第十七話「作られた恐怖・2」


 竜介は土蔵の引き戸に元通り錠前をかけ直すと、
「家の中に戻ろう」
と、先に立って歩き出した。
「ちょっと待ってよ!」
紅子は彼の後を追った。
「作られたものって、どういうこと?」
「君があそこへ近づくのを怖いと思うのは、強い催眠暗示(さいみんあんじ)によるものだってことさ」
「催眠暗示?」
「ああ」
彼はぬれ縁から屋内に上がると、まっすぐ台所に向かいながら、続けた。
「君をあの場所から遠ざけたい誰かが、君の心に恐怖を植え付けたんだ。君の知らないうちに」
「まさか……!?」
「そのまさか、さ」
 彼は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出すと、流し台に伏せてあったグラス二つに水を注ぎ、片方を紅子に手渡した。
 その冷たいグラスを受け取ったとたん、紅子はこれまで気付かなかったのが不思議なほど猛烈なのどの渇きを覚え、思わず中身を一気に飲み干していた。
 竜介は自分のグラスから水を一口だけ飲み、言った。
「俺も、君の親父さんから聞いたときは、まさか、と思ったけどね」
 そのとき、二杯目の水を飲んでいた紅子は、大いにむせた。
「と、父さんがそう言ったの?」
 竜介はうなずいた。
「ついでに言えば、君の記憶の一部も、例の暗示で作り替えられているんだそうだ……君は、自分ではあの土蔵に入ったことなんて一度もないと思っているだろうけど、本当は、たった一度だけ、入ってみたことがある。今から九年前……小学校一年の、夏休みに」
 その言葉が何かの引き金を引いたかのように、突然、紅子の目の前に、とても懐かしいけれど見覚えのない光景が現れた。
 家の座敷で、父と祖母が話し込んでいる。
 見たこともないほど暗い表情で、ひそひそと。
 季節は……そう、夏だ。
「きみはそこで、きわめて特異な経験をして……だけどそれは、君の親父さんやおばあさんが、一番望んでいなかったことだった」
 竜介の言葉は続いていたが、彼女はそれをどこか遠くに聞いていた。
 心臓が、耳元で鳴っている。
 記憶の中でも、現実でも。
 その音が邪魔で、二人の会話が聞こえない。
 ただ、これだけはわかる。
 二人は、あたしのことを話してる。
 何か……あった。
 何か、大変なことをしてしまった。
 それは――
 あともうひと息。
 記憶に手がとどきかけた、そのとき。
 突然、テレビのサンドストームのように脳裏が真っ白になった。
 続けて彼女を襲う、すさまじい頭痛。
「……っく……」
 持っていたグラスが手から滑り落ち、床に当たって砕ける。
 飛び散る水と破片。
 だが、激痛の中にいる紅子はそれどころではなかった。
 彼女は両手で頭を抱えたまま、その場にくずおれるように膝をついた。
 驚いた竜介が何か叫んでいるのが聞こえる。
 が、それに返事をする余裕さえない。
 時間にすれば、ほんの数秒。それが、ひどく長かった。
 ようやく痛みが引いて顔を上げると、すぐそこに心配そうな竜介の顔があった。
「大丈夫かい」
 彼は床に片膝をつき、目の高さを彼女に合わせて言った。
「前にも……」
紅子は額に浮いた脂汗を手の甲で拭うと、大きく喘いだ。
「何度かあったんだ、こういうこと……いきなり頭が痛くなって……それまで、何を考えてたか、わからなくなるの」
 竜介が言う。
「……何かを思い出しかけてたのに?」
 彼女は驚いて彼を見た。
「どうして……知ってるの」
「言っただろ?君の記憶は作り替えられてる。その頭痛は、たぶん、作り替えられる前の『元の記憶』を思い出そうとしたときに起こるんだ」
「あたしに……思い出させないために?でも、元の記憶って何?」
「あの蔵の中で起こったこと。それと……誰が君の記憶を封じたか、だろうな」
「なんで、そんな」
わけがわからない。紅子は額を押さえた。
「いったい誰が?」
 答えはすぐに返ってきた。
「亡くなった、八千代おばさん……君のおばあさんだ」
 紅子の大きな瞳が、さらに大きくなる。
 竜介は少し急いで言葉を付け足した。
「誤解するなよ」
と、彼は言った。
「八千代おばさんはただ君に、平凡で幸せな人生を送ってほしかっただけだ。そのためには、君に苦痛を与えるとわかっていても、問題の記憶を封じるしかなかった。その封印を解く最大の鍵があるあの場所に君が二度と近づかないよう、暗示をかけてでも」
「……よくわからない」
紅子はかぶりを振った。
「あんな所で、何があったっていうの……あたしがその記憶を取り戻したら、何がどうなるの?」
 今度の答えは、すぐには返ってこなかった。
 思いがけない沈黙。
 紅子の胸がいやな予感に騒ぐ。
 やがて、竜介はぽつりと言った。
「今まで通りの生活が、できなくなるかもしれない」
 紅子には彼の言葉の意味がよく理解できなかった。
 今まで通りじゃなくなる?
 が、彼女が何か聞き返そうとするよりも先に、彼は続けた。
「少なくとも、君のお母さんは……たぶん、あまり幸せじゃなかったと思う。でも、君は日奈おばさんとは違う。もしかしたら……」
 その先をどう言えばいいかわからない。
 そんな顔で竜介は黙り込む。
「あんたの言うこと、ぜんぜんわかんない」
 紅子はそう言うのがやっとだった。
 母は確かに病弱だったらしい。それは祖母から聞かされて知っている。
 それでも、父と出会えて、短いが幸せな人生を送ったのではなかったのか――
「きみが記憶を取り戻せば、俺の言葉の意味が少しはわかるって言ったら、どうする?」
 紅子は質問の意図がわからず、視線をあげて相手を見た。こちらを見ている竜介と、まともに視線がぶつかる。
「どうする、って言われても……」
こうもわからないことだらけでは、どうしようもない。
「あんたは、あたしにどうしろっていうの」
「君に、記憶を取り戻してほしい」
竜介は、静かに言った。
「俺は……いや、俺たちには、君の力が必要だ。今すぐにでも」

2009.10.26一部改筆


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