第八十二話「紺野家の人々・3」


 あまりに突拍子(とっぴょうし)もない涼音の発言に、紅子が二の句を()げずにいた、そのとき。
「誰と誰の血がつながってないって?」
 どこかで聞いた憶えのある声。
 紅子は涼音とほぼ同時に声のしたほうを振り返ったが、さっきまでたしかに廊下だったはずのそこには、なぜか壁がそびえていた。
 涼音はその壁に向かって驚いたように言った。
虎兄(とらにい)
 すると、上のほうから先と同じ声が降ってきた。
「うそはよくないなぁ、涼音」
 目の前のそれは壁ではなく、虎光の巨体なのだった。
 やんわりとたしなめる次兄に、涼音はぷぅっと頬をふくらませる。
「だって!」
「だってじゃない」
虎光は抗弁しようとする妹を、ぴしゃりとさえぎった。
「父さんや母さんが聞いたらどう思うか、考えてみろ。竜兄だって悲しむぞ」
 反論の余地を失った涼音は、一瞬、不満げな、ばつの悪そうな顔を見せたあと、子供じみたかんしゃく玉を爆発させた。
「虎兄のバカ!!」
 絵に描いたような捨てゼリフを残して走り去っていく妹の後ろ姿を、ため息をつきながら見送った後、虎光はおもむろに紅子に向き直り、頭を下げた。
「うちの愚妹がとんだ失礼をして、申しわけない」
 身長二メートル近い偉丈夫(いじょうふ)に深々と謝罪され、紅子は恐縮した。
「あの、やめてください。気にしてないですから。……でも、血がつながってないなんて、何であんなこと」
 さぁね、と、虎光も苦笑して首をかしげた。
「あいつ、うちに来た兄貴の女友達には、必ず一度はああいうこと言うんだ。ま、あいつなりに、ライバルを牽制(けんせい)してるつもりなんだろうなぁ」
 ライバルを……牽制?
 頭が痛くなった。
 妹が兄の女友達にいちいち嫉妬したり対抗心を燃やしてどうなるというのだろう。
「……わけがわかんないんですけど」
「わからなくて普通だよ、俺にもわからん」
と、虎光は細い目をさらに細めて笑う。
「うちの涼音のほうが変なんだから。まあ、あいつがあんな極度のブラコンになっちまったのは、元をただせば兄貴にも責任があるんだけど」
 そう言って彼は、涼音がまだ幼かった頃、仕事で家を空けることが多い父親の代わりに、一番年の離れている竜介が母親を助けて涼音の面倒を見ていたことなどを話した。
 竜介は初めてできた妹が可愛くて仕方なく、もともとの面倒見のよさが裏目に出て、彼女をべたべたに甘やかしてしまったらしい。
 多忙な父親と顔を合わせることさえままならない妹への憐憫(れんびん)もまた、その甘やかしに拍車をかけてしまったようだ。
 聞いてみれば、その経緯には同情の余地が全くないわけでもない――もっとも、同情できるということと、紅子が涼音のあの執着ぶりを理解するということは、まったく別の問題なのだけれど。
 しかも、涼音が紅子からの同情を喜ぶかどうかといえば、これははなはだ疑問と言わざるを得ない。
 それはさておき。
 虎光が話をしているあいだ、紅子には別に一つ、気になって仕方のないことがあった。
 彼の服装である。
 そのときの虎光は、ずいぶんと薄汚れたグレーの作業着を着て、顔も(すす)のようなもので汚していた。
 ここは彼の自宅なのだから、どんな格好でいようと彼の勝手といえば勝手なのだが、それにしても少々汚れすぎている。
 初めて会ったとき、仕立ての良いスーツに身を包み社会人然としていた彼からは、想像できない姿である。
 竜介といい、紺野家の人間は他人に与えた印象を良きにつけ悪しきにつけ裏切るのが好きなのだろうか。
 紅子がそんなことを考えていた、そのとき。
「虎光」
廊下の向こうから、当の竜介が現れた。
「なんだお前、まだ着替えてなかったのか」
 呆れたような兄の言葉に、虎光は苦笑した。
「部屋にもどろうとしたら、涼音のヤツがまた例のごとくとんでもないこと言ってるのが聞こえたもんでね。ちょいとたしなめておいたよ」
 それを聞いて、竜介は苦り切った顔になり、「またか」とつぶやいた。
 彼女の虚言には、彼も手を焼いているらしい。
「で、当人は?」
 兄の質問に、虎光は幅の広い肩をすくめた。
「おおかた、自分の部屋ですねてるんじゃないか」
それから彼は真面目な口調でこうつけ加えた。
「一度きつく言ったほうがいいぜ」
 竜介はため息と一緒に答えた。
「わかってる」
 虎光がこの返事をどう解釈したのかはわからない。
 ただ彼はもう一度小さく肩をすくめてから、紅子に向き直り、
「こんな小汚い格好で失礼したね。ガレージで車いじりなんかしてたもんだから」
 それじゃまた夕食の時に、と軽く手を振ってきびすを返し、彼は廊下を歩いて行った。
「車いじりって?」
 虎光がいなくなったあとで、紅子は本人に尋ねそびれた質問を、まだかたわらにいた竜介に訊いてみた。
「あいつの趣味でね」
と、彼は言った。
「仕事が休みの日、こっちに愛車持って帰ってメンテするんだ。ほら、憶えてるかな、病院から帰るときとか、本社ビルまで行くとき、使った四駆」
「あー、あの」
 紅子は大きくうなずいた。
 忘れもしない、あのメタリックブルーのランドクルーザー。
 あれは虎光のものだったのか。
 しかし、東京からここまで車で帰ってくるとなると、片道だけでかなりの時間を費やすことになるのではないだろうか。
 紅子がそのことを言うと、竜介は、関越道と上信越道、それに北陸道を経由して片道六時間あまりかかる、と苦笑しながら答えた。
「あいつの車、普段は会社の駐車場に置きっぱなしだから、ちょうどいいドライブのつもりなんだろう。乗って帰るって言っても、せいぜい二、三ヶ月に一度だし。それに、うちのガレージ、個人宅にしちゃ設備が整ってるからね」
「はぁ……」
 紅子は釈然(しゃくぜん)としない面持(おもも)ちでうなずいた。
 たとえどういう理由があるにせよ、片道六時間かけてというのはちょっとただごとではなかろう。
 虎光はよほどの車好きに違いない。
 疑問が解けたところで、紅子は放り出したままになっているスーツケースを横目でちらりと見た。
 さっさと荷ほどきを終えてゆっくりしたい――と思ったところへ、竜介が、
「ところで」
と、話題を変えた。
「明日、朝食のあとでちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」
 何だろう。
 魂縒のことかと紅子が尋ねると、彼はかぶりを振った。
「そうじゃないけど、きみのとっては、それと同じくらい……いや、もっと重要なことだと思う」
 怪訝(けげん)な顔をする紅子に、竜介は言った――きみに会わせたい人がいる、と。

2010.01.09一部改筆


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