第七十八話「壊れた鏡・4」


 そのとき、紅子は日可理の様子がどことなくおかしいことに気づいた。
 彼女の顔は青ざめ、その目は視点が定まらずにぼんやりしている。
「……日可理さん?」
 紅子が声をかけると、日可理はハッと息を呑み、我に返ったようだった。
「あの、大丈夫ですか?ちょっと顔色がよくないみたい」
 日可理はこわばった笑みで頭を振った。心のどこかから湧き上がってきた、あの恐ろしい声を振り切ろうとするかのように。
「ああ、ごめんなさい、大丈夫です」
 きっと、昨夜の疲れが出てきたのだ。
 日可理は声に出さずにひとりごちる。
「なら、いいんですけど……」
紅子は日可理のややぎこちない笑顔とは裏腹の「大丈夫」という言葉に納得していなかったが、しつこく念押しするのも失礼な気がして、話題を変えることにした。
「それはそうと、今回は誰も怪我をしなくてよかったですね」
「ええ、本当に」
 笑顔でうなずく日可理に少しほっとしながら、紅子は続けた。
「あの、こんなこと言うと笑われるかもしれないけど、あたし、昨夜変な夢見ちゃって。それでまた誰か怪我したらどうしようって、ずっとヒヤヒヤしてたんです」
 日可理は意外に思った。
 現代の女子高校生然として見える紅子が、夢の内容を気にするなんて。
「夢、ですか?」
「はい。迷信くさいですよね」
紅子は苦笑した。
「うちのおばあちゃんが、夢は大事だよってよく言っていたせいだと思うんですけど」
 日可理がくすっと笑って言った。
「わたくしの祖母も同じようなことを言っていましたよ」
 祖母の言葉が脳裏によみがえる。

 夢をおろそかにしてはいけないよ。あれはお前の無意識の鏡、未来の吉凶を映し出す――

「差し支えなければ、どんな夢だったか教えていただけます?」
 しかし、紅子は残念そうにこう答えた。
「それが、あんまりよく覚えてなくて」
 ただ、と彼女は続けた。

「ただ、目が覚める直前に、ものすごい悲鳴を聞いたような気がしたんですよね……」

 どきん。
 悲鳴、という言葉に、日可理の心臓が、大きく跳ねた。
「目が覚めたときは外ですごく静かだったし、周りには竜介と鷹彦しかいなかったから、すぐに夢だってわかったんですけど、なんだか気になって……」
 話し続ける紅子の声が次第に遠のき、入れ替わるようにして聞こえてきたのは、恐ろしい悲鳴だった。

 叫んでいるのは、自分の声。

 気がつくと、日可理は湯船の中で立ち上がっていた。
「日可理さん?」
 紅子が驚いた顔でこちらを見上げている。
「少し、湯当たりしてしまったようで……」
日可理はとっさに慌てて言い繕った。
「申し訳ないのですが、わたくしは一足お先にロビーで休んでいます。紅子さまはどうぞ、ごゆっくりなさってください」
 そう言い残し、「えっ?ちょ、あの」と当惑する紅子をあとに、彼女は湯当たりしたというには血の気の失せた顔で、早々に風呂場を出て行ったのだった。


 脱衣所へ戻った日可理は、ひどい吐き気を覚え、逆流してきた胃の内容物を洗面台に戻した。
 水で吐瀉物を洗い流し、口をすすいで顔をあげると、見たこともないほど青ざめた自分が、鏡の中にいた。
 何をそんなに動揺しているの。日可理は鏡に向かって、声を出さずにつぶやいた。
 紅子が「夢の中で」悲鳴を聞いたと言ったあのとき、何かを思い出しそうになった。

 何か――恐ろしいことを。

 日可理には、意識を失う直前の記憶がない。
 少女の姿をした黒珠と闘い、化けミミズの群れに絡めとられて身動きができなくなった、そこから先ことがまったく思い出せないのである。
 どのようにして意識を失うにいたったのか、その経緯の部分がない。
 まるでカットされたビデオのように、その記憶は、志乃武に名前を呼ばれて意識を取り戻す場面へ飛躍している。
 この記憶の欠落については、志乃武も知っている。
 おそらく怪物に捕らえられたその直後に、日可理は過度の恐怖からか、あるいは窒息させられたかで意識を失ったのだろう。
 彼はそんな仮説を立てて見せ、また日可理自身も、そんなところだろうと思っていた――

