第八十話「紺野家の人々・1」


 紺野家までの道中は特に異変らしい異変もなく、実に平穏そのものだった。空港で三人が薄気味の悪い視線を感じ、さらに紅子が正体不明の影を見たこと、その二点を除けば。
 東京から白鷺家へ向かう途中に起きたようなことが、また繰り返されるのだろうか――空港での不気味な一件は、彼ら三人を戦々恐々とさせたが、しかし、幸いにも警戒していたようなことは何もなかった。
 およそ二時間あまりのフライトは、拍子抜けするほど無事に終わったのだった。
 着陸態勢に入った機内で、鷹彦が言った。
「紅子ちゃんが見た影ってさぁ、本物のコレだったんじゃない?」
と、両手を胸の前でだらりと垂らして見せる。
 が、紅子は、
「何それ。ユーレイ?昼間っから?」
と、懐疑的な口調で反論した。
「じゃあ訊くけど、縁もゆかりもない幽霊が、なんであたしたちのことじろじろ見てたのよ」
「うーむ。それもそうか」
 鷹彦は親指と人差し指であごをはさむような仕草をして考え込む。確かに、説明がつかないねえ。
「まあいずれにしても、もうしばらくは気を抜かないほうがいいだろうな」
と、竜介が言った。
「少なくとも、うちに着くまではね」

 着陸後、彼らが機内から自分たちの手荷物を運び出していると、ターミナルビルのほうから人影が近づいてくるのが見えた。それは白髪混じりの口ひげをたくわえた初老の男で、身に着けているグレーのスーツはしわ一つなく、スラックスにはプレスのあとがくっきりとついていた。
「お帰りなさいませ。竜介さま、鷹彦さま」
彼は竜介たちのそばまでくると、深々と一礼し、言った。
「長旅お疲れ様でございました」
 竜介たち兄弟は、ただいまと返事をしてから、この穏やかな顔の男を、紺野家の執事だと言って紅子に紹介した。
(いつき)と申します。以後、お見知りおきを」
口ひげの男はそう言って、紅子に対しても丁寧に頭をさげた。
「当家にご滞在中、何かご不明なことなどございましたら、わたくしにお尋ねください。さ、お車までご案内いたします。どうぞお荷物をこちらへ」
「えっ!いえ、あの、いいです」
紅子はさし出された手を反射的に断り、荷物を抱え込む。
「自分で運びますから」
 自分の父親よりも年上の人間から、こんなふうに下手(したて)に出られることなど、これまでの彼女の人生にはなかったことだ。
 しかし、鷹彦には紅子の狼狽(ろうばい)ぶりがよほどおかしかったようで、彼はくっくと笑いながら、
「持ってもらいなよ」
と、こともなげに言った。
「それも執事の仕事の一部なんだからさ」
 竜介も、弟の意見にうなずいている。
 そ、そういうもんなの……?
「じゃあ……お願いします」
 紅子は当惑しながら小さなスーツケースを斎に渡し、彼から、
「お預かり致します」
と、またもや最敬礼を受けて、余計に落ち着かない思いを味わったのだった。

 駐車場までターミナルビルの通路を歩きながら、何も持たない両手がすかすかして居心地の悪い気分を紅子が味わっていたとき。
「あーあ、腹減ったなー」
鷹彦がのんきな口調で言った。
「お、売店発見!なあ竜兄、何か食いもん買ってかね?俺、家までもちそうにねーよ」
 昼食の時間はとうにすぎており、しかも、彼らは朝の騒動で、朝食をおざなりにしか食べていない。鷹彦が空腹をうったえるのも無理はなかった。
「そうだなぁ」
 弟の提案に、竜介がそう同意しかけたとき、斎がにこやかに言った。
「そのことでしたら、車内に軽食をご用意してございます」
 とたんに、それまで冴えなかった鷹彦の表情が、ぱあっと明るくなる。
「さっすが斎さん!気がきいてるね♪」
 彼らしいといえば彼らしい、いつもの軽口なのだが、祖父と言っても遜色ない年齢の相手へのほめ言葉としてはふざけている。しかし、斎はただにこにこと笑っているだけだ。
 竜介たちの父親が経営している企業のビルを見たときに何となく感じたことを、紅子はこのとき、あらためてはっきりと思い知った。白鷺家の姉弟を含め、彼らは、自分とは違う世界の住人なのだ。
 なぜだかため息が出た。羨望ではない、胸の痛くなるようなため息が。

