第三十話「造物主の宝玉」
明日から、午前中だけとはいえ授業が再開される。
学校からの電話を受けた父親からそれを聞いて、紅子はその夜、風呂から上がるとまもなく就寝した。
二泊三日の病院暮らしで眠り癖がついてしまったのか、それとも単に身体が本調子でない証拠なのか、夜八時を回ったとたん、眠くて仕方なくなった。
考えたいことや竜介に訊きたいことがまだまだ山のようにあるのに、歯がゆいことこの上ない。
眠りの中でも、彼女はあの土蔵の床下にある隠し部屋にいた。
その夢の中で、紅子の意識は、七歳の頃のそれと、十六歳の、つまり現在のそれとが渾然となっている状態だった。
幼いほうの彼女は何も知らず、ただ「頭に直接聞こえる、不思議な声」に呼ばれるまま、歩を進めている。
一方、十六歳の彼女はこれから起こることを全て知っているが、もう一人の自分を止めることはできない。
七歳の紅子は地下室で「炎珠」との対面を果たす。
彼女の心にはただ、今目の前にある摩訶不思議な宝玉に対する好奇心があるだけ。炎珠の放つ精神波の影響なのだろうか、未知の存在に対する恐れなどみじんもない。
赤い宝玉にうながされるまま、今、七歳の紅子の小さな掌が、支柱の饕餮紋に触れる。
次の瞬間、虫の羽音のような、低いうなりが聞こえたかと思うと、石に彫り込まれた怪物の両目が強烈な光を放った。
それは狙いあやまつことなく少女の両目を射抜き、光は彼女の視神経を通って脳に直接、情報を送り込む。
そして、彼女は見たのだ。
はるかな昔。
この世界が、自分たちが、いかにして創られたかを。
それを成し遂げた「力」の、途方もない巨大さを。
「それ」は、自らの力を試すかのように、混沌から宇宙を創り、世界を創り、人間を始めとする様々な生き物を創りだした。
休むいとまを知らぬ、めまぐるしい作業。
やがて、「それ」は世界がほぼ完成の域に達すると、今度はそれを安定させることに腐心し始めた。
できあがったばかりで不安定な世界を支えるため、自らの力を物質化し、世界の「柱」としたのである。
「力」は、五つの美しい宝玉として物質世界の柱となり、さらに、人間たちの中から自らの守護者としてふさわしい者たちを選ぶと、その霊力をわけ与えた。
それがすなわち、
一色家の祖である、炎珠の者たち。
黒珠の者たち。
竜介たち紺野家の祖である、碧珠の者たち。
白珠の者たち。
そして、黄珠の者たち、となったのである。
中でも、炎珠の者たちは強大な霊力を誇った。
彼ら一族の統治者「天帝」には、彼ら各々が守護する五つの御珠が認め、その力を特別にわけ与えられた者だけがなるのだが、それは毎回、判で押したように、炎珠の祀り手、神女と呼ばれる者たちから選ばれるのだった。
天帝に与えられた力、それは言葉の力――言霊である。
天帝は代々、言霊によって世界を治めた。
その声は干天に慈雨をもたらし、荒天を鎮め、時にそれが歌となって地に満ちることあれば、人々は幸福に酔いしれたものであった。
だが、強い権力とそこに集まる巨富とが、素朴で無欲だった彼らのあいだに妬みと憎悪を生み出すまで、さほど時間はかからなかった。
天帝の夫となる者は、部族間の力の均衡を保つため、
残る四部族から代々、順送りで選ばれる習わしとなっていたが、ある時、その慣習に背いた天帝がいた。
彼女は黒珠の若者と恋に落ち、本来なら黄珠から夫を選ぶべき代であったにもかかわらず、彼と婚姻を結んだのである。
とはいえ、この慣習そのものはさほど厳密なものではなく、これまでにも何度か順序をたがえての昇婿が行われたことはあった。
だから、よもやこれが御珠の一族全てを巻き込む戦乱の序章となろうとは、誰も予想だにしていなかった――ただ、黄珠の者たちを除いては。
黒珠の者たちは一族の中では炎珠に次いで強い霊力を持ち、天帝に対する忠義心も厚い。
炎珠の神女ばかりが代々天帝を務めることに強い不満を抱き、長らく天帝の座を狙っていた黄珠の者たちにとって、彼らは邪魔者でしかなかった。
今回の慣例無視をうまく利用すれば、目障りな黒珠を亡き者にし、さらには天帝の権力さえ手に入るかもしれない。
天帝の婚礼が華々しくとり行われ、人々が笑顔を交わしあう中、黄珠の者たちは密かにほくそ笑んでいた。
彼らにとって幸運だったのは、黒珠の者たちが他の三つの御珠の者たちに比べて、炎珠の者たちとの親交深く、その多くが天帝の外戚などとして、宮廷の要職に就いていることだった。
黒珠に対する羨望、嫉妬――
彼らは天帝の宮殿内外に渦巻くそういった醜い感情を、ちょっと煽ってやるだけでよかった。
集まった熱はたちまち小さな火種となり、くすぶり始める。
鼻先を掠めるようなきな臭さが、時折漂う、見せかけだけの平穏な日々。
それは、あの盛大を極めた婚礼の儀式から半年後、突然、終わりを告げた。
天帝暗殺という、未曾有の事件によって。
2015.09.03加筆修正
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