第二十六話「戻った記憶、戻れない道」


 耳を(ろう)せんばかりに鳴くセミの声と蒸し暑さの中で、少女は目を覚ました。
 彼女が上体を起こすと、身体にかけられていた午睡(ひるね)用の 薄い布団が、ふわりと膝の上に落ちる。
 そこは広い座敷で、開け放たれた障子の向こうに、強い日差しを受けて白く照り返すぬれ縁と庭が見えた。
 光の届かぬ薄暗い座敷の中とは、対照をなす明るさ。
 ぬれ縁には二つの人影が腰を下ろし、それらは白い日差しの中で陽炎(かげろう)のように揺らめいていた。
 一人は、まだ年若い青年。
 もう一人は、五十代くらいの、和服の婦人。
 彼女の父と祖母だ。
 二人は何やら話し込んでいるようだったが、何を話しているのかはセミの声にかき消されて、彼女のところまではほとんど聞こえてこない。
 ただ、彼らの表情はかつて見たことがないほど深刻で、談笑という雰囲気では到底なかった。
 親たちのただならぬ様子に、彼女は不安を覚えた。
 普段なら、午睡から目を覚ますや否や、すぐ祖母か父のところへ行くのだが、彼らの顔を曇らせている原因がなんとなく自分にあるような気がして、今日はそれがはばかられた。
 しかし、やがて二人のほうから自ずと少女が起きたことに気付くと、彼らは明るい縁側から薄暗い座敷の奥へ入ってきたのだった。
「玄蔵さん」
祖母は、少女のかたわらに膝を落としながら、顔だけを青年のほうに振り向けて、念を押すように言った。
「よろしいですね?」
 青年はしばしの沈黙をおいてから、答える。
「……はい」
 それは相手に同意するというよりは、ほかに返答のしようがないから仕方なくそう言っているというような声音だったが、ともかくも、祖母は彼にうなずき返すと、改まった様子で孫娘に向き直った。
 少女はいつもと違う二人の様子に、当惑を隠さなかった。
「おばあちゃん……?」
 少女の呼びかけに応えるように、祖母はその肩に優しく手を置くと、彼女の瞳を深々とのぞき込んだ。
 二つの視線がぶつかった瞬間、少女の頭の中をすさまじい衝撃と光とが駆け抜け、その両目は祖母のそれに吸い寄せられたまま、()らすことも、閉じることもできなくなった。
「ごめんよ、紅子」
 祖母の声。
 だが、その言葉は耳に聞こえてきたというよりは、頭の中に直接響いてくるようだった。
「わたしの力が足りなかったばっかりに、お前の母さんには辛い思いをさせてしまった……もう、あんなことはたくさんだよ。お前には、お前にだけは、平凡で、幸せな人生を送ってほしい。『力』に振り回されることのない、静かな人生を……だから」
 今日、お前に起こったことは、全部忘れておしまい。
 その一言が、塗りこめてしまった。
 少女の記憶を、意識の奥の無意識、さらにその奧の、深い闇の中へ。
 もしも、彼女と彼女の生命が時ならぬ危機にさらされることなく、そして、その本能の光が無意識の奥底までも照らし出すほどに強烈でなかったとしたら――だとすれば、永遠にその記憶は闇の中でまどろみ続けたことだろう。与えられた力とともに。
 だが、そうはならなかった。
 眠りは破られ、障壁は取り払われた。
 ただ、引き返すことの許されぬ道へとむかうために。


 彼女が意識を取り戻して最初に見たのは、見慣れない、白い天井だった。
 次いで、見覚えのある顔が二つ、視界に入ってきた。
「紅子ちゃん」
「紅子!わたしがわかるか?」
「父さん……竜介」
紅子は起きあがろうとしてひどいめまいに襲われ、再びベッドに倒れ込んだ。
「ここは……?」
「病院だよ。お前は過労でまる一日寝てたんだ」
と、玄蔵が答えた。
 そう言われて初めて、紅子は自分の右手首につながれた点滴の管や、かすかに漂う消毒液の匂いに気付いた。
 彼女は窓の外を見た。燦々とさし込む日差しは、午後のそれだろうか?
 なんで、病院になんか……?
 たしか、あたし学校にいて……。
 そのとたん、なめくじの化け物との、あのぞっとするような格闘が脳裏によみがえってきた。
「あたし……助かったの?」
「そうだよ」
竜介が笑顔でうなずいた。
「なかなか意識が戻らないんで、心配したけどね」
 うんうん、と隣で玄蔵もそれに同意する。
「黒珠に襲われたと竜介くんから連絡をもらったときは生きた心地がしなかったが、たいしたケガがなくてよかった」
 ケガがない?
 紅子は父親の言葉に違和感を覚えた。
 そういえば、身体がだるいだけで、どこにも痛みを感じない。
 試しに、化け物にしたたか殴られたはずの脇腹を、布団の下でそっとまさぐってみたが、やはり痛みはない。
 思い切って布団の中をのぞき込み、いつの間にか着替えさせられていたパジャマをめくってみる。
「こらこら、何をごそごそしとるんだ、はしたない」
 竜介の手前、玄蔵が赤面して怒ったように言ったが、紅子は無視した。
 脇腹には、青いしみのようなあざが残っているだけ。
 まさか……。
 紅子が顔を上げて竜介を見ると、彼は何も言わずにただ微笑した。
「あの……」
 紅子が口を開きかけたそのとき、コンコン、と病室のドアをノックする音が聞こえた。
「俺が出ます」
 ドアを開けに行った竜介が、
「やあ、いいところに来たね」
と、訪問者に親しげに声をかけているのが聞こえた。相手は彼の身体の影に入っていて、紅子からは見えない。
 誰だろう?
 紅子がそう思っていると、竜介がこちらを振り返った。
「紅子ちゃん、お客さんだよ」
そう言って彼は訪問者を中へ招き入れるように脇に退いた。
 少し所在なげにそこに立っていたのは、春香だった。

2015.08.30加筆修正


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