第二十三話「対決」
紅子は、悪寒と、首筋を刺激する、あのちりちりした感覚とともに、目を覚ました。
あまりの寒さに、首筋のほうを気にしながら、両腕で自分の身体を抱える。
と、濡れた制服のブラウスが、ヒヤリと肌に貼り付いた。
ブラウスだけではない。
服を着たままシャワーでも浴びたように、彼女の身体は頭から足のつま先までずぶぬれ、靴は片方なくなり、しかも着衣にはところどころ黒褐色をした気味の悪いねばねばが付着して、異臭を放っている。
怪我こそないが、悪臭と寒さで気分は最悪、今にも風邪を引きそうだった。
「いったい、何が……?」
そうひとりごち、途切れがちな記憶を一つにつなげようとその切れ端を手繰り寄せかけた、そのとき。
「目……が……覚めた……か」
すぐ側で、地の底から響く亡者の呻きのような、くぐもった声が聞こえた。
その声には聞き覚えがあった。
だが、それを聞いたのがいつ、どこだったのかを思い出す前に、声のほうへ転じた紅子の視線はそのまま、そちらに釘付けになった。
大きな稲光が闇を裂き、辺りをくまなく照らしだす。
黒板と教壇、規則正しく並ぶ机の群れ。
学校の中ならどこでも見かける、ありふれた風景――だが、その中にたった一つ、全く異質なものが存在した。
紅子が知っている、どんな生き物にも、それは似ていなかった。
蛇のようにもたげた頭部――それが「頭」と呼べる物なら――は、彼女の身長よりも、頭一つ分ほど上にあり、全身は粘液で覆われ、不気味なぬめりを帯びた光を跳ね返すその姿は巨大な黒いヒルと言えなくもない。
が、毒々しい黄色の蠕毛が無数にうごめくぶよぶよとした腹部や、身体の両側に点々と並ぶ赤い疣のような目、それに、頭部の先端からのびた腹部の蠕毛と同じ色の細長い触手――などは、もしもヒルに美意識というモノがあったなら、これほどには醜悪でない我が身を讃え、造化の神に感謝を捧げたことだろう。
恐怖と生理的な嫌悪感が、紅子の全身に鳥肌を立てた。
悲鳴を上げたいのに、声帯が喉に貼りついてしまったようで、声が出ない。
冷たい汗が噴き出し、心臓が耳元で警鐘を鳴らす――逃げろ、と。
しかし、冷え切っている上、恐怖でガチガチにこわばってしまった身体では、逃げるどころか立ち上がることさえままならない。
ただ座り込んだまま、両手を床についてジリジリとあとじさるのが精一杯だった。
紅子が後ろにさがるたび、化け物もまた、同じくらいの間合いを保ちながら腹部の蠕毛を足代わりに前進する。
まもなく彼女の背中は壁にぶつかり、逃げ場を失った。
だが、化け物の匍匐は続き、両者の距離は少しずつ、縮まっていく。
「こっ……来ない……で」
やっとのことで絞り出した紅子の声は、かすれ、ざらついていた。
「待って……いた……ぞ」
先刻と同じくぐもった声が、化け物のほうから聞こえた。
身体のどこから発声しているのかはわからないが、あれはこの化け物の声だったのだ。
「おまえ……が……目をさます……のを」
化け物はそう言って、ゲッ、ゲッ、と、何かを吐き出そうとするような音を立てた。
どうやら、こいつの笑い声らしい。
「な、泣き……も、わめき……も、しない……もの……殺しても……おもしろく、ない」
今や、化け物の姿は目前に迫り、蠕毛の一本一本から、気味の悪い皮膚の凸凹までも、つぶさに見て取れた。
制服に付いているねばねばと同じ悪臭が鼻を突き、首筋のちりつきは今や耐え難いほどだ。
紅子は猛烈な吐き気を覚えると同時に、この匂いを最初にかいだのがどこだったかを、ようやく思い出した。
体育館だ。
いったんは姿を消した春香が客席にいるのを見つけて駆け寄ろうとしたとき、これと全く同じ匂いを放つ「何か」に、いきなり物凄い力で捕えられたのだ。
そこから先のことを憶えていないのは、意識を失ったせいだろう。
