第七十二話「死神・4」


 これまでの経緯をひと通り話し終えたあとは、夜顔の助言に従って誰も口を開かなくなった。
 竜介だけでなくあのおしゃべりな鷹彦まで一言も喋らなくなり、紅子は眠りから覚める間際に聞いた悲鳴が日可理のものだったのかどうかを確かめる機会を逸していた。
 夜顔の話では、竜介と鷹彦が紅子を抱えて部屋を出た後、志乃武もまた、日可理を抱えて黒珠から逃れたらしい。
 日可理は意識を失っているだけでケガはないとのことだったが――
 あのとき、紅子が日可理の声を聞くことなど、物理的に不可能だということは、よくわかっている。
 けれども、単なる夢として忘れてしまうには、あの悲鳴の響きはあまりに生々しく、紅子の耳について離れなかった。

 何かの前触れなのか、それとも、その「何か」はすでに起きてしまったのか。

 夜顔がそうしているのだろうが、周囲には誰の気配も感じない。
 不意に夜気が冷たさを増したような気がして、紅子はそっと毛布を肩に引き上げると、自分の脚を抱えて丸くなった。裸足の足先が冷たい。

 明け方までこのままかと思うと、思わずため息が出た。と、その時――

 ピチャ……

 闇の中から、水音が聞こえた。

 池で魚が跳ねたような音。
 だがそれは、全身が粟立つようなあの痛痒感とともに、紅子の耳に届いた。
 身構える暇さえなかった。
 今まで座っていた地面が、いきなりぐにゃりとぬかるんだかと思うと、何かが彼女の身体に巻きつき、それをくるんでいる毛布ごと引きずり込んだ。
「キャアアッ!?」
 声を出してはいけないという夜顔の言いつけを思い出すより先に、喉が勝手に悲鳴を上げていた。
「紅子ちゃん!?」
 異変に気づいた竜介と鷹彦の声。
 次の瞬間、青く輝く手が、ゲル化した地面に飲み込まれまいと闇雲に伸ばした紅子の手をつかんだ。
 竜介の手だった。
 それを懸命に握り返す彼女の視界の端には、鷹彦がこちらに背を向けて立っているのが見えた。その姿も、闇に青く浮かび上がっている。
 さらにその先、鷹彦の肩先の向こうの闇に、もう一人――
 誰だろうと思うより早く、その小さな影が声を発した。

「ようやく目通りがかなって嬉しく思うぞ、炎珠の神女」

 それは、今にも闇に溶けてしまいそうな、全身を黒衣に包んだ、小柄な少女だった。
 少女の姿に似つかわしくない、枯れた、抑揚のない声。
 呼びかけられても返事をするどころではない紅子に代わり、鷹彦が言った。
「なぁんで俺っちたちがここにいるってわかっちゃったかなぁ?」
「知ってどうする」
薄気味悪いほどの無表情のまま、そう言った次の瞬間、黒衣の少女は鷹彦のすぐ目の前にいた。
「貴様らは、皆、今ここで死ぬ」
冷たい吐息が鷹彦の顔に触れ、少女の小さな手の甲からのびた長大な鎌が、彼の首に吸い込まれていく。
 だが、

「死ぬのはてめーだよ」

 鷹彦がポケットに両手をつっこんだまま、吐き捨てるように言った、その瞬間、彼の青く輝く身体の周囲で風が猛烈なうなりを上げ、少女の細い身体を弾き飛ばした。
 そのまま地面に叩きつけられるかに見えた黒衣に包まれた身体は、しかし、黒い枯れ葉が風に舞い落ちるように、ひらりと衝撃から体勢をたてなおす。
「……なるほど、風を使うのか」
少女は独り言のようにつぶやいた。
「面白い……」
 両手の甲の刃が、雲間からのぞく細い月の光を、きらりと跳ね返す。
 鷹彦はゆっくりと、両手をポケットから出した。
 彼を取り巻く風のうなりが高まる。それはまるで、主人に従う忠実な獣が、敵を威嚇するかのように。
 と、その時。
 比喩ではなく、風が生臭い匂いを運んできた。

 獣臭――

「へえ、ずいぶん楽しそうじゃねえか」
闇の中から、声が聞こえた。
「オイラも混ぜてくれよぅ……」


 それよりも少し前。
 正体不明の化物に捕われた紅子は、竜介が懸命に引き上げようと抗うのもむなしく、じわじわと地の底へ沈みつつあった。
 紅子は足に絡みつく触手状の何かを蹴りつけて這い上がろうとするが、足は虚しくすべるばかりで、かえって身体が沈んでしまう。
 竜介は片手で紅子の腕をつかみ、もう片方の手で手近にあった低木の、なるべく太い枝を、とっさに選んで握っていたが、枝はミシミシといやな音を立て、紅子をつかんでいるほうの手も、汗ばんで今にもすべりそうだ。
 このままでは、まずい。
 二人ともそうは思うものの、形勢を逆転する妙手がない。
 ヌルヌルと得体のしれないものが肌にまとわりつく感触に、紅子は全身が粟立つのをおぼえた。
 揮発油のような独特の匂いにも、胸がムカムカする。

 あの夜、飛行場で嗅いだ、ガソリンと似た匂い――
 その時、紅子の頭の中でひらめくものがあった。
 油。
 竜介が燃やした化物。
 いけるかも。というか、これしかない!
「竜介。あたし、一つアイデアがあるんだけど」
「だめだ」
 竜介が即答。
 アイデアの中身を披露する前に一蹴され、紅子は怒り出した。
「まだ何も言ってないじゃん」
「君が何を考えてるかくらいお見通しだ」
竜介は早口で言った。
「さっきの話と同じように、こいつを俺の雷で引火させて吹き飛ばせっていうんだろ?あのときは、君は鷹彦が作った風の結界の中にいたから無事だったんだぞ。今の状態じゃまる焦げになっちまう」
「まる焦げになんか絶対にしない!」
 思わず、強い口調が口をついた。 
 飛行場でのときと今とでは、自分の「意識の状態」とでもいえばいいのだろうか、そういった感覚が全く違う。
 火をコントロールできるという確信があった。
 まるで、自分の中に力の使い方を教えてくれるパズルがあって、欠けていたピースが一つ埋まったような感じだ。
 今はまだ、コントロールできるだけで、自分で火を起こすことができないのがもどかしいけれど、これまで感じることも理解することもできなかった自分の中の力というものが、今はその存在をはっきり感じられるだけでなく、理解できる。これが「魂縒」という儀式のもたらすものだとしたら、紅子は次の儀式がいっそ楽しみなくらいだった。

 だが、それを言葉にして、逡巡する竜介を説得するには、あまりにも時間がなさすぎた。

2010.01.02一部改筆

2019.01.22改筆


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