第七十九話「見知らぬ影」


 こちらに来たときと同じ、白鷺家のVTOL機で紅子たちが青森をあとにしたのは、その日の正午を少しまわった頃だった。

 紅子がガラスの割れる音に気づいて何事かと脱衣所を見に行ったとき、日可理は身体にバスタオル一枚を巻いただけの状態で床に座り込んでいた。壁面を覆う大きな鏡のうち一枚が砕け、彼女の傍には壊れたドライヤーが一つ。
 紅子は小さく悲鳴をあげた。
「日可理さん!?」
 慌てて駆け寄ろうとして、床に散らばる鏡の破片に気づく。裸足では近づけない。
 紅子は急いで棚からバスタオルを取ると、破片の上に広げて日可理のそばまで行った。踏むと足の下でガラスが割れきしむ音がしたが、鋭いかけらが上質な厚手のタオルを突き破ることはなかった。
「日可理さん、大丈夫!?」
 むき出しの白い肩に紅子が旅館の浴衣をかけてやると、日可理はぴくりと震えて顔を上げた。
「……あ……」
涙でぬれた顔。放心したようなうつろな目が、紅子を映す。
「べに……さ……わた……し……」
 血の気のない唇が動き、何かを伝えようとする。
 だが、それは声にならず、ただ吐息としてこぼれ落ちていく。
 その細い息を吐ききったとき。日可理の肩が、大きくぐらりと傾いだ。
「あっ、ちょっ、しっかりして!」
 破片の上に倒れないよう、紅子は必死に彼女を支えながら、呼び続けた。だが――
 それきり、日可理は意識を失った。


「いったい、何があったんだ……」
 自問しているのか、それとも紅子に尋ねているのか、中途半端な口調で竜介はそう言うと、困惑した表情で額を押さえた。
 言葉は違えど、同じような質問を志乃武からはもちろんのこと、鷹彦からも、旅館の女将からも何度か受けた。だが、答えられることなどほとんどない。
 何があったか知りたいのはこっちだ、と紅子は思った。

 日可理が意識を失ってしばらく、紅子は驚きと混乱でおろおろと辺りを見回すだけだった。
 誰かに知らせないと。でも、日可理さんを放っておけない。
 意識のない人間の身体というのは、たとえそれが華奢な女性のものであっても、かなり重い。抱えていくのは無理だ。
 落ち着け、落ち着け、と紅子は自分に何度も言い聞かせた。こういう場所には、緊急のときのための何かがあるはず――
 と、そのとき。なぜ今まで気づかなかったのかと思うくらいあっさりと、「フロント直通」と書かれた白い壁掛け電話が目にとまったのだった。

 それから、半時ばかり後。
 日可理は旅館の布団に横たわっていた。弱々しいけれど規則正しい呼吸音がなければ、死体と間違えそうなくらい、青ざめた顔のままで。
 日可理は手に持っていたドライヤーで鏡を叩き割ったらしい、そこまでは脱衣室の状態を見れば容易に想像がつく。 しかし、なぜそんなことをしたのか。意識を失うほどに彼女を動揺させるような物がそこに映っていたとでもいうのか。
 わからない。
 日可理が目を覚まさない限り、誰にもわからないだろう。
 彼女を診にやって来た老医師――竜介の容態や紅子の足を見てくれたのと同じ人物――の見立てによれば、何かよほど強い精神的ショックを受けたのだろうが、呼吸も脈拍も正常の範囲なので、まもなく目を覚ますだろう、ということだった。
「体温が少し低い。毛布をかけて暖かくしてやりなさい」
 旅館の主人が医師を送って行った後、入れ替わりに女将がやって来て、別室に朝食の用意ができている、と告げた。
「お嬢様は私が見ておりますので、冷めないうちにどうぞお召し上がり下さい」
 そこまで言われて、旅館側の心づくしを無にするわけにもいかない。こうして四人はようやく、日可理の枕辺を離れたのだった。

 食欲などなかったはずなのに、いざ豪華な料理をまのあたりにし、なおかつそのにおいをかぐと、俄然空腹を感じるようになるから人間というのは奇妙なものだ。
 仲居に案内されて入った部屋には、広い立派な座卓の上に朝食にしては品数が多すぎるほどの料理が用意されていた。焼き魚をメインに、サラダ、汁椀、煮物、刺身、香の物、小さな変わり椀を可愛らしい籐かごにとりどりに並べた八寸からデザートまで。これが普通の旅行中であれば、紅子もその豪勢さに歓声をあげただろう。だが、あんなことがあったあとでは、到底はしゃぐ気にはなれない。ましてや、日可理と同じくらい青い顔をしている志乃武の前では。
 もっとも、鷹彦だけは普段通り、
「うっわ、すげー。さっすが白鷺家御用達旅館」
などと軽口をたたいていたが。
 しかし、その声がいつもよりワントーンばかり沈んでいるように聞こえたのは、紅子の聞き違いではあるまい。
 食卓での会話は当然のようにはずまなかった。ただ料理を口に入れ、咀嚼と嚥下を繰り返すという、文字通り味も素っ気もない食事が終わると、もう出発の時間。
 だが、日可理の意識はいまだ戻らない。身動きの取れない志乃武に代わって紅子たちを空港まで送ると言ってくれたのは、さきほどの医師を送って戻ってきた旅館の主人だった。
「すみません」
せめて玄関まではと、見送りに出てきた志乃武は、旅館のロゴが入った白いミニバンに乗り込む三人に言った。
「本当は、僕が皆さんを送るつもりだったんですが……」
 痛々しいほど沈んだその表情は、紅子の胸に重い気がかりを残した。日可理の一件とともに。

