第八十一話「紺野家の人々・2」
涼音は、かなりボーイッシュな容姿の少女だった。
そのかん高い声を聞いたあとでなければ、紅子はきっと、彼女を少年だと思い込んだだろう。
ショートカットの髪と日焼けしてそばかすだらけの顔は快活そうで愛らしかったし、ぱっちりとした黒目がちな瞳や、整った鼻梁は、彼女の将来を充分に予言していた。
けれど、肩と腰、それに何より胸の薄さが、どうにも「少年らし」すぎたのだった。
紅子は彼女と初対面のあいさつを交わしたが、涼音の態度は家に来た客を迎えるにしてはずいぶんと無愛想なものだった。
初対面の相手からいきなり嫌われる理由などない。単に人見知りなのだろう。
そう思い、紅子はとくに気にしなかった。
というより、次の瞬間、そんなことはどうでもよくなっていた。
あいさつを終えたとたん、涼音は紅子という客人の存在などきれいさっぱり忘れたかのように彼女に背を向けると、竜介の、荷物を持っていないほうの腕に、両腕を絡みつかせるようにしてしがみついたのである。
そのまま、べったりとよりそい(そう紅子の目には見えた)、玄関へ歩いていく二人の後ろ姿は、兄妹というより恋人同士としか見えなかった。
これは、兄弟姉妹がいない紅子にとって、強烈な衝撃だった。
白鷺家の日可理と志乃武は、単に仲のいい、息のあった姉弟と思っただけだったが、兄と妹となるとここまで違うものなのだろうか――?
しがみつかれている竜介はといえば、困ったような顔をしてはいるものの、腕を振り払うわけでも叱るわけでもなく、ただ妹の言うなりになっている。
内心喜んでいるのでは、と思えなくもない。
「驚いたろ、うちのバカ妹。すっげーブラコンでさ」
鷹彦の声で、竜介と涼音の後ろ姿を呆然と眺めていた紅子は我に返った。
「う、うん。まあね。いつもあんな感じなの?」
鷹彦と並んで石畳を再び歩きながら紅子が尋ねると、彼は苦笑まじりにうなずいた。
「異常だよな、あそこまでいくと。竜兄も甘やかしすぎなんだよ。涼音のヤツ、あんな調子でちゃんとカレシ作って嫁にいけるのかどうか……ちょっと心配なんだよね、一応、兄貴だし」
やはり、あのべたべたっぷりは尋常ではないのだ。
あれで普通だなどと言われたらどうしようかと思っていた紅子は、少しほっとすると同時に、鷹彦のことを見直した。
ナンパしか頭にないお気楽なだけの三男坊かと思っていたら、妹思いなところもあるようだ。
「大丈夫なんじゃない」
紅子はいつになく鷹彦に同情的な気分になり、言った。
「高校生になれば、ああいう子も変わると思うよ」
奇妙な沈黙。
鷹彦が身体を二つ折りにして文字通り「爆笑」したのは、その次の瞬間のことだった。
いったい何がおかしいのかと紅子がむっとしていると、それまで黙って紅子の荷物を運んでいた斎が口を開いた。
「僭越ながら」
と、彼は申し訳なさそうに言った。
「涼音さまは、紅子さまと同じ、高校一年生でいらっしゃいます」
玄関では、紺野家の当主夫妻、すなわち竜介たちの両親が、そろって紅子を出迎えてくれた。
父親である紺野貴泰は、斎と同じ五十代半ばくらいの恰幅のよい大男で、その体格と、表情の読みとりづらいはれぼったいまぶたが虎光とよく似ている。
「白鷺家では大変だったそうだね。大したことはできないけど、自分の家だと思ってゆっくりするといい」
彼はそう言って、自分の家人たちを紅子に紹介した。
彼の妻、紺野英梨は、柔和な顔立ちの美人。
四人もの子供を産み育てたわりにはずいぶん若々しく、四十そこそこにしか見えない。
奇妙といえば奇妙だったが、見た目が若く見えるだけなのだろう、と、そのときの紅子は単純にそう合点した。
「家の中で何かわからないことがあれば、どんなことでも私かこちらの――と、自分の傍らに立つ割烹着姿の上品な老婦人を手で示し――滝口さんか、斎さんに訊いてね」
と英莉は優しく微笑んで言った。
