竜介は紅子の言葉に苦笑した。
「あのあと虎光が、鷹彦がかわいそうだって言ってあいつの部屋に酒とつまみを差し入れて、そのまましばらく二人で飲んだんだとさ。さすがに鷹彦は徹夜疲れがあったから、零時すぎには寝たらしいけど」
残る貴泰は本人が言っていた通り仕事で今朝早く東京へもどり、英梨は虎光と昨夜使った座敷の後片付け、
「涼音は学校だ」
竜介がそう付け加えたちょうどそのとき、滝口が「お待ち遠様でした」と朝食を運んできたので、紅子は竜介に何かコメントを返す代わりに、配膳する滝口に礼を言って食事を始めた。
が――
学校、という言葉は紅子の胸に小さな影を落とした。
得体のしれない化物と闘うために友人や家族と離れねばならなかった自分と、何ら変わりない日常を享受している涼音。
「封印の鍵」としての役目を果たさなければ、自分には涼音のような平穏な日々は戻らない。
わかっている。
他人を羨んでも詮無い事は。
けれど、わかっているからこそ――
紅子は、舌打ちしたくなるような気持ちを心の底に押し込めた。
「そうそう、実はゆうべ、玄蔵おじさんに電話したんだ」
紅子の複雑な内心に気づいているのかいないのか、竜介は滝口が彼の湯呑みに注ぎ足してくれたお茶をすすりながらのんびりと言った。
「きみが無事に紺野の家に着いたことを知らせたら、よかった、って言ってたよ」
「ふぅん」
紅子は食事を続けながら、気のないような相槌を打つ。
「本当は、ゆうべのうちにきみに話したかったんだけど、涼音がいたからタイミングがつかめなくて。すまない」
謝る竜介に、紅子はなるべく興味のなさそうな調子で尋ねた。
「父さん、他に何か言ってた?」
「いや、特には……けど、俺には言いにくいこともあるだろうし、今夜にでも紅子ちゃんからかけ直してみるといい。おやじさんもきっと喜ぶよ」
「別にいいよ」
紅子は昨夜の、身体のどこかに隙間が空いたような気持ちを思い出していたが、口をついて出たのはそんな言葉だった。
竜介は一瞬、眉をひそめて何やら反論めいたことを口の中でつぶやいたようだったが、まもなく、苦笑混じりに言った。
「ま、気が変わったら電話してみなよ」
固定電話は台所のそばの廊下にあり、子機を部屋まで持って行っていいから、と付け加えて。
無視するのも何なので、紅子はとりあえず「うん」とうなずいたが、それきり言葉の接ぎ穂がなくなってしまった。
紺野邸は、明り取りの目的もあるのだろう、家族が集まる主だった部屋や客間などは庭に面して造っているらしい。この食堂もまた例外ではなく、開け放たれた濡れ縁の向こうに、昨夜の雨で緑が一層鮮やかになった庭を一望できた。
庭からは相変わらず、鹿威しの音。
竜介はもうこの場には用などなくないはずだが、食卓に頬杖をついてその庭をぼんやり眺めたまま、彼女の前に座っている。
ほど近い台所のほうからは、食器の触れ合う音がかすかに聞こえてくる。
静かだった。
静かだが、昨日感じたものとは違う静けさだ、と紅子は思った。
それが眼の前にいる誰かのおかげだなどということは、1ミリも認めたくはなかったけれど。
2010.01.09一部改筆
2021.05.13改稿
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