第五話「ささやかな余波」
「しつこいなー、やだっつってんじゃん!」
放課後の校内に、女子生徒の怒鳴り声が響きわたった。
折しも終業直後で、廊下は教師や生徒であふれていたため、誰もが、何事かといっせいに声のほうを振り返った。
そこには女子生徒が二人いた。
片方は、背中の半ばくらいまでのびた長い髪をみつあみで一つにまとめた、大きな瞳の、勝ち気そうな少女。
もう一人は、天然パーマらしい軽いウェーブのついている髪を肩先くらいまでのばした、おとなしそうな、可愛らしい感じの少女である。
天然パーマの少女のほうは、思いがけず衆目を集めてしまったことにおろおろしながら
「すみません」
とか
「何でもないですから」
と、恥ずかしそうに繰り返していたが、もう一人のほうは、憤然とそっぽを向いている。
どうやら怒鳴り声の主は彼女で、ただの女の子同士の喧嘩らしいとわかると、ギャラリーからは失笑が漏れ、まもなく、元通り誰も彼女たちに関心を払わなくなった。
謝っていた少女は顔を赤くしながら、傍らの少女に向き直り、小声で言った。
「もー、紅子ってば、カンベンしてよ〜。あんたの声、よく通るんだからさ〜」
「だってあたし、部活行きたくないし」
紅子と呼ばれた少女は、怒った口調で言い返す。
「だいたい、春香が一人じゃ心細いって言うから、つきあいで入部しただけなのに、何であたしがこんなことになるわけ?正直、めんどーなんだけど」
とかなんとか、彼女はブツブツと文句を言い続け、部室へ向かおうとしない。
しかし、恥をかかされたこともあって、春香の堪忍袋にも限界が来たらしい。
彼女は目をつり上げると、
「いきさつはどうあれ、現音に入部したんでしょ!?」
と、ついに凄まじい剣幕で怒り出した。
「だったらつべこべ言わずにとっとと部活に行って練習すんのよ!」
普段あまり怒らない人間が本気で怒ると怖い、とはよく言われる。
実際、このときの春香の迫力は凄絶だった。
しかも、勢いにまかせて、彼女はとんでもないことまで言い出した。
「学祭まで、もうそんなに日にちもないっつーのに、いつまでもうじうじブツブツ言ってんじゃーないわよっ!それ以上文句たれると、小学校一年のときまであんたがおね」
「わぁっ、わかった、わかりました!」
紅子はあわてて友人をさえぎった。
「部活でも何でも行くから、その話はやめて!」
現音、というのは、彼女たちの通う高校にある、現代音楽研究部の略称である。
とはいえ、別に現代音楽を理論的に研究したりしているわけではなく、完全な「実践」重視、つまり、単にロックやポップスが好きで、バンド活動をやりたい生徒たちの集まりだ。
要するに軽音楽部なわけだが、この部は毎年の学園祭では体育館を借りて一時間程度ライブを開くのが恒例になっていた。
ステージに立つメンバーは本来、有志である。だから、紅子は、音響などの裏方要員として入部したつもり、だったのだが――
どういう間違いからか、推薦されてしまったのだ。
バンドメンバー、それも、ステージ中央に立って歌う、リードボーカルとして。
「藤臣先輩じきじきのご指名なんだからね!本番で先輩に恥かかさないでよね!」
春香は折に触れ、紅子にそう厳命したものだ。
藤臣は現音の三年生で、副部長をつとめている。
校内屈指の美形男子生徒でもあり、紅子に限らず、藤臣と一緒にステージに立つ部員は本番で何か失敗をしたら、彼のファンから凄まじいブーイングを受けるに違いない。
彼を狙って現音に入部している女子部員は多い。
部内は半ばファンクラブと化していて、春香もそのメンバーの一人。
恋愛に興味がない紅子には理解できない世界である。
「でもさぁ、今更だけど、なんであたしなのかなぁ」
しぶしぶ部室に向かいながら、紅子が言った。
「あたし、死んだばーちゃんからずーっと音痴だって言われてて、歌なんか褒められたことないしさ。音楽の成績がいいわけでもなし、カラオケも嫌いだし……」
春香の眉がぴくりと動く。
「……つまり、先輩のセンスがおかしいって言いたいわけ?」
その通りだと紅子は答えたかったが、剣呑な相手の口調に、「いえ、そんなことは……」と、笑ってごまかした。
「でも、マジな話、あんまり目立つと困るんだけどな。せっかく中学時代の知り合いがほとんどいない高校に進学できたのに、目立たずおとなしく静かに高校時代をすごす、ってゆー、ばあちゃんの遺言にそえなくなるじゃん?」
「あ……そっか。そうだよね」
春香は神妙な顔になって言った。
「ゴメン。わたし、浮かれちゃって……なんか、自分が指名されたみたいな気がして」
「まあ、たった一時間のライブだし、一回くらいなら大丈夫かな」
「何が大丈夫なんだい?」
不意に背後で、聞き覚えのある声がした。
