第七十一話「死神・3」


 凄まじい女の悲鳴が聞こえて、紅子は飛び起きた。
 ずっと、不安な夢を見ていたような気がするが、定かではない。
 今聞こえた悲鳴は、夢か、それとも現実か。
 心臓が、耳元で早鐘を打っている。
 周囲は、目を閉じているのと大して変わらない、暗闇だ。
 白珠の魂縒を受けたという記憶はある。が、その後、どうなったのだろう?
 眠っていたのだから記憶がなくて当然なのだが、その空白が、彼女をさらに不安に陥れる。
 混乱のあまりパニックになりかけた、そのとき。

「お姫さまのお目覚めだぜ」
続けて、
「ひとまず、やれやれだな」

 そんな会話が、どこか近くでぼそぼそと聞こえた。
 闇に紛れて姿が見えなくとも、その声がだれとだれのものかは、すぐにわかる。
 名前を呼ぼうと大きく息を吸い込んだが、そのとたん、口をふさがれた。
「シーッ」
という破擦音が耳のそばで聞こえた。
「声を立てるな。見つかっちまう」
 竜介の声。
 その姿と気配は、闇の中に溶けてしまっているが、彼はたしかに、すぐそばにいる。
 それだけで、紅子は自分の気持ちが悔しいほど落ち着くのを感じた。
 いったん平常心を取り戻すと、状況を冷静に判断する余裕も出てくるものだ。
 紅子は、竜介の言葉から、

 見つかってはいけない何かがいる、ってことか。

と推測した。
 その「何か」とは、黒珠で間違いないだろう。だから、竜介も鷹彦も、姿のみならず気配まで完璧に殺しているのだ。
 わかったということを示すために、紅子がこくりと顔を上下させると、口をふさいでいた手が離れた。
 訊きたいことは山ほどあるが、声を立てるなと言われた以上、発言は最小限に抑えたほうがいい。
 紅子は、ひとまず、ここがどこなのかを知るために、辺りを見回した。
 自分の手や、腰から下を覆っている毛布など、白っぽいものは闇の中にかろうじて浮かび上がって見える。
 それは、何らかの光源がどこかにあるということだ。
 頭上に目を向けると、そこにあったのは天井ではなく、生い茂った木の葉と、その隙間からのぞく細い月と星空だった。
 頬に当たる空気は冷たく、青い芝草の匂いが混じっている。
 魂縒を受ける前日の昼、かいだのと同じ匂いだ、と紅子は思った。

 ここは、白鷺邸の庭のどこか――?

 腰を下ろしている地面が固くないのは、毛布の下の芝草のおかげだろう。
 毛布は、紅子の腰から下にしっかり巻き付けられていて、脚を動かしづらいほどだ。
 気温のわりに身体が冷えていないのは、眠っているあいだ、この毛布で包まれていたからだろう。

 竜介たちは、魂縒のあとの眠りから覚めないあたしを、黒珠から隠すために、ここまで運んできてくれたんだろうか……。

 紅子はありがたいような、申しわけないような気持ちになった。

 それにしても、四人いても逃げ隠れしなければならないようなことになっていたなんて――

と考えて、紅子は残る二人の声をまだ聞いていないことに気づいた。
「日可理さんと志乃武さんは?」
 紅子はできる限り声を低くして、竜介と鷹彦がいるとおぼしき空間にむかって尋ねた。
 すると、
「志乃武さまは、日可理さまを介抱しておいでです」
 ややあって、闇の中から、聞き慣れた式鬼(しき)の声が聞こえた。
「朝顔?夕顔?」
「私は夜顔(よるがお)。志乃武さまの式鬼です」
 志乃武さんも式鬼を使うんだ、と紅子は思ったが、今はそんなことはどうでもいい。
「日可理さん、どうかしたの?」
「お命に別状ありません。ただ、意識を失っておいでです」
 式鬼は単純な命令を実行させる分には便利なのだが、こういう複雑な言葉のやりとりにおいては、はなはだまだるっこしい。
 紅子がちょっとイラッとしたところに、
「俺から話すよ」
そう言って、竜介が、今は紅子が白珠の魂縒を受けた日の深夜であることや、停電のこと、黒珠の襲撃を受け、結界が破られたことなどを、手短に説明した。



 少女の姿をした黒珠の相手を、日可理一人に任せて来てしまったことに、後ろめたさや気がかりを感じつつ、紅子の部屋へもどってきた竜介だったが、ここでまた一つ、問題に突き当たった。

 ドアが開かない。

 鍵がかかっているわけではなく、内開きのドアに体重をかければ、隙間はわずかに開く。
 だが、それ以上はびくともしない。
 まるで、何か柔らかい物が、ドアの向こう側に充満していて押し返してくるような、そんな感じだった。
 室内の様子がわからない竜介は、首の後ろを焼く、黒珠の気配に焦りを募らせた。
 志乃武と鷹彦を大声で呼びたいが、そんなことをすれば、日可理と対峙している黒珠に、この部屋の場所を知られてしまう。
「まさか、この向こう側は、もう黒珠しかいないのか……?」
 思わずそう独りごちた、そのとき、

