第二十八話「記憶の場所・1」


 翌日。
 検査の結果異常がなく、あとは自宅静養で充分という医師の診断で、紅子はその日の午後早々に退院することになった。
 大病をわずらったこともなく、じっと横になっていることが性に合わない彼女にとって、これは願ったりかなったりだった。
 玄蔵がロビーで精算が済むのを待つあいだ、紅子は車に荷物を積みに行く竜介のあとについて外に出た。
 エアコンのきいた室内ではわからなかったが、外は汗ばむほどの陽気だった。二日ぶりの青空が気持ちいい。
 玄蔵がペーパードライバーなので、一色家には車というものがない。てっきりタクシーで帰るのだと思っていた紅子は、竜介が車を持ってきたことに少なからず驚いていた。
 そういえば、昨日、春香も車が迎えに来てたって言ってたっけ。
 それも、竜介のものではなく、彼の弟の車だという話で、ますます驚く。
 竜介って18歳か19歳くらいだと思ってたけど……もしかして、違うのかな?それとも、双子の弟がいるとか?
 屋外駐車場を歩きながらそんなことを紅子があれこれ考えていると、
「いい天気だな」
竜介がのんびりと言った。
「いい天気だけど、ちょっと暑い。きみは病み上がりなんだから、親父さんと一緒に涼しいロビーにいたほうがいいんじゃないか?」
「大丈夫」
紅子は短く答えた。
 玄蔵には聞かれたくない話があるのに、ロビーで涼んでなんていられない。
「それより、一昨日はありがとう。あたしと春香を病院まで運んでくれて。春香が、いろいろ気を遣ってもらって嬉しかったって」
 そうだ、竜介の年齢なんてどうでもいいことを考えてる場合じゃなかった。
 彼の顔を見るたび、昨日春香から聞いたお姫様だっこの話が一瞬脳裏をよぎるが、それも紅子は慌てて振り払う。
「当たり前のことをしたまでだ。礼にはおよばないよ」
そう言って、竜介は一台の大型ランドクルーザーの前で立ち止まった。どうやらそれが、彼の弟の車らしい。
 彼はジーンズのポケットから取り出した鍵でトランクを開けながら続けた。
「でも、あそこで春香ちゃんに会えたのは本当にラッキーだったな。彼女のことは気になってたけど、探し回る時間はなかったから」
 もし他の誰かに見られたら、あとあと面倒なことになりかねない状況だったからね。
 そう話しながら荷物を入れる彼の腕を、紅子はちらりと見た。
 やけどどころか、傷跡ひとつない。
「それと、あたしのケガを治してくれたことも、お礼言わなくちゃね」
 竜介はトランクのふたを閉めると、紅子に向き直った。
「ケガって?」
 その顔に浮かぶ、表情を読ませないあいまいな笑み。はぐらかされまいと、紅子は言葉を続けた。
「化け物に殴られた脇腹のケガが、きれいに治ってたの。一日で治るような傷じゃなかったのに。ほかにもあちこちぶつけたのに、どこも痛くない」
 竜介は観念したように言った。
「昨日ベッドの中でごそごそしてたのは、それを確かめてたのか」
「教えてほしいんだ。あたしが気を失ってるあいだ、いったい何があったの?」
何か、とてつもないことがあったはずなんだ。
「春香と会ったとき、竜介はやけどだらけだったっていうし、校舎の一部は吹き飛んだって」
「そうか……春香ちゃんから聞いたのか」
「竜介、あの化け物のこと雑魚だって言ってたよね?なのに、自分のケガを治せなくなるほどの力を使うようなことがあったんだ。それって何?」

