第二十二話「嵐」


 春香の足元から立ちのぼる煙霧が再び濃くなり、彼女の姿を覆い隠し始めた。
 どうやら、力の差が歴然だとわかって、逃げるつもりらしい。
 だが、竜介には、敵の逃亡を許す気など毛頭なかった。
 彼が少女との間合いを詰めたのと、その右手に金色の(いかづち)(ひらめ)いたのは、ほぼ同時。
 コンマ一秒後には、それが彼女の鳩尾(みぞおち)にきまるはずだった。
 ところが。
「やめてっ!!」
 それまで様子を見守っていた紅子が、いきなり、後ろから竜介にしがみついたのだ。
 彼は驚いて動きを止めると、肩越しに怒鳴った。
「何なんだ、いったい!?」
「あたしの友達にケガさせないで!」
「ケガぁ?あのねぇ、俺は……」
 竜介は憮然(ぶぜん)としながら、何事か説明しようとしたが、視界の端に、春香の姿が青白い煙霧にかき消されていくのが写ると、その言葉はそのまま途切れてしまった。
「待て!!」
 彼は急いで煙の中に飛び込んだが、そこには既に、少女の実体はなかった。
 (あざけ)るような笑みだけを残し、春香の幻は消えた。
 竜介は心中で舌打ちすると、右手でまだパリパリと(せわ)しなく火花を散らしていた稲光を消し、紅子に向き直った。
 紅子は、そのとき既に、自分の行動がもしかしたら見当違いのモノだったかも知れない、と感じていたのだが、振り返った彼の不機嫌そうな顔を見たとたん、それが確信に変わった。
 ヘラヘラと笑っている彼しかまだ知らなかった紅子は、思いがけず物凄い目でにらまれ、底冷えのするような感覚を味わった。
「あ、あの、あたし……」
「当て身を食わせて、気絶させようとしただけだ」
 彼は紅子の言葉をさえぎると、感情を抑えた声でそれだけ言い、彼女の脇をすり抜けて出口へ向かった。
「ごめん……なさい」
紅子はあわてて追いすがると、謝った。
「でも、あの、野良犬の時とは、何だか雰囲気が違ってたし、それで……」
「それで、俺があの女の子を傷つけるかもしれないと思ったのか」
 地下から出たところで、彼は静かに言った。
 その声にとがめるような響きはなかったけれど、紅子には前に回って彼の表情を確かめる勇気はなかった。
 ややあって、彼女の沈黙を肯定と見なしたのか、彼は再び口を開いた。
「犬たちの時は、操られているだけだったから、とっ()いている障気(しょうき)を払ってやれば良かったんだが、彼女の場合は、障気の『本体』が相手だったから、やり方も変えざるを得なかった。けど、俺は……いや、もういいか」
彼は苦笑したようだった。
「やっちまったことをあれこれ言っても仕方ない。第一、きみがまだ俺のことを信用できないのは当然の話さ、な」
 語尾の「な」を言い終えると同時に、彼はようやく、身体を半分だけ転じて紅子を振り返った。
 地下室にいたとき彼を包んでいた光輝も今はなりを潜め、二人を照らすのは火災報知器の赤い光だけだったが、互いの表情を読みとるには、充分な明かりだった。
 竜介の顔に怒りの色はもはやなく、ただ、静かだが苦い笑みだけが、かすかに浮かんでいた。
 紅子の胸は針で突かれたように痛んだ。
 彼を信用していないというのは、事実だ。
 出会い方からして最悪だし、何だか色々普通じゃないし、信用しろというのが無理だ。
 でも、と紅子は思う。
 でも……あたしを助けてくれた。
 目的は何であれ、あたしを護ってくれている。
 それも事実。
 あたしは――竜介を信じるべきだった。
 紅子は後悔の念に襲われ、うなだれた。
「本当に……ごめんなさい」
「いいよ、もう」
いつもの穏やかな声で、彼は言った。
「俺のことは、嫌いでも構わない。ただ、信じてほしい。俺は君の護衛者だ。この命に代えても、君を(まも)る。君の命だけじゃない、君が大切に思うもの全てを、力の及ぶ限り」
 その言葉が、冗談や悪ふざけでないことは、彼の表情を見ればわかった。
 だが、それでも信じられず、紅子は、彼の真剣な顔にまじまじと見入った。
「なんで……」
と、疑問が口をついて出る。
「何のために、そこまでしてくれるの?知り合ったばっかの、他人のあたしに?」
「そうすることが、俺の大切なものを護る、唯一の手段だから」
そのとき、光線の具合からか、彼の顔は紅子よりかなり年上に見えた。
「それに、知り合ったばっかじゃない。少なくとも俺は、ずっと前からきみを知ってる」
 答えであって答えでない、謎かけのような言葉。
 だが、紅子には、その謎を解くための時間も、手がかりもなかった。
「行こう」
と、竜介は彼女をうながした。
「とりあえずここを出て、どこか明るい場所を探さないと」

