第二十七話「告白」


玄蔵と竜介は、春香にベッド脇のスツールを勧めると、気を利かせて部屋から出て行った。
 紅子は、春香のケガもなく無事な姿がひたすら嬉しかった。が、それをそのまま言うことはできない。黒珠に操られていた記憶など残っていないだろう。
 紅子は枕に背中を預けて上体を起こすと、
「春香、来てくれありがとう」
とだけ言った。
 ところがそのとたん、春香は弾かれたよう紅子に抱きつくと、泣き出した。

「ごめんね、紅子……本当に、ごめん」

 紅子の予想に反し、春香はこの一週間あまりの自分の行動をほとんど記憶していた。
 とはいえ、現実感の希薄なその記憶は、ところどころ混乱している部分もあったけれど。
 ひとけのない真っ暗なあの体育館で目を覚ますまでは、彼女の意識はずっと、ぼんやりと夢を見ているような状態だったようだ。
 意識を取り戻して、なぜこんな場所にいるのだろう……そう思いめぐらせたとき、彼女はようやく、それまでの出来事が、夢の中のことなどではなく現実に起こったことだと気付いたのだった。
 記憶を残すということが、彼女に取り付いていた化け物の意図したことなのかどうか、今となっては知るすべもない。
 もしかしたら、単に力が足りずに、宿主の意識を全て封じてしまえなかっただけなのかもしれない。
 いずれにせよ、その残った記憶が春香の心に深い傷を作ってしまったことは確かだった。
「最初……夢を見たの」
 再びスツールに腰を落ち着けた彼女は、時折、涙でつっかえながら話した。
「それで、思い出したの。ううん、思い出させられたって言うほうが正しいかもしんない。中二のとき、紅子が、やっぱりわたしの好きな人から告白されて、断ってたこと」
「中二のとき?」
 おうむ返しにそう言ってから、紅子は不意に思い出した。
 そういえば……そんなことがあった。
 親友の片思いの相手から交際を申し込まれたけど、断った。
 自分よりも、親友と付き合ってやってほしいと言って。
「春香……もしかして、見てたの?」
 彼女はうなずいた。
「紅子がわたしのために先輩に頼んでくれたことも知ってたよ……」
 その声には、責めるような調子はまったくなかったが、それでも紅子はしばらく何も言うことができなかった。
「ごめん……」
かすれた声で、紅子は言った。
「あたし、何にも知らなかった。余計なことしたよね……ごめん」
「ううん、それはもういいんだ」
春香はかぶりを振る。
「わたしだって、ほとんど忘れかけてたんだから。……ただ、この前の土曜日のあの時は、そんなふうに思えなかったの。気が付いたら部室の外にいて、中から、先輩と紅子の話が聞こえて……それで、ああ、まただ、って……。
 わたし……わたし、ほんの一瞬だけど、紅子がいなくなればいいって思った」
 その瞬間、巧妙にはりめぐらされた傀儡(くぐつ)の糸に、彼女は完全に捕らえられてしまった。
 一瞬の憎悪。
 だが、それだけで十分だったのだ。
 春香の声が涙で震えた。
「ごめんね。ほんとにごめん……わたしがあの時、あんなこと思わなかったら……わたしが紅子のこと、もっとちゃんと信じてたら」
「春香のせいじゃないよ」
紅子は親友の肩を優しく叩いた。
「化け物に操られていたんだからさ。それより、ちゃんと医者に診てもらった?」
「ありがと、大丈夫」
春香はようやく笑顔を見せた。
「昨日、ここで診てもらったから。……紺野さんて優しい人だね。自分のほうが身体のあっちこっちにひどいやけどしてたのに、私の診察を優先してくれたり、色々気を遣ってくれて」
「へえ……」
 紅子はわざと気のない相づちを打ったが、内心、妙に嬉しかった。
 竜介のこと、本当に信じてもいいかもしれない。
 あれ?でも……よほどのケガじゃない限りあっという間に治せるはずじゃなかったっけ?
 それに、どこでやけどなんかしたんだろ?
「……ん?春香の診察を先にしてくれたってことは、あんた竜介と一緒にここに来たの?」
「そうだよ」
春香はうなずいた。
「わたし、体育館で何かが爆発したみたいな物凄い音で目を覚ましたんだけど、真っ暗だし、誰もいないし、ひどい雨だしで、学校の中をうろうろしてたら、三号棟の校舎にいっぱい人が倒れてて。びっくりして一番近い裏門の守衛さんを呼びに行ったんだけど、そこにも誰もいなくてさ、どうしようと思ってたら、気を失ってるあんたを抱えた紺野さんに会ったの」
 ちょうどよかった。紅子ちゃんを病院に運ぶから、君もおいで。一緒に診てもらおう。
 そう竜介から言われて、迎えに来ていた車に同乗させてもらったのだと春香は言った。
「ふ〜ん」
紅子は、できるだけ何気ない口調で訊いた。
「車の中で何か話したの?」
「うーん、わたしを乗っ取ってた化け物のこととか、なんで紅子が狙われてるのかとか」
 紅子は強い特殊能力を持つ一族の末裔で、あの化け物は遠い昔に封印されたのが甦り、自分をかつて封印した一族に復讐するために紅子を襲ったのだ、と竜介は説明したらしい。
「えっ、そんなことまで?」
 紅子はぎょっとした。
 当の紅子自身でさえ荒唐無稽で今だに信じがたいと思ってしまうようなことを?
「で、春香、それ信じたの?」
 春香はあっさりうなずいた。
「だって、化け物に取り憑かれるなんてことが実際に自分に起きたんだよ?それに、取り憑かれてるあいだ、少しだけどあの化け物の考えてることが私にも伝わって来たの。自分を封印した奴らへの憎しみとか、復讐心とか……。あいつ、紅子のことを殺してすごい力を手に入れて、仲間を出し抜いてえらくなってやるんだって思ってた」
彼女は真面目な顔でやおら紅子の手を両手で握ると、続けた。
「紅子、大変なことになったね。わたし、罪滅ぼしってわけじゃないけど、力になるよ。できることがあったら何でも言ってね」
「う、うん……ありがとう」
春香の気迫に気圧されつつも、紅子はいつもの友人が戻ってきてくれたのが嬉しくてにっこりした。
「あたし、春香が無事でいてくれただけで充分だよ」
「紅子……」
 春香の目が、心なしか潤んで見えた。
 しばしそうして微笑みを交わし合っていた彼女たちだったが、やがて、
「でもさ」
と、春香が言った。
「あんなかっこいい人に守ってもらえるなんて、ちょっと妬けるよねー。紺野さん、気を失ってるあんたをすごーく大事そうにお姫様だっこしてたんだから。ただの親戚だって言ってたけど、ホントかなあ。紅子も本当に何とも思ってないわけ?」
 紅子は苦笑しながら思った。
 本当に、いつもの春香だ。
 竜介がうちに来たときどんな格好だったか言ってやろうか、と一瞬彼女は考えたが、やめておいた。どうせ照れ隠しだと思われて信じてくれないだろう。
 というか、あたしお姫様だっこされてたのか!
 紅子はかぁっと顔が熱くなるのを感じた。
「何とも思ってないったら!」
 むきになると逆効果だということがわかっているのに、つい怒ったような口調になってしまう。
「ふーん?まあそういうことにしといてあげよう」
春香はニヤニヤ笑いながらそう言って、スツールから立ち上がった。
「じゃあ、わたしそろそろ帰るね」
「えっ、もう?」
「だって紅子と仲直りもできたし、あんまり長居して疲れさせちゃ悪いし。それに、今うちの学校は授業ができないから、代わりに宿題がいっぱい出てるんだ。早く帰ってやんなくちゃ」
 あ、紅子の分はおじさんに渡してあるからね。
 春香の言葉の意味がわからず、紅子はきょとんとした。
「授業ができない……って、なんで?」
「なんでって……」
春香は一瞬、あきれたような顔をしたが、すぐに気づいて言った。
「そっか、紅子は知らないんだっけ。学校、今大変なことになっちゃってるんだよ」
 紅子はさっき春香から聞いたばかりの話を思い出しながら言った。
「三号棟の中にいっぱい人が倒れてたっていうのは聞いたけど……」
「それだけじゃないの」
春香は深刻な表情でかぶりを振り、言った。
「三号棟の四階の一部があとかたもなく吹き飛んじゃっててさ。テロなんじゃないかって話があって、今、学校は立ち入り禁止、生徒は全員自宅待機ってことになってるの」

