第八十三話「ホームシックの夜」
荷解きが一段落した頃、
「おやつはいかがですか?」
と、滝口がお茶を入れに来た。
部屋の違い棚に置いてある時計を見ると、まもなく午後3時になろうかという時刻である。朝食が遅かった分、昼食をおざなりにしか口にせず、小腹が減っていた紅子は、滝口が持ってきてくれたイチゴのショートケーキと紅茶をありがたくいただくことにした。
老婦人はにこにこと愛想よく、ありきたりなショートケーキですみませんとか、紅茶はミルクでいいですかなどと話しながら、座卓の上にお茶の用意を広げると、皿はあとで自分が下げに来るからそのままでいいということと、
「お風呂がわいておりますので、よろしければこのあと、お夕飯の前にどうぞ」
と言い残し、部屋を出て行った。
ケーキを頬張り、温かい紅茶を飲む。
廊下側とは反対の障子が開け放たれており、そこからは広々とした庭園やそのむこうに連なる山の稜線が、早くも傾き始めた秋の日差しに染まりつつあるのが見えた。
庭のどこかで、虫が鳴いている。
時折、鹿威しが虫の声に合いの手を入れる。
静かだった。ものすごく。
そういえば、自宅を出てからというもの、こんなふうに「完全に」一人でゆっくりしたのは初めてだ、と紅子は気づいた。
白鷺家では、一人でいるときも絶えず何かの気配がそばにあり、それはそれで落ち着かない気がしたものだが、いざこうして一人になってみると、なんだか風通しが良すぎるような気がした。
それはおそらく、ここが他人の家だということでもあったろうし、屋敷が広すぎて声や物音などちょっとした人の気配が伝わってこないということでもあったろう。
いずれにしても、そのときの紅子にとってそれは「妙にすうすうする」としか表現しようのない感覚だった。
対して、その日の夕食はたいそう賑やかだった。
風呂から上がった紅子が部屋で髪を乾かしていると、鷹彦が食事の準備ができたと知らせに来た。
彼について行ってみると、そこは、昼間彼女が涼音から教えられた食堂とは違う部屋で、二十帖はあろうかという広い座敷だった。
鷹彦が言うには、今夜の食事は紅子の歓迎会に加えて竜介と彼の慰労会を兼ねているため、特別に広い部屋を使うことになったらしい。座敷の中央にすえられ大きな長方形の座卓には、さほど目先の変わったメニューはなかったが、家庭料理としてはかなりのごちそうが大皿に載って並んでいた。
「お腹が空いたでしょ?どうぞたくさん食べてね」
部屋に入ってきた紅子を見て、食卓の準備をしていた英梨が微笑んで言った。彼女のそばでは、涼音がグラスや小皿を並べるのを手伝っている。
「私も何か手伝います」
が、紅子の言葉は鷹彦にさえぎられた。
「なーに言ってんの、紅子ちゃんはお客さんだろ。さあ、座った座った」
彼はそう言って紅子の背中を押し、すでに席についてた屋敷のあるじ、貴泰のそばの席に座らせた。座卓の角を挟んで彼の向かって左手である。向かいには虎光がいて、父親のグラスにビールを注いでいた。
「紅子ちゃんはジュース?烏龍茶もあるよ」
と尋ねる虎光に、紅子が返答するより先に横から鷹彦が、
「虎兄ぃ、俺っちにもビール注いで」
しかし虎光はにべもなく、
「お前は自分でやれ」
と、父親のグラスが満たったところで瓶ビールを鷹彦の目の前に置く。
「ちぇっ、冷たいの〜」
と不服そうに口を尖らせる末弟を尻目に、虎光は「で、どっちがいい?」と、彼の手元にあったオレンジジュースと烏龍茶のボトルを示し、改めて紅子に質問する。
「いえ、あたしも自分でやります」
「まあまあ、そう言わずに」
虎光はそう言うと、烏龍茶のほうに伸びてきた紅子の手をやんわりさえぎるようにしてボトルを取り上げ、彼女のグラスにお茶を満たした。
紅子は心中苦笑しながら彼に礼を言って、取皿に自分の分の料理を取り分けるという、自分に残された唯一の仕事をすることにした。
そんな彼らのやり取りを、貴泰はビールのグラスを片手に、細い目をさらに細めるようにして見守っていた。
とそのとき、
「ごめん、遅れた」
竜介が部屋に入ってきた――左腕に涼音をぶら下げて。
「先に始めてるぞ」
そう貴泰が竜介に声をかける。
紅子は隣にいる鷹彦が「これうまいよ」とか「料理が遠かったら俺っちが取るからね」などと言っているのを無視して視線だけ竜介のほうへ泳がせると、同じくこちらを見ていた彼と目が合った。
一瞬、竜介は何か言いたげに口を開きかけたが、
「竜介、早く食べようよ!ボク、もうお腹ペコペコ!」
涼音の声にさえぎられ、彼は紅子に苦笑だけをよこして、妹に促されるまま、紅子から見て左斜向かいの座卓の端に座った。
涼音はどうあっても、竜介を紅子から遠ざけておきたいらしい。
