第二十九話「記憶の場所・2」


 表面の色彩をめまぐるしく変化させながら淡い光を放つその不思議な珠は、まるでどこか別の世界からやって来た美しい生き物のようだった。
 大きさは、赤ん坊の頭ほどだろうか。
 それをいただいている1メートルほどの高さの石柱は、かなりの年月を経て風化しているものの、表面にびっしりと彫り込まれた精緻な文様のほとんどはまだ残り、とくに宝珠の据えられている真下正面には古代中国の怪物、饕餮(とうてつ)の姿がくっきりと見て取れた。
 怪物は、資格なき者がこの神聖な宝に触れることを禁じるかのように両目と口をかっと開き、辺りを睥睨(へいげい)している。
 紅子は、宝玉が放つ夕暮れの時のような赤い光を浴びながら、その前にぼんやりとたたずんでいた。
 九年前に祖母がかけたらしい記憶の封印が解けた今、土蔵に入ることは彼女にとって何でもないことだった。
 九年前――
 そのときの記憶は、今や昨日のことのようにあざやかだった。
 ここに入ったことも、そのあとのことも、何もかも。

 土蔵の地下にあるこの隠し部屋に降り立った瞬間、幼かった紅子はえもいわれぬ幸福感に満たされ、夢見心地のまま、今も目の前にある赤い宝玉、炎珠から一族の記憶を受け継いだのだ。
 それが、玄蔵と八千代が彼女に絶対に受けさせないと決めていた『魂縒』と呼ばれる儀式であることも、知らないままに。
 記憶がよみがえった今の紅子は、自分が今も感じている甘い多幸感が、御珠の影響であるということを知っていた。
 御珠はいずれもこういった精神波を出していて、近づく者の精神に作用を及ぼす。
 宗教人なら、これを法悦と呼ぶのだろう。
 人の心を平らかにし、畏敬の念を呼び起こさせるこの不思議な力によって、御珠は気が遠くなるほどはるか昔から破壊を免れ、密やかに守られてきたのだ。
 紅子の一色家や、竜介の紺野家のような御珠の一族によって。
 そして、黒珠もまた、その中に含まれていた……はずだった。
 少なくとも、紅子が受け継いだ記憶の中の黒珠の人々は、一昨日彼女を襲ったような異形の怪物ではなかった。
 ごく普通の――いや、それ以上に美しく、強い力を持つ人々だった。
 そんな彼らが、なぜ今のように瘴気を放ち、近づく者に凍てつくような恐怖を与える異形に変わったのだろう?
 その理由が知りたくて、もしかしたら炎珠が何かを教えてくれるかもしれないと期待して、彼女は帰宅してからというものずっとここに入り浸っているのだった。
 が、炎珠は何も語らなかった。魂縒を終えた人間にはもう興味がないと見える。
 やっぱりダメか、と、紅子はため息をついた。
 しょうがない。もう家に戻ろう……。
 と、そのとき、誰かがこの地下室に降りてくる気配があった。
 紅子が階段のほうを振り返ると、そこにいた人物の名を呼んだ。
「竜介」
 この部屋の天井は彼には低すぎるらしく、竜介は長身をかがめるようにしてこちらへ近づいてきた。
「夕食ができたから、呼びに来たんだ」
彼はそう言って、赤い宝玉に視線を移した。
「これが炎珠(えんじゅ)か。俺、実際に見るのは初めてだ」
「竜介の家にも、これと似たようなのがあるんだよね?」
 竜介はうなずいた。
「ああ。うちのは青い。だから碧珠っていうんだ」
 知ってる、と紅子は心の中でつぶやいた。
 彼が近くにいても穏やかな気持ちでいられるのは、炎珠が放出している精神波の影響だろうか。昼間話をはぐらかされたときに感じた怒りも、今は感じない。
 そういえば、なぜ、彼はあのとき話をはぐらかしたのだろう。
 一部とはいえ、鉄筋コンクリートでできた校舎を吹き飛ばすほどの爆発。
 脳裏にちらつく、凄絶な炎のイメージ。
 そして、その炎のむこうにいる竜介の困惑した表情。
 何か、とてつもないことが起きたはずなのに、それを竜介があたしに教えたがらないのは、なぜ?
「そろそろ出ないか?」
ずっと言葉少なに黙り込んでいる紅子に、彼が言った。
「俺、首が痛くなってきた」
 地下室を出たとたん、自分を取り巻いていた炎珠の精神波がすうっと薄れていくのを紅子は感じた。
 けれど、本当のことを言おうとしない竜介に対する怒りやいらだちは、もうない。
 彼女の中にあるのは、ただ、決意だけだった。
「竜介」
「うん?」
 窮屈な姿勢から解放された彼は、のんきに首をひねったりさすったりしながら返事をした。
「一昨日はごめんね。あたしを助けに来てくれたのに、ひどいやけどさせて」
 土蔵の中は薄暗く、開け放たれた入口からさしこむ日没の名ごりだけがぼんやりと辺りを照らしている。
 紅子は竜介の表情のどんな変化も見逃すまいと、薄闇の中、彼の顔を見つめて言った。
「黒珠の化け物は、あたしが教室ごと吹き飛ばしたんだよね」

 まさか、と、竜介は思った。
「あのときのことを、憶えてるのか……?」
 力を暴走させたときのことを。
 思わず口をついて出た言葉。
 だが、紅子の顔を見た瞬間、彼はよく考えずに言葉を発したことを悔やんだ。
「やっぱり、そうなんだ」
紅子はうすく笑っていた。
「憶えてなんかないよ。夢みたいな、ぼんやりしたイメージだけ。だから、そのイメージと、竜介が本当のことを言いたがらない理由とを合わせて考えてみたの」
 そして、出した結論。
 黒珠も、教室も、自分が吹き飛ばした。その爆発のときかどうかはわからないけれど、助けに来た竜介まで、巻き込んでケガをさせた。
 竜介は愕然とした。
 カマをかけられた。
 こんな――こんな子供に。
「あたしはたぶん、力の制御ができない状態だったんだ。竜介はあたしの力を抑えようとして自分の力を使い果たして……」
「わかった。もういい」
竜介はため息をついた。
 腹を立ててもしょうがない。俺の負けだ。
「きみの言うとおりだ。ただ、俺がきみのところに辿り着いたのは爆発のあとだ。黒珠の化け物はもう影も形もなかった」
「そっか」
 紅子は淡々としていた。
 思っていたほどにはショックを受けた様子が彼女にないので、竜介はほっとしたような、拍子抜けしたような奇妙な気分だった。
 しかし。
「竜介、言ったよね。記憶が戻ったら、今まで通りの生活ができなくなるかも、って。その通りになったね」
その声は、かすかに震えていた。
「あたし、どこに行けばいいんだろう。これ以上、友達や関係ない人を巻きこめない」
 竜介は、彼女の小さな肩に優しく手を置いた。

「俺といっしょにおいで」

2015.09.03加筆修正


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