第十八話「巫覡(ふげき)の血脈」


 紅子はおうむがえしに言った。
「あたしの……力?」
「そうだよ」
 それ以上は何の説明もせず、竜介は床に散らばったガラス片を拾い始めた。
 まるで、もう話がすべて終わったかのように。
「ちょっと立って」
 そう言われて立ち上がり、紅子はぎょっとなった。
 今まで自分が膝をついていた場所に、血のあとが点々とついている。
 慌てて自分の足を見れば、はいていたデニムハーフパンツに覆われていないむこうずねが血だらけ。
 頭痛でほかの感覚が麻痺状態だったとはいえ、自分が割ったガラスの上に座り込むなんて我ながらバカすぎる。
 しかも、今の今まで気づかなかったなんて。
 でも、傷を見てしまったら、もう痛みを無視できない。
「いったぁ……」
「あー、こりゃひでぇ」
 竜介はガラス片を手早く一カ所に寄せ集めてから、紅子の傷を見て言った。
 続けて、
「ちょっとそこの椅子に座ってくれる?」
と、すぐそばにあったダイニングチェアを指さす。
 紅子は慌てて頭と両手を同時に振った。
「いい、いらない。傷の手当てくらい、自分でできるしっ」
 他人にしてもらうなんて、子供じゃあるまいし、こっ恥ずかしい。
 ましてや肉親でもない男に足を触られるなど、生理的に受けつけない。
 だが、彼女が救急箱を取りに行こうとする前に、竜介はやすやすとその肩先をとらえてしまった。
「ま、そう言わずに」
 整った顔立ちに、人畜無害そうな笑顔。
 誰だって思わず信用したくなるような。
「俺に任せたほうが絶対早いって。保証する」
 保証する、とか言われても。
 と、紅子は抵抗しようとしたのだが、まるで自分の意志とは無関係に身体が動いてしまい、気がついたときには椅子に座らされていた。
 竜介の手は肩に軽く触れていただけだ。
 抱えられていたわけではない。無理な力も加わっていない。
 もし紅子に武術の覚えがなければ、いったいどういう魔法かといぶかるだけだったろうが、あいにくと彼女は合気道でこういうことができるのを知っていた。
 肩で気を合わせられてしまった。
 愕然となると同時に、危ないところを助けられて一度は解いていた警戒心が、またにわかによみがえる。
 こいつ……この男、油断できない。
「あの、あたし」
 やっぱり、いらない。
 そう言って立ち上がろうとした、そのとき。
 目の覚めるような青い光が竜介の右手に現れた。
 昨日、彼の全身を包んでいた、あの不思議な光。
 断るつもりだったのに、触られたくなんかないはずなのに、その光を見たとたん、まるで魅入られたように動けなくなってしまった。
 心臓の音を耳元で聞きながら、いったい何をされるのかと恐ろしいような気持ちで見ていると、竜介は彼女の足下にひざまづき、その青く光る指先で足の傷にそっと触れた。
 本当に、それだけ。
 たったそれだけで、じくじくとした傷の痛みが次の瞬間、楽になっていく。
 それこそ、魔法のように。
 足が温かくて、気持ちがいい。
 思わず陶然となる自分に必死で喝を入れるが、うまくいかない。
 ついに目を閉じてしまいそうになった、そのとき。
「はい、終了」
という、のんきな声が聞こえて、紅子はハッと我に返った。
 時間にすれば一分程度のことだろうが、長い一分だったと思う。
 青い光は消えていて、それが彼女をほっとしたような、なぜか残念なような、複雑な気分にさせた。
 自分の足に目を落とせば、乾いた血がこびりついているだけで、傷があったとおぼしき場所にはピンク色の真新しい皮膚がのぞいていた。
 痛みはもちろん、ない。
「な。言った通り、早かったろ?」
 狐につままれたような顔をしている紅子に、竜介はひざまづいたまま、そう言って得意げに笑った。
「俺はここ片づけとくから、風呂場でその足、洗ってきたら?」