 舞台袖を出た二人は、館内照明のスイッチを探すことにした。
 外はかなり強い雨が降っているらしく、体育館の屋根を叩く雨粒の音が、まるで飛行機か何かの爆音のようにすさまじい。
 屋内の照明は全て消え、人の気配も消えていた。
 窓の外を時折走る稲光と緊急避難路を示す誘導灯だけが、辺りをかろうじて照らしている。
 見渡す限り、だれもいない――いや。
 一人だけ、いた。
 客席として並べられた長椅子、その一つに、誰かが寝転がっている。
 その人影に、紅子は見覚えがあった。
 窓の外でまた、大きな稲光が走った。
 その閃光が、彼女の見守る人影を闇に白く浮かび上がらせる。
「春香!?」
 紅子は思わず叫んでいた。
 そう、それは確かに彼女の親友だった。
 しかし、誰一人いなくなった館内に、なぜ、彼女だけが――?
 偶然にしては、できすぎている。
 が、そのときの紅子の脳裏には、仰臥(ぎょうが)したまま死んだように動かない友人の姿しかなく、そんな疑問の入り込む余地などなかった。
 竜介が紅子の様子に気付くのと、彼女が客席に向かって駆け出すのとは、ほとんど同時だった。
「紅子ちゃん!?」
彼は慌てて、少女の腕を捕らえようとしたが、遅かった。
「だめだ、俺のそばを離れるな!!」
 その声を、雷鳴が無惨(むざん)にかき消す。
 紅子を追って、竜介も客席に飛び降りた。
 あともう一息で追いつくと思った、そのとき。
 彼の視界から、彼女の姿が忽然(こつぜん)と消えた。
 絹を裂くような悲鳴、ガラスの割れる音。
 竜介の視線が、素速くそれらを追う。
 高い天井を支えている壁の上の方には、採光と通気を兼ねた大きな窓が並び、下にはキャットウォークが設けてある。
 その高い窓のうち、一つから飛び出していく、人間とは似ても似つかぬような姿の影を、彼の目は逃さなかった。
「待てっ!!」
 壁に取り付けられている梯子(はしご)からキャットウォークに急いで上がると、吹き込む激しい風雨を手でさえぎりながら、割れた窓のそばに駆け寄った。
 と、彼のつま先に、何やら軽いものが当たる。
 紅子の履いていたローファー。
 その片方だけが、窓の下に転がって、雨に叩かれていた。
 彼は、窓の外に身を躍らせた。
 雨のせいで、足場も視界も最悪だが、彼は危なげなく着地をきめ、走り出す。
 紅子をさらったとおぼしきあの影は、もう、どこにも見あたらない。
 けれど、人ならざるあの生き物は、ナメクジがその軌跡を残すように、自らの気配――彼が「障気」と呼ぶもの――を残していた。
 竜介は、その軌跡を追った。
 ただひたすら、紅子の無事を祈りながら。


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