第三十二話「出発前夜・1」
学園祭から、一週間あまり。
紅子は担任教師に、三ヶ月間の休学届けを提出した。
四階建ての校舎の一部がなくなった爆発事件は、警察と消防の調査により、結局、教室に置かれていた模擬店用プロパンガスの事故として、一通りの終息をみていた。
爆発で消し飛んだ教室に続く廊下に張りめぐらされた警察の黄色い「立ち入り禁止」テープはいまだそのままだったが、教室を失ったクラスは他の校舎の空き教室に移動が決まったし、損壊した校舎を建て直すための仮校舎の建設も校庭の一隅で始まり、学校側は授業を平常通りの時間割に戻した。
しかし、これほど大きな事件を目の当たりにした興奮が、年若い生徒達はもちろん、教師のあいだでも、そう簡単に醒めるはずもない。
警察発表など関係ないといわんばかりに、校内では事件に関するさまざまな憶測や流言が飛び交っていた。
実際のところ、あの事件の責任をガス爆発一つに押しつけてしまうには少々無理があった。
たしかに、模擬店は主に校舎内で開かれていたが、問題は爆発が起こったとおぼしき四階の教室に、プロパンガスが保管されていたということを誰も知らなかったことである。
鉄筋コンクリートの校舎を半壊させるほどの爆発を起こさせるには、ガスボンベ一本や二本では足りるまい。
それだけの数を人目の多い学園祭のさなか、どうすれば誰にも知られずに四階まで運び上げることができるというのか。
校門の外に張り付いていた報道陣のほとんどが姿を消した今でも、彼ら同様に警察発表を信用せず、独自に取材を続けようと居座っている雑誌記者などもいて、そういう連中の存在が生徒達のにわか探偵気分に拍車をかけているのは間違いなかった。
そんな落ち着かない時期だったから、紅子が書類を提出する前に学校に電話をかけ、娘をしばらく休学させたい旨を担任教師に了解させようとした父・玄蔵の交渉は、かなり難航したようだ。
学校側にしてみれば校史始まって以来、前代未聞の大事件の直後である。
ただでさえ来年の入学希望者数が激減するかもしれないというのに、在校生が休学したり他校へ編入したりして、それがマスコミにでももれようものなら、記事にどんな尾ひれがつくか知れたものではない。
一時は担任と校長が家庭訪問するという話にまで発展しかけたらしいが、三ヶ月の休学期間が終了したら必ず復学させるという条件をつけて、どうにかこうにか、玄蔵は教師たちを丸め込むことに成功したのだった。
紅子が休学せねばならない理由が常識に照らして無理のないものであり、かつ、本当に急を要するものであったのなら、玄蔵もこんな苦労はせずに済んだかもしれない。
しかし現実はというと、急を要するという点を除いてはその理由は常識の範疇どころか、うっかり口にしようものなら精神異常を疑われても仕方ないようなものだ。
「今回の事件は、長い封印から目覚めた黒珠というバケモノが起こしたことです。私は彼らを再び封じねばならないので、しばらく学校を休ませてください」
などと言ったとして、真面目に取り合ってくれる人間はまずいないだろう。
とにもかくにも、玄蔵の事前交渉は成功し、学校側は紅子の休学を認めた。
ちなみに、表向きの休学理由は「語学留学」。
彼女の語学の成績は、確かにあまりかんばしいとはいえない状態なので、それなりの説得力はある。
少なくとも、小学校入学からこっち、およそ病気と名のつくもので学校を休んだことがない(元気すぎるがゆえのケガなら多少ある)彼女が「病気療養」と称して休学するよりはずっとましだろう。
が、休学あけで学校に行ったとき、今よりさらに成績が落ちていたら――本当に留学でもしない限り、落ちるに決まっているのだが――と思うと、紅子は先が思いやられる気がした。
しかし。今から三ヶ月後のことを悩んでも仕方がない。
玄蔵から預かってきた休学申請の書類を事務室に出したあと、彼女は現音の部室に向かって歩き出した。
今日は部活のある日ではないが、たいてい誰か来ているはずなので、しばらく学校を休むことを皆に伝えておいてもらうつもりだった。
同じ部員で事情を知っている春香には既に休学の話はしてあるし、まだ大まかではあるが、口裏も合わせてある。
けれど、彼女一人しか知らなかったとなるとあれこれ聞きたがる詮索好きがいないとも限らない。
部外者にも一人くらい、紅子の休学を知っている人間がいたほうが無難だと思ったのだった。
相手に話す休学理由はもちろん、表向きの「語学留学」だけだが。
歩きながら、紅子は物思いに沈んだ。
これから三ヶ月間は、黒珠を封印することに専念せねばならなくなるだろう。そのことには異存はない。
だが、ずっと気になっていることがある。
それは、黒珠がなぜ封印からよみがえってしまったのか、ということだ。
単に、封印が古くなっていたからか、それとも、何かほかの理由があるのか。
七歳の時、彼女が炎珠から受け取った「記憶」は極めて断片的ではあるものの、そこに漂うきな臭さから、その後何があったかをおおまかに推測することはできた。
おそらく、黒珠の一族は天帝殺しの汚名を着せられ、封印の憂き目にあったのだろう。
それにしても。
炎珠が見せてくれた封印前の彼らの姿は、人間のそれと寸分違わぬものだったのに、彼女が遭遇したあの怪物は、一体どういうことなのだろう。
封印の呪いが彼らの姿をも変えてしまったのか――?
もっとも、いきさつはどうあれ、彼らがもはや紅子たちの住むこの世界とは相容れない存在であることに変わりはない。
彼らが完全にその力を回復し、より大きな災いとなる前に再び封じてしまうこと。
それが最良にして唯一の策だ。
しかし、そのためにはもっと御珠の「記憶」が必要だった。
九年前、炎珠から与えられたわずかな「記憶」だけでは、封印の術がいかなるものかさえわからないのだ。
使えるとか使えないとかいう以前の問題である。
今の紅子が知っていることといえば、その術を駆使できるのは、五つの御珠から認められ、その「力」をわけ与えられて「天帝」となった神女だということだけだ。
さて、ここで問題が一つ。
今の状況では、黒珠から「力」を受け取ることなど不可能だ。
では、炎珠を含めた四つの御珠の「力」だけで、果たして封印の術を使うことはできるのだろうか?
それに、残る三つの御珠――白珠、碧珠、黄珠は、今、どこにあるのか。
竜介に尋ねたいことは山ほどあるのに、彼は土蔵で話をした翌日から留守がちで、ゆっくり話をする暇がない。
監視はつけてくれてるんだろうし、黒珠の気配も今のところないし、いいっちゃいいんだけど……。
なんか、ほったらかしにされてるような……。
そこまで考えて、紅子はかぁっと顔が熱くなるのを感じ、
な、何考えてんだあたし!心細いのは、この先どうなるかわかんないからで、竜介がいないからなんかじゃないぞ!絶対!
と、懸命に自分の心に言い聞かせたのだった。
2015.09.07一部加筆修正
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