紅子は少し鼻白んだが、すぐに、どうでもいいと思い直し、食事に集中することにした。
貴泰は自分の娘の言動をとくに咎めだてするでもなく、しかし紅子を気遣ってはいるのだろう、
「お父さんはお元気かね」
と、話しかけてきた。
紅子は答えた。
「はい、元気です」
沈黙。
「お父さんから武術を習っているそうだね」
「はい」
再び沈黙。
「お父さんと僕がいとこだということは、竜介から聞いているかね」
「はい、聞いてます」
みたび沈黙。
傍らでこのやり取りを聞いていた虎光は苦笑した。
貴泰は紅子と同い年の娘がいるとはいえ、仕事で忙しくて実の娘とさえ没交渉な彼が、年頃の娘の扱い方など知るはずもない。一方、紅子は紅子で、親戚とはいえ知らないおじさん相手に「何を話せと?」となるのは当たり前だ。かく言う彼自身も、今どきの女子高生に受ける話題などさっぱりわからない。
こういうときこそ、鷹彦が何か気の利いた冗談でも言ってくれればいいのに。
などと虎光が都合のいいことを思っていると、まさにそのとき、アルコールでいつもの軽口がさらに軽くなった鷹彦が大声で言った。
「玄蔵おじさんっていい人だよね〜。俺っちすっかり気に入っちゃった!」
と、ここまではよかったのだが。
「父さん、俺っち一色家に婿養子に入りたいなっ!」
まさに爆弾投下。
紅子は口に入れていたポテトサラダで窒息死の危機を味わい、竜介は盛大にビールを吹き出し、虎光は父親の鷹揚な笑みが固まるのを間近に見て、酔っぱらいの冗談として慌てて笑い飛ばすことに決めた。
「あっはっは、ずいぶん酔ってるなぁ、鷹彦!」
わざと鷹彦よりも大きい声で笑う。
「ごめんよ、紅子ちゃん!酔っぱらいの悪い冗談だと思って、忘れてくれ!」
奇しくも虎光が入れてくれた烏龍茶で窒息死の危機を脱した紅子は、全身に殺気をみなぎらせながら、顔だけは笑って
「もちろんです!」
とうなずいたが、すっかり酔っているのか鷹彦はその殺気に気づかない。
「えーっ」
彼は不平そうな声を上げた。
「冗談なんかじゃっ……んぐ」
んぐ?
不自然に途切れた言葉に、紅子が横目で隣をうかがうと、座敷の騒ぎを聞きつけたのだろう、いつの間にか英梨が鷹彦の背後から手を伸ばし、彼の口をしっかり塞いでいた。
英梨は穏やかな笑みを浮かべていたが、そのこめかみに青筋が立っているのを、紅子は見逃さなかった。
彼女は優しいが有無を言わせぬ口調で言った。
「鷹彦さん?ちょっといらっしゃい。お話があります」
そのとき、紅子はたしかに鷹彦の全身から酔いが覚めていく音を聞いた。ついでに、血の気が引く音も。
今まで見たこともないほどしおたれた鷹彦が母親に連行されたあと、座敷は少しだけ静かになった。
貴泰と虎光が「怒った英梨がいかに怖いか」ということについてぼそぼそと話し合うのを聞くともなく聞きながら、紅子はようやくといった感じでゆっくり食事を味わう余裕ができた。
と、そのとき。
ふと末席のほうからの視線を感じてそちらを見ると、涼音が不機嫌そうな顔でこちらを睨んでおり、紅子と目が合ったとたん、ぷいと顔をそむけた。
「大好きな竜介」がすぐそばにいるのに、なぜ不機嫌?
涼音のことはもともと理解不能だったが、わけのわからなさは増すばかりだ。
その後、デザートがテーブルに並ぶときになっても、鷹彦は戻ってこなかった。
「さてと、少し早いが、僕は明朝、仕事で東京に戻らないといけないので、そろそろ休ませてもらうよ」
座敷のほぼ全員がデザートを食べ終えたのを見計らい、貴泰はそう言って立ち上がった。
「紅子くんも竜介も、昨夜から今朝まで、大変だったんだろう?もう休みなさい」
紅子が自室に戻ってみると、座卓の上にあった茶器は片付けられ、寝具の用意が整っていた。
時計を見ると、九時を半刻ばかり回ったところで、貴泰が言った通り、休むには少し早い。が、満腹になったせいか、もうまぶたが重くて仕方ない紅子は、床に就くことにした。
今日は払暁から十分すぎるほど動いたし、明日は明日で、竜介が何やら彼女にとって「重要な」誰かに会わせてくれるらしいから、旅の疲れを残しておきたくない。
昼間は開け放されていた庭に面した障子は、夜気が入り込まないように今は閉じられて、さらにその外側の雨戸も閉まっていたが、その雨戸をぽつ、ぽつと叩く音が聞こえた。
どうやら、外は雨が降り始めたらしい。
布団の中で目を閉じると、まぶたの裏に東京にいる玄蔵や春香の顔が浮かんだ。
眠りに落ちながら、紅子は、ああそうか、と思った。
あたし、寂しいんだ。
2010.01.09一部改筆
2019.09.02改稿
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