第四十話「北へ・1」
まもなく意識を取りもどした鷹彦の上衣には、紅子の足跡が、ブラシでも取れないほどくっきりと残ってしまっていた。
竜介はそれを自業自得だと主張し、紅子もその通りだと思った(これは、彼ら二人の意見が初めて一致した、記念すべき瞬間だった)が、ちょうど昼どきだったこともあり、玄蔵は鷹彦をささやかな昼食の席に招くことで、上衣を台無しにした詫びとしたのだった。
「いや〜、本当にすみません」
鷹彦は悪びれる様子もなく食卓につくと、屈託のない笑顔で玄蔵に謝った。
「お騒がせした上に、昼飯までごちそうになっちゃって」
「まったくだよ」
竜介が不機嫌そうに口を挟んだ。
「お前、昼過ぎに来る予定だったろ」
「しょーがないだろ。道が思ってたより空いてて、早く着いちまったんだから」
口をとがらせて反論する鷹彦を、玄蔵は両手を挙げて
「まあまあ」
と押しとどめ、竜介に向かっては、
「料理は多めに作ったんだし、いいじゃないか」
と、なだめた。
紅子は目の前の料理を口に運びながら、彼らのやりとりを黙って聞いていた。
鷹彦が竜介の「弟」だという話は、彼女にとって受け入れがたかった。
なぜなら、外見上は竜介のほうが、どうしても年下に見えたからだ。
しかし、二人の会話は明らかに竜介が兄、鷹彦が弟。
これが演技だとしたら、二人ともオスカー賞ものだ。
竜介が鷹彦より年上であることは、認めざるを得ない。
が。
そうなると、竜介の実年齢はいったい何歳くらいなのだろう?
気になる。
でも、わざわざ父さんたちの話に割って入ってまで訊くほどのことでもないし――第一そんなことをしたら、竜介にまたからかわれるに決まってる。
そんなに俺のことが気になるのか、とか何とか。
彼に揶揄されることなく好奇心を満たす方法が、何かないものか。
彼女が難しい顔で黙々と食事しているように見えたのは、そんなことを考え込んでいたからなのだが、竜介の解釈は違っていたようだ。
「おまえ、彼女にもちゃんと謝っとけよ」
彼は紅子の沈黙を、まだ弟に腹を立てている証拠と思い、鷹彦に厳しい口調で言った。
「初対面の相手にいきなり抱きつくなんて、まったく何考えてんだか」
「へいへい」
鷹彦はうるさそうに返事をした後、紅子に向き直ると、兄によく似た顔に愛想のいい笑みを浮かべ、言った。
「悪かったね、紅子ちゃん。期待してた以上に、きみがあんまり可愛かったんで、ついつい、我を忘れちまったんだ。ほんと、ごめんよ」
本気で謝っているとはとうてい思えない、調子のいい言葉。
玄蔵は苦笑し、竜介は額を押さえ、そして、紅子はといえば、うさんくさそうな一瞥を彼にくれたのち、つんとそっぽを向いた。
玄関先でいきなり抱きつかれたときのショックがよみがえってきて、また腹が立ってきた。
さすがに竜介の弟だけあって、顔だけでなく、気にくわないところまでよく似ている。
紅子に冷たく無視された鷹彦の笑顔はそのまま固まってしまい、竜介のため息が重い沈黙に追い打ちをかけた。
「そ、それはそうと、あの小さかった鷹彦くんが、こんなに立派になっていたとはねぇ。わたしは驚いたよ」
何とか場の雰囲気を変えようという、玄蔵のささやかな努力。
「わたしが鷹彦くんと最後に会ったのは、たしか、紅子が生まれる前の年だったから……十七年も前か。見違えるはずだな」
鷹彦は、助かったと言わんばかりに笑った。
「そりゃあ、僕がまだ三歳かそこいらの頃ですからね。竜兄なら、何か憶えてるかもしれませんけど。十七年前っていうと、八歳くらいだよな?」
弟の言葉に、竜介がうなずこうとした、そのとき。
紅子の席から、けたたましい音が聞こえた。
