第二十九話「記憶の場所・2」


 竜介はぬれ縁から庭に出ると、土蔵(どぞう)へと向かった。
 紅子にとっては恐ろしくて近づくことさえできなかったはずの場所。
 だが、彼の足取りに迷いはなく、そして、その判断は間違っていなかった。

 日はすでに沈み、夕日の残照(ざんしょう)が辺りを赤く染める中で、引き戸が開け放たれた土蔵は今にも何かを()み込もうとして待つ、大きな生き物のようにも見える。
 彼はその下あごをまたぐと、薄闇の中をしばらく奥へ進んでから、おもむろに立ち止まった。
 足元の床板が跳ね上げられ、一メートル四方程度の縦穴(たてあな)が口を開けていた。
 目を凝らすと、石と漆喰(しっくい)で作られた急な階段が、下へ続いている。
 湿気とカビで老朽化(ろうきゅうか)し、滑りやすくなっているその階段を彼は慎重に降りた。
 下には、意外に広い部屋があった。
 おそらくは第二次大戦中、防空壕か何かに使うために作られたのだろう。
 戦前の一色家はかなりの資産家だったという話もあるから、大切な文書や高価な物品を戦火から守るために、そこそこ広い地下室を作っていたとしても不思議はない。
 ただ、昭和初期の日本人の体型に合わせて作られたとおぼしきその部屋の天井は、彼には少々低かったけれど。
 奇妙なのは、その室内がぼんやりとした赤い光に満たされていたことだ。
 それはちょうど、今しがた見た日没の残照に似て、見る者に地上にいるような錯覚を起こさせた。
 しかし、窓もない地下室に地上の光が射し込むはずはない――では、どこから?
 それは部屋の最奥(さいおう)にあった。

 大きさは赤ん坊の頭ほどだろうか。
 表面の色彩をめまぐるしく変化させながら淡い光を放つその不思議な珠は、まるでどこか別の世界からやって来た美しい生き物のようだった。
 竜介の胸ほどの高さの石柱が、それを(いただ)いている。
 (たま)の大きさに合わせて、岩を切り出して作られたらしいその角柱は、かなりの年月を経て風化しているものの、表面にびっしりと彫り込まれた精緻(せいち)な文様のほとんどはまだ残り、とくに宝珠の据えられている真下正面には古代中国の怪物、饕餮(とうてつ)の姿がくっきりと見て取れた。
 怪物は、資格なき者がこの神聖な宝に触れることを禁じるかのように両目と口をかっと開き、辺りを睥睨(へいげい)していた。
 竜介はその石柱に向かってぼんやりと佇んでいる少女を見つけると、背後から、その肩をポンと叩いた。
「紅子ちゃん」
「きゃっ!!」
 紅子は彼の気配に全く気付いていなかったらしく、頓狂(とんきょう)な悲鳴を上げながら跳びすさった。
 振り返ってみて相手が竜介だと分かると、心臓の辺りを押さえながら、ほーっ、と長い息を吐く。
「心臓が止まるかと思った……」
「悪い」
紅子の大げさな驚きかたがおかしくて、竜介はクスクスと笑った。
「全然気が付いてないなんて思わなかったもんだから」
「どうして、あたしがここにいるって?」
「八千代おばさんの封印が解けたんなら、自分の記憶を確かめるために、きっとここに来るだろうと思ってさ」
彼はそう言って、視線を宝玉へと転じた。
「これが『炎珠(えんじゅ)』か。話には聞いてたけど、俺、見るのは初めてなんだ」
「……いつ、封印が解けたって分かったの?」
紅子はしばしためらった後、思い切って尋ねた。
「あたしが……あの爆発を起こしたから?」
 あの時、紅子は全く無意識の状態だったと思っていた竜介は、この質問に少々驚いた。
「憶えてるのか?」
 紅子はかぶりを振った。
「はっきり、ってわけじゃないんだ。ただ……気を失ってたはずなのに、感じたの。物凄い爆発が起きて、化け物が粉々に吹き飛ぶのを」
 ずっと、夢だと思っていた。
 春香から、丸コゲになった教室のことを聞かされたときも信じられなかった――今日、あの惨状を実際に目にするまでは。
「九年前、あたしがここに来たりしなかったら……そうしたら、学校のみんなにも迷惑をかけたりせずに済んだのかな……」
「もしそうだったとしたら、きみだけじゃない、学校の人たちまで、今ごろはあいつに殺されちまってただろう」
竜介が言った。
「きみがいたから……きみに『力』があったから、あの程度の被害で済んだんだよ」
「そう……なのかな」
紅子は小さくため息をついた。
「不安なんだ。あのとき……自分が何かとんでもないことをしようとしていたような気がして」
 竜介は、紅子をまじまじと見つめた。
 まさか、と思う。
 力を暴走させていたときの無意識の記憶が、表層意識にもおぼろげながら残っているのだろうか?
 事実を告げたほうがいいのだろうか。
 ……いや、彼女に確信はなさそうだ。その必要はあるまい。
「俺が見つけたとき」
彼は言った。
「きみは火の中で気を失って倒れてたよ」
「そっか。なら、いいんだ」
紅子は安堵の笑みを浮かべてから、ふと思い出したように訊いた。
「それじゃ竜介が火傷したのって、もしかして、そのとき?」
 彼は苦笑した。
「春香ちゃんから聞いたのか」
「うん」
紅子はばつが悪そうにうつむく。
「その……ごめん」
「別に気にしてもらうほどのケガじゃないさ」
それから、彼は笑ってこう付け加えた。
「何だかずいぶん神妙だけど、病院で性格まで直してもらった?」
「失礼なっ、あたしはもともと神妙ですよっ!」
紅子は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「たっ、ただ、今までは突っ張ってただけだもん。あんたのことも信用できなかったし。でも、いろいろ助けてもらったし、これからもしばらく世話になりそうだからさ」
 竜介の目が、驚きで大きくなった。
「紅子ちゃん、それって……」
「封印が解けて、やっと全部思い出したんだ」
紅子は、石柱に触れながら、言った。
「九年前……これに触ったとき、この『炎珠』って石が教えてくれたこと、全部。あいつらが何なのか、あたしたちが何なのか……あたしは何をしなきゃいけないのか」


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