「このままでは、そうなるのも時間の問題ですね」

 竜介が驚いて声の方を振り返ると、淡い黄緑色のメイド服を着た少女が立っていた。
「志乃武さまの式鬼、昼顔(ひるがお)と申します」
 顔や姿が日可理の式鬼とそっくりな少女は、そう自己紹介してから、内側の様子を教えてくれた。
「……ということは、三人とも無事なんだな」
 竜介は、多少ほっとして言った。
「はい。少なくとも、今のところは」
 式鬼の仕草や表情は、使い手に似るものらしい。昼顔の少し皮肉っぽい口調は、志乃武にそっくりで、竜介は思わず苦笑した。
「今のところは、か」
 それはつまり、志乃武や鷹彦の体力に限界が来る前に、なんとかしなければならない、ということだ。
 しかし、まず中に入れないことには――
 などと考えながら、開かずの扉を眺めていた竜介は、ふと鼻をつく奇妙な匂いに気づいた。

 油――?

 揮発油に似た匂いだ。ドアの隙間から漂ってくる。
 竜介はドアに体重をかけて押し開けると、できた隙間に素早く手を差し込んで、ドアの内側をさっとなでた。
 指先についてきたのは、ねっとりとした松脂(まつやに)のようなもので、辺りに漂うのと同じ匂いを放っていた。
 中にいる黒珠の化け物の体液だろうか?
 そのとき、一つの閃きが、頭をよぎり、竜介は、かすかに頬を緩めた。

 もしこれが、俺の思っている通りのものなら……試してみる価値はある。

 ちょっとやそっとでは蹴破ったりできそうにない、重厚なオーク材のドアに両手を置くと、竜介は昼顔を呼んだ。
「鷹彦に、真空の壁を厚めにするように言ってくれ」
その身体が、青く輝き始め、小さな金色の稲妻がドアを包んでいく。
「それと、志乃武くんには、部屋一つ、丸焦げにするかもしれないけど、ごめん、って!」

 言い終わるのと、稲妻の閃きが最高潮に達したのは、ほぼ同時だった。

 凄まじい爆発がドアの向こう側で起き、触れていた扉ごと、竜介を吹き飛ばす。
 頑丈な戸板のおかげで、やけどを負わずにすんだものの、反対側の廊下の壁にしたたか背中を打ち付けて、彼はしばらく身動きできなくなった。
 が、もくろみは成功したらしい。
 燃えさかる炎で廊下は真昼のように明るくなり、くだんの化け物の断末魔だろう、甲高い悲鳴のような音が戸板の向こう側から聞こえた。
 竜介は、その間に自分の治癒能力で背中の打ち身を癒やすと、静かになるのを待って、そっと室内の様子をうかがおうとした。
 そのとき。
 どかん、と、ものすごい音を立てて戸板が吹っ飛んだかと思うと、

「竜兄――!!」

 鷹彦が抱きついてきた。
 昔から、スキンシップのやや多い弟ではあるが、この二日ほど、とくに増えている気がする。
 竜介は、心配されてありがたいような、いちいち抱きつかれてうんざりするような、複雑な気持ちで、とりあえず互いの無事を確かめ合うと、立ち上がって部屋に入った。
 竜介が、依然として眠っている紅子の無事を確認していると、鷹彦が声をあげた。
「あれっ、志乃武くんは?」
 確かに、室内に志乃武の姿が見当たらない。
 困惑する二人に、
「志乃武さまは、日可理さまのところに向かわれました」
さっきまで竜介のそばにいた、昼顔とうり二つの少女が現れて、答えた。
 違うところといえば、着ているメイド服の色が深緑色だということだけだ。
 鷹彦が、これは夜顔という名前の志乃武の式鬼だと紹介してくれた。
 夜顔は続けて言った。
「日可理さまは意識を失っておいでです。黒珠は、志乃武さまが足止めしておられますが、早く部屋を出て身を隠すように、とおっしゃっています」
 あの少女姿の黒珠は、かなり手強い相手のようだ、と竜介は思った。
 おそらく、今の爆音を聞きつけて、こちらへ来ようとしているに違いない。
 加えて、この部屋にいた化け物までもが、またもどって来たら――
「でも、隠れるって、どうやって?」
 鷹彦が、まるで竜介が抱いているのと同じ疑問を口にした。
「私と昼顔は、人の気配を隠すことができます。闇にまぎれて、声さえお立てにならなければ、夜明けまでしのぐこともできましょう」
 夜顔のその返事で、竜介の考えは決まった。
「鷹彦。俺が飛び降りたら、風を起こして着地を助けてくれ」
 それだけ言うと、彼は紅子の身体を手早く毛布でくるみ、抱き上げた。
 少女姿の黒珠と鉢合わせする恐れがあるので、廊下には出られない。フランス窓を背中で押し開けて柵を越えると、そのまま眼下の暗闇へ飛び込んだ。

2010.01.01改筆

2016.03.01改稿


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