 シャワーで血糊といっしょに貼り付いていた細かいガラス片を念入りに洗い流して台所に戻ると、そこにはもう、割れたコップもこぼれた水もなかった。
「ああ、お帰り」
竜介が片手にコーヒーサーバー、もう片方の手にマグカップを持って声をかけてきた。
「コーヒー入れたんだけど、飲む?」
 紅子はかぶりを振った。
 熱い物は飲みたくない。というか、今はとくに何も飲む気がしない。
 彼女の素っ気ない返答に、竜介はちょっと肩をすくめると、黙って持っていたカップにだけコーヒーを注いだ。
「俺さあ、甘いもの好きなんだけど、コーヒーだけは何でか砂糖もミルクも入れたいと思わないんだよね」
ダイニングチェアに腰を下ろすと、彼は誰も聞いてないような他愛ない話をいきなりべらべらとしゃべり始めた。
「とくにサ店とかでコーヒーについてくるポーション。俺、あれ嫌いなの。あれが実は油と水と乳化剤でできてるって知ってた?原材料のどこにも牛乳って書いてないんだぜ」
「あの」
紅子は思いきって相手をさえぎり、言った。
「ありがとう。ケガ治してもらったし、片づけてもらったし……一応、お礼言っとく」
「どういたしまして」
と、彼は言った。
 やっぱり人畜無害にしか見えない笑顔で。
「座ったら?俺にまだ訊きたいことがあるって、顔に書いてある」
 紅子はテーブルを挟んで彼の向かいに座った。
「自分の腕も、さっきみたいな感じで治したの?たった一晩で」
「まあね」
竜介はあいまいに首肯した。
「気の流れを高めて、傷のところだけ細胞の代謝を速めるんだ。死ぬほどのケガを治すのは無理なんだけど、ちょっと便利だろ?」
 紅子の気持ちをほぐそうとしているつもりなのか、それとも単に沈黙が嫌いなのか、彼は冗舌だった。
 しかし、後者はともかく、前者をもくろんでいたのだとしたら、それはあまり奏功していたとは言い難い。
 紅子は固い声で言った。
「昨日も訊いたけど……あんた、本当は何者で、何が目的なの?」
「目的って?」
 竜介はしれっとした顔でコーヒーをすすり込む。
「とぼけないでよ」
 紅子はいらだちを隠さずに言った。
 質問を質問ではぐらかされるのは大嫌いだ。
「昨日といい今日といい、普通じゃないことを平気な顔してやってみせておいて、そのくせあたしの力が必要って、どういう意味かって訊いてんのっ」
「普通じゃない、か」
竜介は苦笑した。
「俺が普通じゃないなら、きみだって充分普通じゃない」
「あんたがやったみたいなこと、あたしはできないよ」
「そりゃそうだ。きみが持っているのはまた別の力だからな」
「あたしにはあんな変な力なんかないったら!」
「いや、ある」
彼はきっぱりと言った。根気強く。
「それも、俺とは比べ物にならないほど、強い力がね。俺があれこれ説明するより、記憶を取り戻すのが一番わかりやすいし手っ取り早いんだけど」
 記憶。記憶。
 紅子は額を押さえた。
 あの、古ぼけた土蔵。頭に思い描くだけで背筋にひやりとしたものを感じる、あの場所。
 あそこでいったい何があったというのか。
 知りたい。でも、怖い。
「記憶が戻ったら……今まで通りの生活ができなくなるんでしょ」
「そうなるかも、って言っただけだ」
竜介はまたコーヒーを一口、飲んだ。
「というか、すでにそうなりつつある気がするけどね。昨日、野犬に襲われただろ?」
 紅子はうなずいた。
「あれが何?」
「都会であれだけの数の野犬が群れを作っていれば、いやでもニュースになる。人を襲うならなおさらだ。なのに、そんな話は全く聞かない……妙だとは思わないか?」
 紅子は眉をひそめた。
 この男の言うことは、いちいちわからない。
「何が言いたいの」
「昨日、あの犬たちがきみを襲ったのは、偶然じゃない」
竜介はゆっくりと、かんでふくめるように言った。
「犬を使って、きみを殺そうとしたやつがどこかにいるってことだ」
 たしかに、昨日の野犬の群れから感じる殺気は本物だった。
 しかし――
 紅子はたった今聞いた言葉を頭の中で反芻した。
 あたしを、殺す?
「な……」
現実離れしすぎていて、思わず顔が半笑いになる。
「なんで?わけわかんない。あたしを殺して得する人なんか」
「いる」
竜介は顔も声も笑っていなかった。
「正確には、人じゃないけどな」
 やつらには、きみがめざわりなんだ。一色家の人間で、強い力を持つきみが。
 彼は言った。
「連中をどうにかしたいと思うなら、きみは記憶を取り戻すしかない。そして、連中をどうにかできる人間も、今はもう一人しかいない……きみがやるしかないんだ」

2009.10.29改筆


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