 たった今、「何か」を思い出しそうになるまでは。

 紅子の話を、単なる夢と片づけるのはたやすい。
 一階にいた日可理がたとえどんなに叫んでも、三階で眠る紅子を驚かすことは不可能だ。
 何より、覚醒していた三人のうち、誰もその「悲鳴」を聞いていない。
 だが、紅子の耳に届いたのが物理的な音声でなかったとすれば、話は違ってくる。
 彼女に感応力があるらしいことは、白珠の魂縒のとき、既にわかっているのだから。

 紅子が聞いたという「悲鳴」は、日可理の精神が発したものだったとしたら?

 何より、ただ記憶を手繰ろうとするだけで全身が震え、冷たい汗が噴き出してくる、この状態は尋常ではない。
 それに、あのとき圧倒的優位にありながら、黒衣の少女はなぜ日可理の命を奪わなかったのか、という疑問もある。
 日可理は洗面台にもたれかかり、その端を両手で強くつかんだ。
 足が震えて、力が入らない。
 おぞましいあの怪物の群れに捕らえられた後、何かがあったに違いない。
 何か、この白珠の娘を生かしておくほうが都合がいいと、あの少女に思わせるようなことが――
 思い出さなければ。
 日可理は決意を固めた。
 いかなる苦しみを伴うとしても、記憶を取り戻さなければ。
 己れの不手際で、紅子の命を、この世界の未来を危険にさらすことはできない。
 と、そのとき――
「まあ、責任感の強いこと」
嘲弄するような声が、聞こえた。
「でも、そこまでして守る価値が、本当にあるかしら――あなたではなく、あの子が、あの人と幸せになる未来を?」
 日可理は声の主を捜してしばらく視線をさまよわせていたが、ふと目の前の鏡を見たとき、彼女の全身は凍りついた。
 そこには、唇の両端をつり上げて笑う、もう一人の日可理がいた。
「どうして、苦しい道を自ら進んで選ぼうとなさるの?」
青ざめた顔で、悲鳴を上げることも忘れて鏡を見入る実体に対し、鏡の中の影はそう尋ねた。
「せっかくわたくしが、恐ろしい記憶を封じてさしあげたのに。わたくしにすべてを委ねておしまいなさいな。そうすれば、あなた、本当に楽になれてよ」
「きっ……」
恐怖で口蓋に貼りついた舌をむりやりひきはがし、ありったけの気丈さをかき集めると、日可理はようやく、かすれた声で叫んだ。
「消えなさい!わたくしには……わたくしには、白珠の者としてこの世界を守る義務が」
「そう?」
鏡の中の影は、実体の言葉をあっさりさえぎった。
「でも、そうして我が身を犠牲にして、あなたに何が残るというの?」
 日可理は耳をふさぎ、強く目を閉じる。
 それでも、声は続いた。
 まるで、声の主は彼女の身の内にこそ棲んでいるかのように。
「残らないわ。あなたには何も残らない」
「たとえそうであっても!世界の滅亡に荷担するようなことは……!」
「滅亡ではない。やり直すのです。すべてを、最初から、もう一度」
その声音は優しく、甘く、日可理の耳に響いた。
「可哀想な日可理。あなたを星の縛めから解き放ってあげましょう。すべてから解放された、新しい 世界をあなたにあげる。その世界では、あの人と結ばれるのは、あなた……あの人とあなたが」

 ガシャン!

 けたたましい破壊音とともに、あやかしの声は途切れた。
 日可理が鏡に向かって、洗面台に備え付けのドライヤーを投げたのである。
 鏡にはクモの巣状にひびが入り、ドライヤーは壊れて床に転がった。
 日可理は荒い息を吐きながら、その傍らにくたくたと座り込んだ。
 床に散乱する、鏡の破片。
 そこに映る日可理の姿もまた、ばらばらに砕けていた。

2010.01.09一部改筆

2019.04.09改稿


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