第三十一話「インターミッション」


「おじさん、お風呂いただきました」
 風呂から上がってきた竜介は、居間の座卓の前に座って新聞を開いている玄蔵の背中に声をかけた。
「おう」
 玄蔵が顔を半分だけこちらに向けて返事をした。
 彼の向こう側にさっきまでぼうっとテレビを見ていた紅子の姿がないことに気づき、竜介は、
「紅子ちゃんは?」
と訊いた。
「ああ、あいつならついさっき、疲れたから休むと言って二階に上がったよ」
 と、玄蔵。
 竜介は壁にかかった時計を見た。まだ八時を少しまわったばかりだ。
「ずいぶん早いですね」
「ま、あの事件から、まだほんの二日しか経っていないからな。まだ本調子じゃないんだろう」
 竜介は土蔵での彼女とのやりとりを思い返してみる。
 本調子じゃない?あれで?
 どっと疲労が押し寄せるのを感じつつ、竜介が風呂上がり用に冷蔵庫にキープしているビールを飲もうといつものように台所へ行きかけたとき、
「竜介くん、待ちたまえ」
と、玄蔵が呼び止めた。
「たまにはビール以外の酒はどうかね」
 そう言って。
 ドン、と座卓の上に玄蔵が置いたのは、高級そうなブランデーのボトルだった。
 竜介はそのボトルを一瞥するや、ヒュッと短く口笛を吹いた。
「レミーマルタンのナポレオンですね。いいんですか、空けちゃって?」
「かまわんとも」
 玄蔵は少々得意げに鼻を鳴らしてみせた。
「きみのために買ってきたんだから。ああそうだ、悪いがグラスを出してくれんか。食器棚の一番上にあるはずだ」
「ついでに何かつまみでも作りましょうか」
 竜介が言われたとおりグラスを出しながら提案すると、玄蔵も台所にやってきて、
「それには及ばんよ」
と、黒い化粧箱入りの生チョコレートを冷蔵庫から取り出した。
 居間に戻って腰を落ち着けると、彼らはそれぞれのグラスに琥珀色の液体を交互に注ぎ、乾杯した。
 手になじむ大ぶりの丸いグラスをゆっくり回してから液体を口にふくむと、熟した果実に似た芳醇な香りが鼻に抜けていく。
「うん、うまい」
 竜介は思わず目を細めた。
「喜んでもらえて何よりだ」
早くも赤らんだ顔で、玄蔵が言った。
「紅子のために、自分のケガを治すのも忘れるほど大変な目に遭ったんだ。せめてもの心づくしだよ」
 竜介は玄蔵に、紅子の力の暴走を止めたあと現場を一刻も早く離れるために自分のケガを治すのを忘れていたと言っていた。
 助け出したとき彼女が全身傷だらけだったことや、残っていたわずかな力をその治癒に使い果たしたことを言えば、玄蔵に余計な気を遣わせてしまうと思ったからだ。
 それに、自分のケガを忘れていたのは、少なくともうそではない。
「恐縮です」
と、竜介は頭をかいた。
「でも、ちょっと早すぎやしませんか。何もかもまだ始まったばかりだし……とりあえず、紅子ちゃんは俺と行くことに同意はしてくれましたけど」
 グラスを回す玄蔵の手が止まった。
「そうか」
玄蔵の声が、心なしか湿って聞こえた。
「そうか、紅子が」
「はい。さっき、土蔵の中で話したときに。これ以上、友達や関係のない人を巻き込むわけにはいかないから、と」
竜介は胸に痛みを覚えた。この痛みは、玄蔵に対するものか、それとも紅子に対してか。
「とてもしっかりしたお嬢さんですね。まだ十六なのに」
 玄蔵は泣き笑いのような顔になって、
「跳ねっ返りのじゃじゃ馬だがな」
それから彼はにわかに居住まいを正すと、
「きみには面倒をかけるが、よろしく頼む」
と、竜介に深く頭を下げた。
「ちょ、おじさん、頭を上げて下さい」
 竜介はあわてて玄蔵の肩に手をかけた。その肩は震えていた。

 この人にはもう、紅子しかいないのだ。

 竜介は思った。
 玄蔵としては家で紅子の身を案じて待つより、彼女に同行したいに違いない。紅子だって無論、そのほうがずっと心強いだろう。
 しかし、もしも玄蔵が黒珠の襲撃で命を落とすようなことがあれば。
 この家に紅子が帰ったとき、だれが彼女を出迎えてくれるだろう?
 封印を解かれたばかりの黒珠には、確かにまだ大した力はない。
 だが、その雑魚に一昨日は手こずらされた。
 この先、もう決してそんなことはないと断言できるか?
 竜介は唇を噛んだ。
 彼は、紅子の命を、もとよりこの身を賭して守るつもりでここに来た。
 しかし今、娘を案じる父親としての玄蔵の悲嘆に触れるにつけ、自分が背負ったものの重さを改めて実感せざるを得なかった。
 玄蔵は目頭を押さえながら顔を上げ、
「年をとると涙もろくなっていかんな」
自嘲気味に笑った。
「安心したまえ。たとえ紅子に万一のことがあっても、わたしはきみを責めたりはせん」
「おじさん、俺は……」
「わたしも、日奈を守りたかった」
玄蔵は遠くを見るような目で言った。
「だが、かなわなかった」
 どれだけ願っても、どれだけ力を尽くしても、かなわぬことがこの世にはある。わたしは誰よりもよくそれを知っている。
 知っているんだ。

 酔って眠ってしまった玄蔵に肩を貸し、脇に抱えるようにして布団まで運んでやったあと、竜介は居間に戻って一人飲み直した。
 土蔵での紅子とのやり取りを再び思い返し、ため息をつく。
 まったく、俺があんな誘導にひっかかるとは……。
 あの年頃の女の子の扱いは涼音でわかってるつもりだったんだが、あの子はまったくタイプが違う。
 今回は結果として彼女が俺と一緒に来る決心をしてくれたからよしとしよう。相変わらず好かれてはいないようだが、信頼はしてくれたようだし。
 しかし、こんなラッキーがこの先も続くとは限らない。
 すべてはこれからだ。気を引き締めていかなければ。
 アルコールでやや酩酊してきた竜介の脳裏には、自分が碧珠から魂縒を受けたときに見知った、御珠の一族の過去がよみがえっていた。
 自分たちの血筋が背負う、悲しくも恐ろしい宿業。
 炎珠の神女は、彼が知っているものよりはるかに鮮明で詳細なものを知ることになるらしい。
 「らしい」というのは、彼自身、自分の武術の師匠からそう聞いただけだからだ。
 過去には精神的ショックで数日寝込んだりする者もいたそうだ、と彼の師匠は言っていた。
 紅子に今のところ、それほどの強いショックを受けた様子がないのは、単に炎珠の魂縒のとき、一族の過去すべてを見なかったか、それとも、八千代のかけた封印がまだ一部残っているのか――

 だが、いずれ知るときが来る。

 そのとき、俺はあの子を支えきることができるだろうか?
 あの子は、まだ真実によって深く傷つけられたことがないんだ。だから、真実を恐れない。
 何の瑕疵も陰りもなく、力強く輝くあの子の心を、俺は守り切ることができるだろうか?
 ――十四年前、ここに来たときに決めたように。

2015.09.06加筆修正


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