第四十一話「北へ・2」


 鷹彦が車を乗り入れたその場所は、新宿に立ち並ぶ高層ビル群の中の、何の変哲もない地下駐車場だった。
「こんなとこから、どうやって東北まで行くっての?」
 空港へ行くのだとばかり思っていた紅子は、車を降りて歩き出す竜介たち兄弟のあとを追いながら、どちらにともなくうろんそうな口調で尋ねると、彼らは笑ってこう答えた。
「屋上へリポートから飛行機で」

 数分後。
 紅子は「わだつみホールディングス本社ビル」の屋上へ通じる非常階段を登っていた。
 三十八階建てのその高層ビルが、国内有数の総合企業「わだつみグループ」のものだというのはともかくとして、その会社が竜介たちの父親のものだということを、最上階へ向かって上昇するエレベータの中で知ったとき、彼女は驚きのあまり絶句した。
 たいていのティーンエイジャーがそうであるように、彼女も企業や経済にまつわる諸々の複雑な話などにはあまり興味がない。
 けれど、いつも見ている番組の終了直後に流れて、CMの長さは企業の規模に比例するとでもいわんばかりに関連企業名を字幕で延々と紹介しているような会社の名前なら、話は別だ。
 あちこちの歴史研究所に資金提供していたくらいだから、そこそこ大きな会社なのだろうとは彼女も思っていたが、事実は予想をはるかに越えていたわけである。

 屋上に出た紅子たちを待っていたのは、一風変わったデザインの小型航空機だった。
 ヘリポートに飛行機が停まっているというのも驚きだが、そのプロペラが普通の軽飛行機とは違い、コクピットの前ではなく翼の両端に付いているということも彼女を驚かせた。
 しかも翼は両方とも地面と垂直に折れ、プロペラは天を向いている。

 いったい、こんなのでどうやって飛ぶんだろ?

 そんなことを考えながら、見慣れない飛行機械をまじまじ眺めていると、誰かが彼女の名前を呼んだ。
 見れば、竜介がしきりに手招きしている。
 鷹彦の姿が見当たらないところを見ると、もう機内にいるのだろう。
 彼女は強風で乱れる髪を押さえながら竜介のほうへ向かった。
 竜介のそばには、見るからに屈強そうな大男が立っていた。
「紹介するよ。こいつが俺の上の弟、虎光(とらみつ)
仕立てのいいスーツを着た、偉丈夫という言葉がぴったりなその大男をさして、竜介が言った。
「この機械で俺たちを東北まで連れてってくれる、本日のパイロットだ」
「初めまして、紅子ちゃん」
虎光は、竜介や鷹彦とはあまり似ていない一重まぶたの無骨な顔立ちに笑みを浮かべ、紅子に右手を差し出した。
「ここから白鷺家最寄りのヘリポートまで、僕が案内します。よろしくね」
「は、初めまして。よろしくお願いします」
 握手など滅多にしたことがない紅子が戸惑いながら右手を出すと、分厚いグラブのような手が一瞬、ぐっと彼女の手をつかんで離れた。
「それじゃあ行こうか」
 そう言ってニコッと笑う虎光の細い目はほとんど糸のようで、K-1選手のような体躯とは裏腹に思いがけず温厚そうな印象を見る者に与えた。
 紺野家三兄弟の中で、紅子は彼が一番折り目正しいまともな人物だと思った。

