第二十一話「鬼火」
「見たんだ……先週の土曜の夕方。あのいとこだとかいう人と、抱き合ってたとこ」
「だっ……」
紅子は真っ赤になって絶句した。
「あれは、そんなんじゃないんだったら!」
「じゃあ、何なの?」
「そ、それは……」
野良犬の群に襲われたなんて、信じてはくれないだろう。
彼女は返答に窮した。
あれを春香に見られていたなんて……あの場所に人の気配なんかなかったのに。
「でも、春香。何であんな所にいたの?」
くくっ。
唇の両端をつり上げ、春香が笑った。
この日、彼女が初めて見せた笑顔。
だが、そこにいつもの少女らしさは微塵もなく、鬼女が微笑んでいるようだった。
「わたし、何でも知ってるよ」
彼女は言った。
「紅子。恋愛に興味がないなんて、タダのポーズなんでしょ?センパイのことも、本当は断るつもりなんかないんでしょ?」
「違うったら!」
紅子は必死で否定した。
首筋のひりつく感覚が、どんどん強くなってくる。気分が悪い。
「そうやって誰にでもいい顔して、安っぽい同情振りまいて、男の気を引いて……!」
春香の身体が、わなわなと震えだした。
まるで、あふれ出す感情を抑えきれなくなったかのように。
「春香……!?」
そのとき、紅子は春香の足元から、青白い煙のようなモノが立ちのぼってきているのに気付いた。
下は打ちっぱなしのコンクリートだ。火の気はない。
では、一体どこから?わからない。
ただ、紅子にわかることは、その煙がこの上なく危険であり、このままではいけないということ、それだけだった。
気体はどんどん濃くなっていく。
春香を連れて、何とかここを離れなければ。
「春香、あたしの話を聞いて!」
「あんたなんか……死んじゃえ!!」
次の瞬間、紅子は悲鳴を上げた。
まるで春香の叫びが合図だったかのように、窓などないはずの地下室で、すさまじい突風が巻き起こったのだ。
風は一瞬にして紅子の身体を、そのそばにあった式典用の看板や暗幕などと共に吹き飛ばしながら、倉庫の出口や天井の隙間から真上の体育館へ、一気に吹き抜けていく。
紅子はとっさに頭を両腕でかばい、コンクリートに叩きつけられたときの痛みに備え、身を固くした。
ところが、次の瞬間、彼女を受け止めたのは思いがけず柔らかな感触だった。
運良く、体操用のウレタンマットの上にでも落ちたのだろうか?
いや、そうではなかった。
彼女がホッと胸をなで下ろすか下ろさないかのうちに、そのすぐ頭上で、ヒュウ、という短い口笛のような吐息と、耳慣れた声がこう言うのが聞こえた。
「間一髪」
顔を上げると、竜介の端正な顔がすぐそこにあった。
紅子は、寸でのところで彼に抱きとめられていたのだ。
彼の顔は、彼女の目に、鮮やかな青い光に包まれて見えた。
錯覚、ではない。
顔だけでなく、彼の全身が青く輝いていた。
凶暴な犬たちを眠らせ、彼女の傷を癒したものと同じ、不思議な光。
その正体を、紅子は訊いてみたいと思った。
だが、その質問はうまく言葉にならず、代わりに、別の質問が口をついて出た。
「な、なんで……ここに?」
「そいつはこっちのセリフだぜ」
竜介は、少女の身体に怪我がないことを確かめてから地面に下ろすと、苦笑した。
「黒珠のニオイをたどってきたら、どこにもいないと思ってたきみが、こんなとこでこんなのと遊んでるんだからな」
と、彼はあごで春香のほうを示す。
春香は何も言わず、じっとこちらをにらんだままだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
黒珠。
聞いたことのない名前だが、紅子は無視した。
それよりも、友人を「こんなの」呼ばわりされたことのほうが重大だ。
「こんなのって何?春香はあたしの……」
友達。そう言おうとした。
だが――
「じゃ……邪魔だてする……か、碧珠よ」
地の底から響いてくるような、気味の悪いしゃがれ声が、紅子の言葉をさえぎった。
うまくろれつのまわらぬ、途切れがちなそれは、確かに、春香の唇から聞こえてきた――悪夢のように。
「するさ」
竜介が答えた。
「この娘に死なれちゃ、困るんでね」
「ならば……容赦、せぬ……」
春香の身体を取り巻く鬼火が、不気味な輝きを増し、その足元からは再び濃い煙霧が立ちのぼり始めていた。
「容赦ぁ?」
フン、と竜介は鼻先でせせら笑う。
彼の身体を包む青い光は今やまばゆいほどに輝き、その光輝のまわりを、金色の小さな稲妻がしきりに駆け巡っている。
「封印が解けたばっかでろくに力も使えないザコが、言うじゃねーか」
「だま……れ!」
少女が怒鳴ったとたん、その足元にわだかまっていた青白い気体が、竜介に襲いかかった。
それは一瞬にして巨大な影のように広がったかと思うや、あっという間に彼の身体を呑み込んでいく。
「竜介!!」
紅子の悲鳴が響いた。
正体不明の煙は、竜介の姿はおろか、彼の放つ青い光さえ隠すほどに濃い。
このままでは、窒息してしまう……そう、普通の人間なら。
竜介を一分の隙もないほどに封じ込めていたはずの煙は、次の瞬間、たった一閃の雷光によって切り払われた。
霧散していく気体のむこうには、あの冴え冴えとした光輝に包まれ、何事もなかったかのようにたたずむ、竜介の姿があった。
彼は肩越しに紅子を振り返ると、言った。
「初めて俺のこと、名前で呼んでくれたな」
普段なら、この手のからかいにはムキになって言い返しただろうが、このときの彼女は安堵のあまり、
「バカ……!」
そう言ったきり、涙で言葉をなくしてしまった。
薄闇の中で、竜介にその涙が見えたかどうかは定かでない。
だが、彼は紅子に優しい笑みを投げてから、再び正面に向き直った。
「さてと」
青白い鬼火をまとい、険しい目つきでこちらを睨んでいる、少女の姿をしたモノに向かって、彼は言った。
その唇は笑みを浮かべたままだが、瞳には、たった今、紅子に見せた表情とは対照的な、剣呑な光が宿っていた。
「それじゃ、とっとと片をつけちまおうぜ」
このページの文書については、無断転載をご遠慮下さい。