 空港へ向かう車内は静かで、エンジン音のほかは、竜介が携帯電話に向かって話す声がときおり耳に入るばかりだった。
 相手が東京にいる虎光であることは、会話の端々から容易に知れた。
 別に聞き耳を立ててるわけじゃない、と紅子は前の座席のヘッドレスト越しに見える竜介の後頭部にむかって、心の中で言い訳をする。静かだから、どうしても耳に付いてしまうだけだ。いつもならうるさいくらいに話しかけてくる鷹彦さえ、彼女の隣で黙って外を見ている。
 日可理が倒れたことや、白鷺邸が黒珠の襲撃でかなりの害をこうむったことなどを、竜介は簡潔に報告していく。それがやや事務的で冷たく聞こえるのは、あまり感情を交えない話し方だからだろうか。
 白鷺邸といえば思い出されるのは、今朝、前を通ったとき目にした自室の無惨なありさまである。紅子はひそかにため息をついた。襲撃者を退けるため仕方なかったとはいえ、自分が部屋の壊れ具合に拍車をかけてしまったことは否めない。
 床に敷かれていたあの絨毯一枚だけで、いったいどれくらいかかるんだろう。そんなことを考えていると、
「……ああ。だから、それはむこうとうちとで折半にしたらどうかと思うんだ」
などという竜介の声が聞こえてきて、ぎょっとなる。
「いや、別にむこうからはまだ何も言われてないけど……でも、あれ壊したの、俺たちみたいなもんだし。一応、言うだけでも言ってみてくれるか。……そうだな。親父に話、通しといて」
 紅子は頭を抱えたくなった。間違いない。黒こげになったあの部屋の修繕費用のことだ。
「白鷺の屋敷の修理代、半分持つの?」
 兄が通話を終えるのを待っていたように、鷹彦が座席から身を乗り出してだめ押しのような質問をすると、竜介は
「まあな」
と、あいまいに答える。
 紅子は思わず謝っていた。
「あの……ごめん」
 鷹彦がきょとんとしてこちらを見る。
「なんで紅子ちゃんが謝んの?」
「だって、あの部屋を黒こげにしたの、あたしだし……」
 詳細を知らなかった鷹彦は、しかし紅子からそう告げられても、
「へー、そうだったんだ?」
と、さして驚いた様子もない。
 竜介のほうも、
「気にしなくていいよ」
と、携帯をシャツの胸ポケットに戻しながら、リアシートを振り返って言った。
「あの状況じゃ、仕方ないさ。命には代えられないだろ」
「ちなみに、修理代っておいくら万円?」
 弟のつっこんだ質問に、竜介はニヤリと笑う。
「世の中には、知らないほうがいいこともあるんだぜ」
が、その言葉で、紅子は余計に胃が痛くなる気がしたのだった。

 彼らが空港に到着したとき、白鷺家のVTOL機はすでに駐機場に出ていて、滑走路に出るのを待っていた。
 実際、離陸予定時刻まではもうあまり時間がない。旅館の主人に礼を言って、急ぎターミナルビルに足を踏み入れる。
 と、そのとき。
 何か冷たいものが首筋をかすめた気がして、紅子は思わず顔をしかめた。
 竜介と鷹彦を見ると、彼らも同じく、得体の知れない不快感を覚えているらしい。三人はほとんど同時に足をとめた。
 最初に口を開いたのは鷹彦だった。
「何だ、これ?」
「見られてる」
 竜介は短くそれだけ言うと、注意深く周囲を見回す。
 だが、平日の朝、小さな地方空港のターミナルビルを往来するのは、出張らしい急ぎ足のビジネスマンや、オフシーズンの料金を利用して旅行を楽しむ高齢者たちくらいしかいない。空港の職員。売店の店員。彼ら三人に特段注意を払っている者など、誰もいない。
 少なくとも、実体を持つ者の中には、誰も。
 紅子はゆっくりと気配の元をたどっていく。二つ目の魂縒を受けたせいか、体感が鋭さを増している。
 全身が目になったみたい、と彼女は思った。新鮮な感覚。
 左肩にひやりとしたものを感じて、そちらを振り返る。そして――
 壁際に並ぶ、柱の影。そこに、黒い影がたたずんでいた。奇妙に輪郭のぼやけた、背の高い影。明るい室内で、人の姿がこんなふうに見えることなど、ありえない。
「見て、あそこ!」
   ところが。
 紅子がそう叫んだとたん、影は消えた。
 まるで、最初からそこには何もなかったかのように、忽然と。

2009.10.26改筆


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