 紅子が竜介のあとに続いて乗り込むと、思ったより広い機内には、三人掛けの座席が操縦席を背に一列、向かいに一列並んでいた。
 鷹彦は先に乗り込んで尾翼側の座席の奥に陣取っており、竜介はその向かいに座る。
 鷹彦は、紅子の姿を見ると手招きして言った。
「隣においでよ。何か冷たいものでもどう?」
 彼は真ん中の座席を持ち上げると、その下にある小さな冷蔵庫を開けて見せた。
 ひんやりした空気が流れ出す箱の中には、色々な飲み物のほか、小さな酒瓶も見える。
「今はいらない」
紅子はまた相手に抱きつかれたりしないよう、鷹彦とは斜め向かいの座席に座りながら言った。
「それより、この飛行機ってどうやって飛ぶの?なんか、あんまり見たことないような形だけど」
 見慣れない姿形をした乗り物に命を預けるのは、紅子にはちょっとした覚悟が必要だったのだが、竜介も鷹彦も、こともなげに座席に腰を落ち着けている。
「ああ、これね。そりゃあ見たことないだろうな。俺だって実際に見るのも乗るのも初めてだもんな」
鷹彦は嬉しそうに、うんうんと何度もうなずき、もったいをつけてから、べらべらと説明し始めた。
「こいつは垂直離着陸機って言って、翼にいてるあのローターのおかげで、ヘリみたいに垂直に離着陸ができる飛行機なんだ。しかも、ターボジェットエンジンのおかげでヘリよりもずっとスピードがあって、航続距離も長い!東北だろーが北海道だろーが、あっという間ってスグレモノなんだぜ。ただ、悔しいことにこれ、俺んちのじゃないんだよなぁ」
 彼が最後の一言を本当にさも悔しそうに付け加えたので、紅子は笑いがこみ上げるのをこらえながら訊ねた。
「じゃあ、どこかから借りてるってこと?」
「白鷺家からの借り物だよ」
と、竜介が答えた。
「あそこの会社は、こういう大型機械を主に扱ってるんだ」
「あーあー。聞こえますか。こちら操縦室」
キャビンに双方向通話機が取り付けられているのだろう、虎光の声が聞こえた。
「ご搭乗の皆さん、シートベルト締めてくださいよ。出発するぞ」
 彼の言葉が終わるか否かというとき、搭乗口が独りでにゆっくりと閉まり、次いで機体がわずかに振動し始めた。
 まもなく、エレベータに乗って上昇するときのような、軽い重圧感を伴いながら機体が上昇を始めると、彼女は窓の外へ視線を移した。
 東京の街並みは言うにおよばず、さっきまで自分たちがいたヘリポートまでもが、眼下にどんどん遠のいていく。
 そのとき、言いようのない不安が心の底から忽然とわき上がるのを、彼女は感じた。

 戻ってこれる――よね?

 声に出さずにつぶやく。
 立ち並ぶ高層ビル。
 人が多くて、クルマが多くて、ごみごみした街。
 でも、友達がいて、生まれ育った家があって、自分の居場所があるところ。
 本当に戻ってこれる?黒珠を封印して、またここに。
「戻ってこれるよ」
 突然そう言われて、紅子はハッと顔を上げた。
 一人分の空間を空けて隣の席に座っている竜介が、柔らかな笑みとともにこちらを見ている。
 彼は続けた。
「必ずね」
「そーそ。俺たち二人が護衛についてるんだから、鉄壁さあ」
と、鷹彦が斜め向かいから口を挟む。
「ま、タイタニックばりの大型旅客船にでも乗った気持ちでいてよ」
「タイタニックって……お前、沈没させる気か」
 竜介が微妙な顔でそう指摘すると、鷹彦は、
「え?あれ、沈んだんだっけ?」
 紅子は思わずくすくすと笑い出していた。
 彼女が笑ったので、竜介と鷹彦も、ほっとしたように顔を見合わせている。
 不安が根元から解消したわけではないけれど、二人の気遣いが素直に嬉しくて、今すぐ家に帰りたいような気持ちがやわらいで行くのを感じた。
 虎光が言った。
「離陸完了。これより航行を開始します」
 身体が座席に沈み込む。
 ジェットエンジンによる加速が始まったのだ。
 窓の外に視線を戻すと、マッチ箱のようになってしまったビル群は背後へ、どんどん小さくなっていき――そうして、ゆっくりと視界から消えていった。
 わずかに、ほんのわずかに、にじみながら。

2009.11.8一部改筆

2015.09.23加筆修正


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