
第三十九話「出発前夜・8」
時間は少し戻る。
帰途につく春香と藤臣の二人を門の外まで見送った後、茶会の片づけを済ませた紅子は、居間の卓袱台にあごを載せ、ぐったり座り込んでいた。
彼女が考えたとおり、藤臣は竜介のことを憶えていたようで、竜介が茶を置いて部屋を出ていくや否や、
「今の、一色の知り合いだったよな?どういう関係?何で彼がここにいるの?」
から始まって、
「海外にホームステイするんだって?出発はいつ?行き先は?」
という具合に、質問の雨を降らせた。
おかげで、紅子はたった一時間のあいだに一週間、いや、一ヶ月分の気力を使い切ったような気がしていた。
隣に春香がいて、当意即妙なフォローを入れてくれなければ、彼女の堪忍袋の緒はとうの昔に切れていただろう。
「お疲れ」
深々とため息をつく彼女の前に、竜介はお茶の入った湯飲みを置き、言った。
「で?俺が手伝ったかいはあった?」
「う〜ん……」
紅子は大儀そうにあごを持ち上げると、茶をすすりながら曖昧に首をひねる。
「まだわかんない。センパイから嫌われるには、もってこいの名案だと思ったんだけど……ちょっと安直すぎたかな」
「彼、かなりいけてるじゃないか」
と、竜介。
「どうして嫌われたいのか、俺にはよくわからないな」
紅子は苦笑しながら、春香の片恋のことと、過日、藤臣に告白されたことを話した。
「だからさ、センパイにはあたしより春香のほうを見てもらいたいわけ」
「へぇえ」
竜介は心から感心した様子で言った。
「友達思いなんだ」
「そんなんじゃないってば」
紅子は笑いながら、相手の発言を消そうとするかのように、大袈裟に両手を振って否定した。
「あたしは恋愛なんてめんどくさいことに興味ないだけだもん。それに、センパイのことも別にあんまり好みってわけじゃないし」
照れからか、彼女はやけに饒舌になっていて、ぺらぺらと話を続けた。
「正直、春香の趣味ってあたしにはイマイチよく理解できないんだよね。だって、あたしならもっと」
と、そこまで言ったとき、彼女はいきなり言葉に詰まった。
竜介がおもしろそうにこっちを見ていることに気づいたからだ。
彼は紅子の顔を覗き込むように首をかしげると、笑いを含んだ声で先をうながした。
「もっと、何?」
そのとたん、紅子はなぜか顔にかあっと朱がさすのを感じた。
「何でもないっ!」
彼女はそう言うなり立ち上がり、
「さーって、夕食の支度でもしよっ」
などと、わざわざ宣言しながら台所へ行った。
あたしならもっと――
もっと、何だろう?
何なのかはわからない。
けれど、言葉にするととんでもないことになる気がして、紅子はそれ以上深く考えるのをやめてしまったのだった。
翌日。
紅子は朝から、自分の部屋で荷造りに余念がなかった。
竜介の話では、たいていのモノは行き先で用意してくれているということだったので、彼女は中学のとき修学旅行用に買ってもらった小さめのスーツケースに着替えなどを詰め込み、さらに、英語の教科書類も入れておいた。
休学の理由が理由だけに、今でさえほぼ壊滅的な英語の成績をこれ以上壊滅させるわけにはいかないのだ――本音を言えば、英語なぞ見たくもないのだが。
本棚から参考書を取り出そうとすると、そこに飾ってある祖母と母の写真が、イヤでも視界に入る。
写真でしか見たことのない母はいつものように若々しく、どこかはかなげな微笑を浮かべていたが、祖母の表情はなぜか普段とは違う、悲しげな微苦笑に見えた。
祖母が生きていたら、何と言っただろう、と紅子は写真を見てふと思う。
頑固で気性の激しい人だったから、もしかしたら、竜介がこの家にやって来たときも話なんか聞かずに、問答無用でたたき出していたかもしれない。
そんな光景を想像して、紅子はクスッと笑った。
おまえの人生を幸せを犠牲にすることはない。
世界が滅ぶなら、滅ぶがいい。
彼女なら、それくらいのことは言ったに違いない。
しかし――
もし、祖母が生きていたとしても、やはり自分は今と同じ道を選んだだろう、と紅子は思った。
世界が滅びる日を怯えながら待つなんてまっぴらだ。
近しい人々が死んでいくのを黙って見ているなんてできない。
ましてや、自分に世界の命運を変えるだけの力があるかもしれないとなれば、なおさら。
「ごめん、ばあちゃん」
紅子は写真を手に取り、話しかけた。
「でも、あたし、自分の人生犠牲にするつもりはないから。すぐに帰ってくるよ……たぶん、絶対」
荷造りを終えて時計を見ると、もう昼どき近かった。
出発になって慌てないようスーツケースを玄関まで運んでいると、台所から玄蔵が顔を覗かせ、
「昼飯ができたぞぉ」
と呼んだ。
彼は今日、娘である紅子の出立を見送るため道場を休みにしていた。
今朝は竜介と一緒に台所にこもり、何やらごそごそ作る気配がしていたのだが、どうやら用意がととのったらしい。 かなり豪華な料理の匂いが台所から漂ってきていた。
玄関で呼び鈴が鳴ったのは、彼女が台所へ向かおうとしたその矢先のことだった。
「あたしが出るよ」
そう言いながら、彼女はミュールをつっかけ、玄関に出た。
引き戸を開けてみれば、外に立っていたのは、何だか見覚えのあるようなないような顔立ちの長身の青年だった。
彼は紅子の顔に何やらずいぶんと驚くことがあったらしく、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、名乗ることさえ忘れ、彼女をまじまじと見つめた。
「あの〜、どちらさま?」
相手の意味不明な沈黙にじれた紅子が誰何しても、やはり彼は何も答えないし用件も告げようとしない。
変質者?
しかし、着ているスーツは仕立ての良いものだし、身なりはきちんと整っている。
紅子は苛立ちを覚えながらも、念のため、もう一度訊ねてみた。
「うちに何かご用ですか?」
すると、青年はようやく、かすれた声で言った。
「か……」
か?
紅子が頭の中でおうむ返しした、次の瞬間。
「かわいい――――っっっ!!!」
青年はそう叫ぶが早いか、彼女をぬいぐるみか何かのように抱きすくめたのだった。
紅子のすさまじい悲鳴と、凶兆を孕んだ一連の物音に驚いた玄蔵と竜介が玄関まで駆けつけたとき、青年は彼女の足の下にいた。
気を失った彼を、紅子は片足で踏みつけにしていた。
竜介は寝転がっている青年を見るや頭を抱え、玄蔵は呆然とした様子で我が娘と見知らぬ青年とを交互に見ながら、言った。
「いったい何があったんだ?」
「警察呼んでっ」
紅子は肩で息をしながら叫んだ。
「この男、いきなりあたしに抱きついてきたのっ!!」
「紅子ちゃん、ごめん。おじさん、本当にすみません」
竜介がいきなりそう言ったので、父娘の視線がそろって彼に集中する。
玄蔵が尋ねた。
「どうして竜介くんが謝るんだね」
「いや、それがその……」
竜介は頭を掻いた。
「そいつ、俺の弟なんです……」
青年の名前は、紺野鷹彦。
竜介の、二人の弟のうちの一人だった。
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