記憶は、一度つながり始めると、瞬く間に一本の線になっていった。
あのくぐもった声に聞き覚えがあるのも、当然だった。
地下倉庫にいたとき、春香の口から聞こえたのだ。
「ど、どうし……た」
化け物はこれ見よがしに、触手を紅子の顔に近づけた。
その先端では、研ぎ澄まされた剃刀のような鍵爪が、窓の外の稲妻をうつして光っている。
「恐ろし……て、声も……出ない……か?」
「は、春香を……」
紅子は気丈な声を出そうと努めたが、だめだ。身体の震えが止まらない。
「春香を、操ってたの……あんたね?」
化け物は肯定の返事をする代わりに、またあの、ゲッ、ゲッ、という音を立てた。
「あの……女、おまえ、憎んで……いた。心の……底のほうで、妬んで……いた。お、おれ、その……解放、手伝った……だけ」
「うそだ!」
そう叫んだ次の瞬間、耳元で何かが風を切るような音が聞こえたかと思うと、紅子の脇腹を、爆発的な衝撃が襲った。
彼女は周囲の机や椅子もろとも横殴りに吹き飛ばされたが、その悲鳴も、ものがぶつかり合うけたたましい衝撃音も、雷鳴にかき消されてしまった。
とっさに頭はかばったものの、背中をしたたかに打ち、紅子は一瞬、呼吸困難に陥った。
「ぐ……はっ」
空気を求めて無理にあえぐと、脇腹に激痛が走る。
こらえきれないうめきが、食いしばった歯のあいだからもれた。
化け物が言った。
「た、他人……より、じ……自分……の心配したら……どう、だ」
痛みと酸素不足で混濁する意識の中、敵の気配が背中に迫るのを感じ、紅子は床に倒れたまま、殆ど本能的に逃れようともがいた。
周囲には、倒れた机の中に入っていた教科書や筆記具などが散乱し、行く手を阻んでいる。
しかし、邪魔になるものばかりでもない。
稲光の中に浮かび上がったそれを、反射的に鷲掴みにしたそのとき、化け物の触手がその足首を捕らえた。
紅子は迷わず手の中のものを一閃させる。
それは、刃を目一杯まで出した工作用のカッターナイフだった。
「ギャアアアアアッ!!」
今度は化け物が悲鳴を上げる番だった。
切断された触手は傷口からどす黒い体液を噴き、床の上には見る間に気味の悪い色の水たまりができていった。
化け物が苦痛にのたうち回っている隙に、紅子は脇腹をかばいながら喘ぎあえぎ立ち上がり、ナイフを両手でかまえなおした。
しかし。
そのささやかな武器に、活躍の機会が与えられることは、もはやなかった。
次の瞬間、それを握る彼女の手が、切断をまぬがれた別の触手によって絡めとられたのである。
「キャッ!?」
ナイフを振るうどころか、避けるいとまさえなく、紅子の両手首はがっちりと捕らえられてしまった。
「この……ア、マ……なめた……まね、しやがって……!!」
追いつめたはずの獲物から、思わぬ反撃を受けて逆上した化け物に、もはや容赦はない。
「こ……殺す……殺す……!!」
凄まじい力で締めつけられ、両手は瞬く間に感覚を失っていく。
うめきながら、あえぎながら、必死でナイフを把持し続ける。
これを手放してしまったら、もう本当に終わり――そう思ったからだ。
だが、その努力も長くはもたなかった。
別の触手が、今度は首に絡みついてきたのである。
「う……」
気道がふさがれると、たちまち頭に靄がかかり始めた。
身体に力が入らず、死という文字が目の前をちらつく。
何かをわめき散らしている化け物の声。
それに混じって、紅子は自分の手を離れたナイフが床に落ち――
かつん。
という硬質な音を立てるのを聞いたような気がするけれど、定かではない。
その音はなぜか、頭の中から響いたようだった。
そうして――
それを最後に、彼女は意識を手放した。
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