この場ではおそらく最年長だろう滝口は、紺野家に長年住み込んでいる家政婦とのことだった。
白鷺家と違い、この屋敷では正体不明の式鬼を相手に話したり、実体のない気配だけを感じたりしなくてもいいらしい。紅子は少し気が楽になった。
玄関先でのあいさつが終わると、紺野夫人は涼音に言った。
「紅子さんをお部屋までご案内してさしあげなさい。お疲れでしょうから、荷物も運んでさしあげてね」
相変わらず竜介の腕にぶらさがっていた涼音は、とたんに不満そうな顔つきになり、隣にいる兄をちらりと見上げる。
だが、
「行っておいで」
と、彼から言われると、観念した様子で斎から手荷物を受け取り、目顔で紅子をうながして廊下を歩き出した。
紅子としては、同い年とはいえ初対面のこの末娘より、竜介か鷹彦に案内してもらうほうが多少は気が楽だったのだが、二人とも彼女自身と同じく長旅で疲れているだろうことを考えれば、わがままを言うことはできないので、黙って涼音のあとに従った。
涼音は彼女を部屋まで案内する道すがら、ときおり
「この向こうにお風呂場」
「あっちは居間とダイニング」
などと、指さしては教えてくれた。
それがいかにもやる気のなさそうな口調だったから、たぶん、親からそうするようにと事前に命じられていたのだろう。
たとえおざなりでも、そういった指示を素直に実行するところは多少好感が持てた。
少々ブラザーコンプレックスが過ぎるだけで、根は良い子なのかもしれない、と紅子は思っていた――少なくとも、部屋に着くまでは。
紅子のために用意された部屋は、六帖間が二間。
ぬれ縁に面した明るい部屋で、白鷺家の客用寝室に比べると格段にシンプルだったが、壊したり傷つけたりするととんでもないことになりそうな調度品がない分、居心地はよさそうだった。
何より、自分の身の丈に合っている。
「ありがとう。あとは自分でやるから」
紅子はそう言って涼音から荷物を受け取ると、部屋で荷ほどきを始めようとした。
ところが、涼音は依然として入り口に立ったまま、立ち去る気配を見せない。
「どうかした?」
紅子が内心のいらだちを抑えながら尋ねると、涼音は顔を伏せ、耳をすまさないと聴き取れないような声で、ぼそりと言った。
「……無駄だからね」
わけのわからない返事。
「はぃ?」
紅子はいらだちを隠す努力をやめた。
「悪いけど、あたし疲れてんの。用がないなら、一人にしてくれない?」
これからしばらく世話になる家の人間だからと遠慮していたが、これくらいの権利を主張することは許されるだろう。
すると、涼音はきっと顔を上げ、真剣な表情で紅子を見すえると、今度ははっきりした声音で言い放った。
「竜介に色目使っても無駄だからねっ!竜介は、ボクのなんだからっ!」
色々な意味で、破壊力満点のセリフだった。
沈黙が降りた。
長い、寒い沈黙だった。
紅子は、自分と相手のあいだを吹き抜ける、北風の音を聞いた気がした。
竜介も鷹彦も、たしかに涼音を「妹」だと言った。
なのに、なぜ目の前のコイツは、自分を「ボク」と言うのか。
いや、女の一人称が「ボク」であってはならないという法律はない――感情論的な問題は別として。
それに、突っ込むべきポイントはもっと他にある。
「だれが、だれに、いつ、色目を使ったって?」
ひりひりするこめかみを指先でほぐしながら、紅子は「だれ」と「いつ」に強く力点をおいて問いただした。
「ていうか、竜介があんたのって、どういう意味?あんたたち、兄妹でしょ?気色の悪いこと言わないでよ」
「気色悪くなんかないっ!!」
最後の一言が気に障ったらしく、涼音は真っ赤になって怒鳴った。
「血はつながってないもん!ボクと竜介は結婚するんだっ!」
2010.01.09一部改筆
2019.07.28一部改筆
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