 駐車場で待っていたクルマは、国産の黒のリムジンだった。斎がうやうやしい動作でそのドアを開ける。
 白鷺家のリムジンはベルベットだったが、こちらの座席はチョコレートブラウンの革張り。そこに深く腰をおろしながら、紅子はもはやこういった待遇に何の物珍しさも感じず、むしろ平然としている自分に驚いていた。白鷺家である程度免疫ができてしまったらしい。慣れというのは恐ろしいものである。
 斎が言ったとおり、車内にはあれこれと「軽食」が用意されていたが、おそらく竜介と鷹彦の胃を基準に考えられたのであろうその量とメニューは、紅子にとっては「食事」と呼んでさしつかえないようなものだった。
 斎が運転手を務める車内で、三人が料理を腹におさめるうち、車窓の景色は次第に街なかから閑静な住宅街へと移り変わり、やがてそれもまばらになった。彼らが食後のお茶を飲む頃には、道はゆるやかに蛇行する上り坂になり、辺りの景色はといえば、舗装こそされているが、鬱蒼(うっそう)とした山道に変わりつつあった。
 いったいどこへ連れて行かれるんだろう?
 紅子は窓の外を眺めるたび、深くなっていく木立に不安になったものである。
 竜介と鷹彦が平然としているところを見るに、斎が道を間違えているおそれはなさそうだが、紺野家の屋敷とは、本当にこんなとんでもない山奥にあるのだろうか。
 そんなことを考えていた、そのとき。
 軽いめまいのような、平衡(へいこう)感覚の狂いが、ほんの一瞬、紅子を襲ったかと思うと、次の瞬間、消え失せた。
「えっ?」
紅子は思わず声に出してつぶやいた。
「今の、何?」
「結界に入ったんだよ」
と、竜介。
「うちの結界は、山の霊気を利用してるから、白鷺家のとは、また少し感じが違うだろ」
「お。見えてきたぜ」
 鷹彦の声に、その視線の先を追うと、進行方向に対して左手の窓から、木立のむこうに連なる(いらか)をかいま見ることができた。
 西洋風の白鷺邸と違い、紺野邸は立派な築地塀(ついじべい)に囲まれた、純和風の木造建築だった。
 車のまま大きな門をくぐり、白い玉砂利に覆われた前庭で三人は車を降りた。門から玄関までは、客人が歩きやすいよう石畳が敷いてあり、彼らは斎にトランクから荷物を出してもらうと、その石畳をたどって屋敷のほうへ歩き出した。
 不意に玄関の格子戸が開いたかと思うや否や、屋敷の中から小さな人影が飛び出して来たのは、ちょうどそのときのことだった。
 人影は竜介の名前を呼びながら、彼に向かってまっすぐ突進するや、人なつこい犬がよくやるように彼に飛びついた。
「お帰り!!」
 嬉しくてたまらないといった感じの、それは少女の声だった。
 飛びつかれた竜介のほうはといえば、こちらも慣れた様子で、笑いながら相手を抱きとめると、
「ただいま、涼音(すずね)
と、返事をする。
 それから、彼は腕の中の小柄な少女を地面に降ろすと、紅子に向き直らせ、紹介した――彼女は、彼ら紺野家兄弟の妹で、名前を涼音と言った。

2009.10.26一部改筆


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