二人が慌てて振り向くと、そこには、肩にギターケースをかけた、ほっそりとした長身の美少年が立っていた。
明るい栗色に染めた少し長め髪と、左耳に光るピアスが少し気障な感じだが、彼の甘い顔立ちにはよく似合っていた。
「藤臣先輩!」
春香は、憧れの人から声をかけられた驚きと喜びに頬を紅潮させながら、少年に向き直った。
「こ、これから部活ですか?」
そう尋ねた彼女の両目に星が瞬き、背後には花が舞っているのを、紅子は一瞬、見たような気がしたが、それはさすがに何かの錯覚かもしれない。
ともかく、後輩からの熱のこもった視線を知ってか知らずか、彼はにっこり笑って「そうだよ」うなずいた。
「じゃ、あの、私たちもご一緒していいですか?」
気さくな美少年は柔らかな笑顔のまま、ふたたび首肯。
「もちろん」
春香はチャンス到来とばかり、藤臣と並んで歩きながら、やや興奮気味に、あれこれと話しかける。
紅子はそんな友人を後ろから眺め、ひそかに苦笑した。
春香って、本当に先輩のことが好きなんだなぁ。あたしには、恋愛ってよくわかんないけど。
「あ、そうだ」
それまで、春香の一方的なおしゃべりに、ただニコニコと相づちを打っていた藤臣が、そのとき突然、何かを思いだした様子で、紅子のほうを振り向いた。
「一色、この前渡したMD、どうだった?」
「あ、はい」
紅子はあわてて返事をした。
そういえば、学祭のライブで演奏する曲の入ったMDを渡されて、自主練習するようにと言われていたのだった。
「あの、三曲目がちょっと歌いにくいんですけど。サビのとこ、キーが高くて」
「じゃあ今日はそれ、半音下げて練習するか。あとは?」
紅子は言葉に詰まった。
MDにはあと二曲ほど入っていたが、あまり練習できていない。
「あとは、まだ、ちょっと……」
そう言葉を濁す後輩に、藤臣は困ったように笑った。
「なんだ、しょーがないなぁ」
「すみません。最近、宿題多くて」
紅子は言い訳をしながら、この先輩の温厚さに感謝する。
彼が滅多に怒らない人物であることは部員のあいだで半ば伝説と化しているが、なかなかに真実なのかもしれない。
さて、そうして会話が続くうち、藤臣と肩を並べて歩いているのは、いつしか春香ではなく、紅子になっていた。
背後から発せられる友人の微妙な視線に、まずい、とは思ったのだが、努力も虚しく、まもなく部室に着いてしまった。春香にはあとで謝っておこう。
紅子たち三人が入っていくと、それまでひとかたまりになって、何やら深刻な顔でヒソヒソしゃべっていた部員たちが、藤臣の所へ集まってきた。
「どうかしたのか?」
藤臣が怪訝な顔で訊くと、三年の男子部員が言った。
「井出が……しばらく学校に来られなくなったんだ」
どうして、と誰かが訊く前に、別の三年の女子部員が言葉を引き継いだ。
「昨日、近畿地方の黒滝って遺跡で起きた爆発事故のニュース、知らない?」
そのニュースなら、紅子は知っている。
今朝、学校へ出かける前にテレビで見たばかりだった。たしか、死者が二人。
だが、藤臣は知らなかったようで、黙ってかぶりを振った。その顔が青ざめて見えたのは、気のせいだろうか。
先輩女子部員が続けて言った。
「井出君のお父さんね、あの遺跡調査の責任者で」
爆発に巻き込まれて、亡くなっちゃったんだって。
女子生徒の何人かが、鼻をすすり上げるのが聞こえた。
「爆発がひどくて、遺体も残ってないらしいぜ」
このニュースについてよく知っているらしい男子生徒がそう言うと、
「井出先輩、かわいそう……」
と、女の子たちが涙声に変わる。
藤臣は沈痛な面もちで、頭を抱えた。
「なんてこった……」
「それでさ、井出のパートなんだけど、一年生か二年生から代役立てたほうがいいと思うんだ」
と、また別の三年生が言った。
「たぶん、学祭には出られないと思うんだよね……そんな気にもなれないだろうし」
「そうだな」
藤臣は顔をあげ、言った。
「じゃあ、学祭が終わってから、みんなで焼香に行くか。代役は……一年か二年でキーボードできるヤツ、いたかなぁ」
部室内が、やや湿っぽいながらもいつもの雰囲気を取り戻しかけたのを見計らって、紅子は春香に小さな声で謝った。
「さっきはゴメン。春香、先輩と話してたのに」
「え?あー、あんなのぜんっぜん気にしてないよ」
春香はそう言って笑うと、続けて、何か言いたそうに口を開いた。と、そのとき。
「一色。ちょっとこっち来て」
また藤臣の声。
紅子は「またあとでね」と友人に小さく手を振ると、背を向けて行ってしまった。
紅子を呼び寄せた藤臣は、彼女に譜面を見せながら、何か説明している。
春香の目に、二人はお似合いに見えた。
2009.10.17改筆
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