第四十二話「北へ・3」


「ねーねー、紅子ちゃんて今、高一なんだよね。どこ高?東京もどったらさ、一緒にどっか遊び行かねぇ?」
 東京に別れを告げ、感傷にひたったのもつかの間。
 悩みなど片鱗も持ち合わせていないかのような鷹彦のお気楽なナンパに、紅子は悩まされていた。
「あっ、あと、お互い友達連れてきて、合コンなんてのもいいよなぁ」
 うんうん。
 彼は自分の言葉に自分でうなずき、何やら一人で盛り上がっている。
 ついさっきの彼の気遣いを、少しでも嬉しいと思った自分を殴ってやりたい、と紅子は思った。
 身体がシートベルトで座席に固定されているのでなければ、彼女は再度、彼を足蹴にしていたかもしれない。
「遊びになんか行かないし、合コンもしない」
紅子は窓のほうを向いたまま、冷ややかに言った。
「あたしそういうの興味ないの」
 鷹彦は一瞬、異次元の生物を発見したときのような顔になったが、すぐに気を取り直した様子で、
「あ、もしかしてもう彼氏いるとか」
「いない」
「じゃあ好きなやつが」
「いない」

 気まずい沈黙。

 しかし、鷹彦はめげなかった。
「よかったら俺っちなんかどう?絶賛お試し期間中だよ」
 そのとき、彼らのやりとりを眺めていた竜介は、紅子の堪忍袋の緒が切れる「ぶちん」という音を聞いた気がした。
「うるっさい!!」
紅子のよく通る声が、彼らの乗る機体を震撼させた。

「興味ないっつってんじゃん、しつこいなぁ!!これ以上あたしに話しかけんなっ!!」

 一気に怒鳴ってしまってから、紅子はハッと我に返った。
 今までこちらに身を乗り出さんばかりになっていた鷹彦が、びっくりした顔でのけぞるように背もたれに張り付いている。
 紅子は一瞬、しまったと思ったが、つい二、三時間ばかり前に玄関先でいきなり抱きつかれた不快感をまたもや思い出し、ぷいと窓の外に視線をもどした。
 謝ったほうがよくない?これから世話になる家の人間なのに……。
 と、頭の片隅で理性の声が聞こえたが、無視。
 だって、本当にしつこかったんだもん!
 そのとき。
「ぶっ……あっはっは!」
 これまで黙っていた竜介が、おかしくてたまらないというように吹き出したかと思うと、腹を抱えて笑い出した。
 鷹彦と紅子が、呆然と笑い続ける竜介を眺めていると、操縦室からもクスクス笑いが聞こえてきた。
「さすがの鷹彦も形無しだなぁ」
 と、虎光ののんびりした声。
「鷹彦、お前の負けだ。あきらめな」
竜介は笑いすぎて目尻に浮いた涙を指でぬぐいながら言った。
「ほら、彼女に謝れ」
 長兄からそううながされた鷹彦は、二度目ということもあってか、
「ごめん、紅子ちゃん」
と、ばつが悪そうに頭をかきながら、しかし思ったよりまじめに謝罪を述べた。
「しつこくするつもりはなかったんだけど」
 さらに竜介が、
「紅子ちゃん、悪いね。これはこいつの癖みたいなもんだから、許してやってくれ」
そう言ってくれたおかげで、紅子は怒鳴ってしまった気まずさから解放され、少しほっとした。
「あ、ううん。あたしこそ……」
 怒鳴ってごめん。
 不思議なほど素直に、そう言えたのだった。

 場の空気がなごやかになったが、それもほんのつかの間。
 紅子は首の後ろに違和感を覚えた。
 黒珠が近くにいることを報せる、あの独特の不快感。
「鷹彦」
 竜介が、やや緊張を孕んだ声で弟を呼んだ。
 それに対して、
「はいな。万事ぬかりなし」
と、鷹彦は軽い調子で答えた。
 一方、虎光は前方に黒っぽい雲のようなものが迫りつつあるのを認めていた。
 快晴で視界良好な中、そこだけが墨をこぼしたように暗い。
 しかも、それは彼が操縦する機体の航行速度以上の速さでこちらに急速に接近しつつあった。
 彼はヘッドセットマイクを通して言った。
「進行方向におかしな雷雲発見。こっちに近づいてくる」
「虎光、それは雷雲じゃない」
竜介が言った。
「例のやつだ。避けられそうか?」
「やってみる。ちょっと揺れるぞ」
 虎光がそう答えた次の瞬間、紅子は身体が上から押しつぶされるような、強烈な重力と振動を感じた。
 機体が急上昇したのだ。
「……だめだ」
虎光は言った。
 機体を上昇させているにもかかわらず、前方の黒いしみはぐんぐん近づくばかりで、彼の視界から消える気配がない。
「こっちの動きに合わせて移動してやがる。もう間に合わねーから、このまま突っ込むぞ」
 虎光の声が聞こえた、次の瞬間。
 機内が暗くなった。
 青空は消え、替わって薄闇が支配する外界に、紅子が見たもの。
 それは、不気味な赤い光を放つ、無数の「目」だった。
 地上からおよそ八千メートル上空で彼らを待っていた、思いがけない脅威。
 そこは、異形の生き物の巣窟だった。

2015.09.24加筆修正


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