第八十話「紺野家の人々・1」


 眠りの中で、奇妙な夢を見た。
 空を飛んでいる夢だ。
 肉体の感覚は消失していて、風が肌に当たる感触も、耳元でうなる音も、何も感じない。ただ、視界だけが青い空の下を滑っていく。
 眼下に広がる地上の風景が妙にリアルだ。大小様々なビルの群れと、その間を縫うように走る無数の車。
 自分の意思で移動しているのかといえばそうでもなく、何かに引き寄せられるように地上から離れていく。やがて視界は真っ白になった。
 雲の中に入ったのだ。
 距離感の消失した白い視野に、ぽつんと黒いシミのようなものがあった。最初、なんともちっぽけだったそれは次第に大きくなり、やがてその巨大さは彼女を圧倒した。
 迫りくる影の大きさに彼女が本能的な恐怖を感じ始めたそのとき、雲の中から、影がその正体を現した。
 灰色をした巨大な角錐形の岩塊かと見えたそれは、近づくにつれ、瀟洒な楼閣や尖塔、精緻な彫刻をほどこしたアーチ、優美な曲線を描く列柱、複雑に入り組んだ回廊などで構成された、建築物の群れであることがわかってきた。

 雲の中に浮遊する、それは巨大な宮殿――あるいは神殿だった。

 まるで神話の中に出てくるような、この世の摂理から切り離された魔法の城。
 しかし、そこに生命の気配はない。
 よく見ればその美麗な建築の数々はそこここが朽ち欠け崩れ落ち、さらに、手入れされることなく枯れ果てた植栽がそれらに絡みつく様は、まるでかつての繁栄を忘れまいとあがく死霊の群れのように、見る者をぞっとさせた。
 しかも、なぜかこの巨大な浮遊神殿の周囲は、雲間から差し込む陽光がそれを照らすことを避けているかのように薄暗く、それがこの灰色の廃墟をさらに陰鬱に、薄気味悪く見せている。
 できることなら近づきたくない――
 そう思うよりも先に、彼女の視界は灰色の廃墟群の中に突入し、ある建物の中に飛び込んで、そこで静止した。
 彼女が飛び込んだのは、ドーム型の天井をいただく仄暗い円形の広間だった。
 石造りの床や壁に浮かび上がるのは、いわくありげな幾何学文様、そして――

 饕餮紋。

 また、彼女の目を引いたのは、その広間の中央にそびえる巨大な「樹木」だった。
 コードやダクトを思わせる大小の枝が絡み合う、生命と機械との呪われた融合体。
 その高さは3メートルはあるだろうか。
 頂点からは五本の鉤爪を思わせる枝がのび、鉤爪は赤ん坊の頭ほどの大きさの球体を掴んでいる。
 表面の文様を、めまぐるしく変えるその球体に、彼女は既視感を覚えた。
 彼女が知っている球体の色は、炎のような赤。

 だが、今目の前にある球体の色は――真闇の黒。

 床を覆い尽くさんばかりに伸びた根の節々には、卵のようなものが付着し、青白い光を放っている。
 卵の大きさは大小様々。小さいものは拳大だが、大きいものは大人が一人、胎児のように身体を小さく折り曲げれば入れるほどだ。
 その表面は殻ではなく、両生類の皮膚のようなぬめりを帯びた薄い膜。透けて見える中身は、どれも黒い球体の色の変化に合わせるかのように不気味な蠕動を繰り返している。
 そして今、その皮膜を破り、何かが生まれ出ようとしていた――



 目的の飛行場に着陸後、彼らが機内から自分たちの手荷物を運び出していると、ターミナルビルのほうから人影が近づいてくるのが見えた。それは白髪混じりの口ひげをたくわえた初老の男で、身に着けているグレーのスーツはしわ一つなく、スラックスにはプレスのあとがくっきりとついていた。
「お帰りなさいませ。竜介さま、虎光さま、鷹彦さま」
彼は竜介たちのそばまでくると、深々と一礼し、言った。
「長旅お疲れ様でございました」
 竜介たち兄弟は、ただいまと返事をしてから、この穏やかな顔の男を、紺野家の執事だと言って紅子に紹介した。
「斎(いつき)と申します。以後、お見知りおきを」
口ひげの男はそう言って、紅子に対しても丁寧に頭をさげた。
「当家にご滞在中、何かご不明なことなどございましたら、わたくしにお尋ねください。さ、お車までご案内いたします。どうぞお荷物をこちらへ」
「えっ!いえ、あの、大丈夫です。自分で運べます」
 自分の父親よりも年上の人間からこんな丁重な扱いを受けることは、これまでの紅子の人生にはなかったことだ。彼女は想定外の申し出を反射的に断り荷物を抱え込んだが、竜介たちにはその様子がおかしかったらしい。
「持ってもらいなよ。これも執事の仕事の一部なんだからさ」
 鷹彦がくすくす笑いながら言った。竜介も、笑顔で弟の意見にうなずいている。
「じゃあ……お願いします」
 紅子は当惑しながら小さなキャリーケースを斎に渡し、彼から、
「お預かり致します」
と最敬礼を受けて、またもや落ち着かない思いを味わったのだった。