 あとかたもなく……
 吹き飛んじゃって……

 その言葉を聞いたとたん、紅子の脳裏を逆巻く紅蓮の炎のイメージがよぎった。
 凄まじい炎の中で、あのナメクジの化け物がまるで紙きれのように焼き尽くされ、消えていく。

 何?この記憶は……?

 一方、春香は紅子が上の空なのも気づかずに、ぺらぺらと話し続けていた。
「ほら、わたし、爆発の音で目が覚めたって言ったでしょ?あれって夢じゃなくて、ホントに何かが爆発した音だったんだよ、きっと。紺野さんがやけどだらけだったのと、何か関係があるんじゃないかなぁ」
 紺野さんが、化け物を倒すために、何か爆発させたとか――
 春香の言葉を、紅子の中の何かが否定していた。
 違う。
 竜介じゃない。
「春香」
紅子は思わず厳しい口調で友人の言葉をさえぎった。
「それ、誰にも言っちゃだめだからね」
 春香は紅子の警告に困惑したような顔で言った。
「や、やだな、そんな怖い顔しなくても、言わないよ」
「うん、ごめん」
そう言って、紅子は努めて表情をゆるめた。
「念のためだけだから。気にしないで」


 春香を自宅まで送るため、玄蔵と竜介も帰って行った。
 一人になった病室で、紅子はベッドに横になり、天井を見上げていた。
 無味乾燥な白い天井は、今、窓からさしこむ夕日を受けて赤く染まっている。
 赤い、炎の色。
 竜介はあのナメクジの化け物を「雑魚」だと言った。
 そんなものを倒すために、校舎の一部を吹き飛ばす必要があるだろうか?
 自分までやけどだらけになってしまうような爆発を引き起こす必要があるだろうか?
 目の前にちらつく、炎のイメージ。
 それが紅子にまた「違う」と語りかけてくる。
 「竜介じゃない」と。
 それでは、あの化け物を倒したのはいったい誰なのか。
 あのとき、意識を失ったあとでいったい何があったのか。
 考えているうち、紅子はまぶたが自然に閉じていくのを感じた。ひどく身体がだるい。まだ体力が完全に回復していないのだろう。
 真実をつかめそうでつかめないもどかしさを抱えながら、彼女はいつしか眠りに落ちていた。

2015.08.31加筆修正


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