何事かと玄蔵たちが視線を転じると、紅子は立ち上がって身を乗り出し、その椅子は足下の床に横倒しになっている。
彼女は愕然とした表情で竜介をまじまじと見つめ、言った。
「竜介って……竜介って、まだハタチ前じゃなかったの?」
鷹彦は腹がよじれるのではないかと思われるほど笑い、竜介と紅子を乗せた車――病院のときと同じ、大型ランドクルーザー――を一色家から出すときも、まだ笑っていた。
笑いすぎて目尻ににじんだ涙をぬぐい、
「うんうん、竜兄ぃの童顔は、たしかに殺人的だよなー」
などと、自分の言葉に自分でうなずいたりしながら。
「笑ってないで、前見て運転しろよ」
紅子と一緒に後部座席に座っていた竜介が前方に身を乗り出し、怒った口調で注意をしても、彼は動じる様子もなく、
「はいはい、ちゃーんと見てますよ〜」
と、脳天気な返事をしては、またクスクス笑い出すのだった。
竜介は何やらぶつぶつ文句を言いながら、身体を投げ出すようにして座席に戻し、紅子の視線に気づくと、きまり悪そうに目をそらした。
いつもとは立場が逆だ。
今までの仕返しをしたようで、紅子はちょっと気分が良かった。
が、その一方で、あまり変わらないと思っていた彼との年齢差が、実は優に九歳もあったということに、彼女は少なからずショックを受けてもいた。
つらつらと思い出してみるにつけ、彼の態度や言動がやたら落ち着いていて、時として驚くほど大人びて見えたのも、こういうわけだったのだ。
彼は「大人びて」いるのではなく、本当に大人だった。
しかし――
だからって、何であたしがショック受けなきゃいけないんだ?
竜介がウソをついていたわけではない。
それに、彼が実は二十五歳だったからといって、いきなり何かが変わるわけでもない。
それなのに、紅子にはなぜか彼との距離が大きく開いてしまったような気がしていた。
いつでも軽々跳び越えられると思っていた水たまりが、本当は、向こう岸さえ見えない湖だったと気づいたときのような気分――いや、元々の距離がそんなに近かったわけではないのだから、そんな風に感じるのはおかど違いというものかもしれない。
いずれにせよ、紅子は自分が竜介についてほとんど何も知らない、ということを改めて思い知ったのだが、そのことと、自らが受けた心理的衝撃との因果関係を解明してしまう前に、彼女の黙考はさえぎられた。
黙り込んでいる彼女に気を遣って、竜介が話しかけてきたのだ。
「ずいぶんあっさりしてたね」
彼は独り言のように、前を向いたまま言った。
「出かけぎわ。親父さんと、もう少し別れを惜しむかと思ってた」
たしかに、家を出るときの紅子と玄蔵の会話は、普段と何も変わらなかった。
「それじゃ、行ってくるね」
「おう、気をつけてな」
たったそれだけ。
「いんじゃない?」
紅子は素っ気なく答えた。
「寂しくない?」
竜介が尋ねると、紅子の返事はまたもや簡潔だった。
「別に」
「無理しなくたっていいんだぜ」
紅子は苦笑した。
「別に無理なんかしてないよ。ただ、あんまり深刻になりたくないんだ、あたし。だって、もう二度と帰って来られないみたいじゃない」
「ふぅん」
竜介は少々意外そうに鼻を鳴らし、それから、ぽつりとつぶやいた。
「同じ十六歳でも、ずいぶん違うもんなんだな」
この独り言を、紅子は、どういう意味だろうと思ったものの、心中の疑問を口にすることはなかった。
尋ねようとしたその矢先に車が停まり、鷹彦が目的地に着いたと告げたからだった。
2015.09.16一部修正
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