「あーあ、腹減ったなー」
 VTOL機をハンガーに移動させ、整備をしてから帰るという虎光と別れて駐車場まで歩いていたとき、鷹彦がのんきな口調で言った。
 ほんの3時間ほど前、サンドイッチとホテルのモーニングを平らげたのに、しかもその後は寝ていただけなのに、どうしてそんなにすぐ空腹になるのだろう。
 紅子が驚き呆れていると、竜介も、
「そうだなぁ」
と同意。
 この兄弟は胃の中にクジラでも飼っているのだろうか。
「俺、家までもちそうにねーよ。斎さん、途中でコンビニ寄ってくれない?」
 鷹彦の提案に、斎がにこやかに答えた。
「そのことでしたら、車内に軽食をご用意してございます」
 とたんに、それまで冴えなかった鷹彦の表情が、ぱあっと明るくなる。
「さっすが斎さん!気がきいてるねえ」
 彼らしいといえば彼らしい、いつもの軽口。祖父くらいの年齢の相手へのほめ言葉としてはふざけている、と紅子は思ったが、斎はただにこにこと笑っているだけだった。
 竜介たちの父親が経営している企業のビルを見たときに何となく感じたことを、紅子はこのとき、あらためてはっきりと思い知った。白鷺家の姉弟を含め、彼らは、自分とは違う世界の住人なのだ。
 なぜだかため息が出た。羨望ではない、胸の痛くなるようなため息が。

 斎が言ったとおり、車内にはあれこれと「軽食」が用意されていたが、おそらく竜介と鷹彦の胃を基準に考えられたのであろうその量とメニューは、紅子にとっては「軽食」の範囲を優に超えていた。
 斎が運転手を務める車内で、竜介たち兄弟はその「軽食」を見る見る腹におさめていく。
「紅子ちゃんも遠慮しないで食べなよ」
 そう言われて紅子も少し口にいれたものの、すぐに満腹になってしまい、あとは二人の食べっぷりをあっけにとられて眺めるばかりだった。
 窓の外は、いつの間にか街中から住宅のまばらな山間部へと景色が変わり、彼らが食後のお茶を飲む頃には、道はゆるやかに蛇行する鬱蒼とした山道に変わりつつあった。
 白鷺家の屋敷が郊外だったことから、紺野家も同じような場所だろうと紅子は思っていたが、それにしてもずいぶんと山深い場所である。
 竜介と鷹彦が平然としているから、斎さんが道を間違えているわけではなさそうだけれど――
 などと考えていた、そのとき。
 軽いめまいのような、平衡感覚の狂いが、ほんの一瞬、紅子を襲ったかと思うと、次の瞬間、消え失せた。
「えっ?」
紅子は思わず声に出してつぶやいた。
「今の、何?」
「結界に入ったんだよ」
と、竜介。
「うちの結界は、山の霊気を利用してるから、白鷺家のとは、また少し感じが違うだろ」
「お。見えてきたぜ」
 鷹彦の声に、その視線の先を追うと、進行方向に対して左手の窓から、木立のむこうに連なる甍をかいま見ることができた。
 西洋風の白鷺邸と違い、紺野邸は立派な築地塀に囲まれた、純和風の木造建築だった。
 車のまま大きな門をくぐり、白い玉砂利に覆われた前庭で三人は車を降りた。門から玄関までは、客人が歩きやすいよう石畳が敷いてあり、彼らは斎にトランクから荷物を出してもらうと、その石畳をたどって屋敷のほうへ歩き出した。
 不意に玄関の格子戸が開いたかと思うや否や、屋敷の中から小さな人影が飛び出して来たのは、ちょうどそのときのことだった。
 人影は竜介の名前を呼びながら、彼に向かってまっすぐ突進するや、人なつこい犬がよくやるように彼に飛びついた。
「お帰り!!」
 嬉しくてたまらないといった感じの、それは少女の声だった。
 飛びつかれた竜介のほうはといえば、こちらも慣れた様子で、笑いながら相手を抱きとめると、
「ただいま、涼音(すずね)」
と、返事をする。
 それから、彼は腕の中の小柄な少女を地面に降ろすと、紅子に向き直らせ、紹介した――彼女は、彼ら紺野家兄弟の妹で、名前を涼音と言った。

2009.10.26一部改筆

2019.07.18改稿


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