第二十話「嘘つき」
「これ飲んだら、さっさと帰ってよねっ!」
コーヒーカップを乱暴に置くと、紅子はそれだけ言い捨てて教室を出ていった。
少女の後ろ姿を見送った後、竜介は熱いコーヒーをすすりながら苦笑した。
歓迎はされないだろうと思っていたけど、まさかこれほど嫌われるとはねぇ……。
彼とて、別にひまを持てあましてこんな所まで出張ってきたわけではない。それなりに理由があった。
まず一つには、この日の校内が事実上、部外者の出入り自由となっていたこと。
どさくさに紛れて、『連中』が紅子にちょっかいをかけてこないとも限らない。
それでも、晴天ならばいつも通り鳥たちに監視を任せておいただろう。
彼は、窓の外に目をやった。
空は厚く暗雲がたれ込め、正午を過ぎたばかりだというのに、早くも夕暮れのようだ。
この天候が、彼がじきじきに出張って来たもう一つの理由だった。
『連中』は光を嫌うから、日の射す日中はまず安全といえる。だが、今日のようなひどい曇天では――
何も起きなければいいが……。
コーヒーを飲む彼の眉間が、いつしか険しいしわを刻んでいた。
「あのぉ……」
紅子のクラスメイトだろう、エプロンを着けた女子生徒数人が、恐る恐る、という様子で、声をかけてきたのは、その時だった。
「紅子のこと、怒らないで下さいね?」
「は?」
いきなり覚えのないことを言われて、竜介は間の抜けた返事をした。
が、少女たちは気にせず続ける。
「あの子、照れてるんだと思うんです。だから、あんな風に邪険にして」
「いとこだなんてウソついたり」
「あたし達にからかわれると思ったんでない?」
「今までずっと、『男ぉ?キョーミない』って子だったもんねぇ」
「にしても、けっこう面食いだったのね」
とまあ、堰を切ったようにてんでばらばらにしゃべる彼女たちには、何を言ってもムダだっただろうけれど。
どうやら彼女たちは竜介と紅子の関係を誤解していて、彼が難しい顔をしていたのを、紅子の横柄な態度に腹を立てていると思い込んだようだ。
このまま放っておくのも一興だが、それでは後々、紅子に恨まれることになりかねない。
「残念ながら」
少女たちの際限ないお喋りをどうにかさえぎると、彼は言った。
「紅子ちゃんが言ったとおり、俺は単なるいとこだよ」
一瞬の沈黙の後、彼女たちはいっせいに叫んだ。
「うっそぉぉぉ!!」
「誰よ、カレだなんて言ったの」
「だって、紹介してよって言ったら、ものすごくいやがるんだもん、てっきり……」
再開された少女たちのおしゃべりを、竜介はしばらく苦笑しながら聞き流していたが、やがて、紅子がなかなか教室にもどってこないことに気づいた。
「紅子ちゃん、まだもどってこないけど、どこに行ったかわかるかい?」
「紅子なら、体育館だと思います」
一人が答えた。
「あと二時間くらいはもどってこないんじゃないかな。現音のライブがあるから」
「ライブ?」
竜介は聞き返した。
「それを聴きに?」
「違いますよォ」
別の少女が、笑いながら口を挟んだ。
「彼女、出演するんです。ヴォーカルで」
「すんごいいやがってたけどね」
「え〜、何で?うまいと思ったけどな」
「小さい頃、おばあちゃんに言われたんだって。『紅子は音痴だから、人前で歌わないようにしなさい』って……」
確かに、それが賢明だ。
竜介は声に出さずにつぶやいた。
「力」の発動を望まないなら。
彼はコーヒーを飲み干すと、少女たちに体育館の場所を訊き、その場を後にした。
その頃。
ステージの上で、紅子たち現音部員は最後のリハーサルに余念がなかった。
開演までまだ三十分以上あるというのに、長椅子で作られた座席のうち、ステージに近い部分は既に満席で、いやでも緊張が高まる。
だが、紅子は教室で春香の姿を見かけてからというもの、ずっと何者かの視線を感じて落ち着かなかった。
それは客席からのものとは全く異質で、鋭く、殺気さえはらんでいるように思われた。
何だろう。何かが……。
リハーサルそっちのけで相手の気配を探り続けていた彼女が、ふと首をめぐらせた、そのとき。
舞台のそでに立ち、こちらを見ている人影が、ちらりと見えた。
ステージライトがほとんど届かない、薄暗い場所。
それにもかかわらず、紅子にはそれが誰であるか、即座に分かった。
春香だ。
ところが、彼女は次の瞬間には闇の中へ姿を消してしまっていた。
紅子に見つけられたことをさとったのかも知れない。
「待って!!」
紅子は思わず叫ぶと、あとを追って駆け出していた。
その背中を、さらに藤臣の声が追う。
「一色!?」
「すみません、トイレ行ってきますっ!!」
肩越しにそう叫び返して、彼女は春香が消えた闇の中へ、自らも飛び込んだ。
非常用ベルの位置を示す赤い光が、開け放されたままになっている鉄扉を照らしていた。
その先は下へ降りる階段になっていて、舞台下の倉庫へ続いている。
この学園祭の準備で、彼女も一度だけ入ったことがある。
春香は倉庫の中へ入って行ったのだろうか?
外へ出ていった形跡がないのを見て取ると、彼女は、自分を誘うようにぽっかりと口を開けている扉の向こうへ進んだ。
木製の階段は、一段降りるたびに、いやな音をたてて軋んだ。
中はほこりっぽく、かび臭く、そして、まったくの暗闇だった。
だが、明かりのスイッチを探す前に、彼女は親友の姿をそこに見つけた。
それは闇の中に青白く浮かび上がり、無言で、何の感情も交えない目をして、じっとこちらを見ていた。
本当に、春香なのだろうか?
紅子は背筋が寒くなるのを覚えた。
まるで鬼火をまとっているような――
それとも、この気味の悪さは闇と沈黙のなせる悪戯か?
「あ、あの、春香」
彼女は思いきって話しかけてみた。
ともかくも、久しぶりに会えたのだ。
春香が自分のことを誤解しているのなら、それを解くチャンスは今しかない。
「逃げないで、聞いてほしいことがあるんだ」
背筋が、妙にひりひりする。
紅子はうなじをさすりながら、続けた。
「その……藤臣先輩とあたしのこと、なんか誤解してるんじゃないかと思っ」
「紅子」
彼女の言葉をさえぎったその声は、抑揚がなく、冷ややかだった。
「今、好きな人、いる?」
そのとたん、紅子の脳裏をなぜか一瞬、竜介の顔がよぎった。
彼女はあわててかぶりを振る。
「い、いるわけないじゃん」
春香の顔が、ぴくりと動いた。
だが、すぐまた元の無表情にもどると、彼女は言った。
「ウソツキ」
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