 このとき、竜介は紅子に真実を告げるべきか否か、迷っていた。
 今回のことで、彼女は自分を狙っているのがどんな恐ろしい相手か思い知ったはずだ。
 無関係な周囲の人間を巻き込んでしまったことにも充分つらい思いをしただろう。
 この上、制御のきかない凄まじい力が自分の中にあると教えることで、何か得るものがあるだろうか?
 真実を教えることは、彼女を傷つけ、余計な恐怖を与えるだけではないのか。
 しかし――
 適当なことを言ってはぐらかしたりしたら、また怒るんだろうなぁ、このお嬢様は。
 でも、悲しい顔をされるより、怒ってるほうがまだましか。
 彼は笑顔を作ると、無難な返事に終始することに決めた。
「きみが気にするようなことじゃないよ」
 予想したとおり、紅子の大きな瞳にいらだちの火がともるのが見えた。
 彼女が何か言おうと口を開いた、そのとき。
「おーい、紅子。竜介くん」
玄蔵がこちらへやってくるのが見えた。
「待たせたね。さ、帰ろうか」
 そう言ってから、彼は竜介と紅子のあいだに漂う微妙な空気に気づいたらしい。助手席に乗り込んだ彼は、運転席にいる竜介に、
「……紅子のやつ、何を怒ってるのかね?」
と、できるだけ低い声で尋ねた。
 竜介は「さあ?」というふうに肩をすくめてみせると、ルームミラーを調整するふりをして、後部座席にいる紅子の様子をうかがう。
 玄蔵の声が聞こえたのかどうか、彼女は怒った顔のまま窓の外を向いていた。
 彼らを乗せた車が駐車場を出た辺りで、紅子はおもむろに口を開いた。
「帰る前に、ちょっと寄ってほしいところがあるんだけど」
 紅子が告げた行き先を聞き、竜介はちらりと助手席に目をやった。
 が、玄蔵が前を向いたまま何も言わない。
「わかった」
 竜介はそう言って、紅子が行きたいという場所にハンドルを切った。

 数十分後。
 車は紅子の高校の近くに来ていた。
 学校の周囲には黄色のテープが張り巡らされ、警察や消防の車が見たこともないほどたくさん止まっている。その周囲を、さらに報道陣らしい車が取り囲んでいるという具合だ。
 竜介はそれらを遠巻きにしながら、紅子が見たいと思っているはずのものがよく見える場所へ車を移動させて止めた。
 金網越しに見える校内には生徒や教師の姿はなく、代わりに、黒っぽいスーツや制服姿の厳しい顔をした男たちのしきりに往来している姿があった。
 そんなものものしい雰囲気の中、問題の校舎は、遠目にもそれとわかるほど無残な姿をさらして建っていた。
 最上階の西の端が真っ黒に焼けただれ、欠けている。
 どれほど凄まじい爆発だったんだろう。
 紅子がそう思ったとたん、また目の前に炎の幻が現れた。そして、断末魔とともに焼き尽くされていく、化け物の姿。
 あとかたもなく――
 今回は、その幻に続きがあった。
 炎の中に、竜介の姿が見えたのだ。
 彼は懸命に炎を押しとどめようとしていた。身体中、あちこちにやけどを負いながら。

 これは……本当に幻?

「こうして直接見ると、あらためて身体が震えるな」
 玄蔵がぽつりと言った。その声で、紅子はハッと現実に引き戻された。
「よく人死にが出なかったものだ。大きなケガをした人間も少なかったというし、紅子も無事だった。奇跡だよ」
「……そうですね」
そうあいづちを打ちながら、奇跡か、たしかにそうかもしれない、と竜介は思った。
 今、このときに、紅子ほどの力の持ち主が一色家にもたらされたことこそが。
「さあ、もう帰ろう」
と、玄蔵が言った。
「あんまり長居すると、警察に目を付けられるぞ。職質でもされたらかなわん」
「うん、わかった。もういい」
紅子は静かに言った。
「遠回りしてくれてありがとう」


 その日の夕方。
「……はい……はい、わかりました。娘にそう申し伝えておきます」
 玄蔵が受話器を置くと、台所から出てきた竜介が声をかけた。
「紅子ちゃんの学校からですか」
「うむ。明日から部分的にだが、授業を再開していくそうだ」
玄蔵はそう言って、安堵の息をついた。
「警察も消防も、文化祭の最中だったこともあって、ガス漏れによる事故だとほぼ断定したらしい。竜介くん、きみには本当に世話になったね」
「よして下さいよ、俺は何も」
「紅子のことだよ。きみがいなければ、今ごろあの子は死んでいたかもしれん」
彼は竜介に頭を下げた。
「ありがとう」
「やめて下さいったら」
竜介は照れたような困ったような様子で頭を掻くと、話題を変えた。
「それはそうと、夕食の準備が出来たんで、先に食べててもらえますか。俺は紅子ちゃんを呼びに行ってきます」
 そう言って、庭の方へ向かう彼の背中に、玄蔵は、
「あいつ、また土蔵の中に入ってるのか」
と声をかけた。
「たぶん、そうでしょう。とりあえず見てきますよ」
 竜介は肩越しにそう答えて出て行った。
 一人残った居間で、玄蔵はひとりごちた。
「まさか、黒珠に襲われた衝撃で、お義母さんの封印が解けるとはな……」

 果たして紅子にとって、これでよかったのかどうか。

 ただ、解放された力が、紅子にとって幸いとなることを祈るよりほかに、今の玄蔵になすすべはなかった。

2015.09.01加筆修正


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