第十六話「作られた恐怖・1」


 今日の葬式のことを伝えるため、松居家に昨晩、電話を入れたときにも、紅子は春香の声を聞くことができなかった。
 電話口に出た彼女の母親によると、帰宅するなり「気分が悪い」と言って、部屋に閉じこもったままらしい。
 「松居」と書かれた表札の下の呼び(りん)を押すと、家の奥のほうで返事が聞こえ、まもなく、春香の母親、咲子(さきこ)が顔を出した。
 彼女は春香に歳を取らせて、少し太らせたような感じの女性だ。つまり、春香は母親似なのである。
「あら、紅子ちゃん、いらっしゃい」
 彼女は紅子を見ると、娘とそっくりの顔に親しげな笑みを浮かべた。
 ちょうど昼食の準備でもしていたのだろう、エプロンを着けている。
「こんにちは」
紅子は会釈(えしゃく)した。
「春香の具合、どうですか?」
「それがねぇ……相変わらずなのよ」
咲子の表情がくもった。
「どこか痛いとか、熱があるってわけでもないから、病気ではないと思うんだけど。何を言っても『ほっといて』の一点張りで、誰にも会いたくないって」
「そうですか……」
「学校で、何かあったのかしらねぇ。紅子ちゃん、聞いてない?」
 紅子はそう言われて、昨日の部室でのことを思い出した。
 しかし、春香がそこにいたという確証はどこにもない。
 彼女の様子が何となくおかしくなったのは、それ以前のことだし、第一、バケツを蹴り散らかしたのは、野良猫か何かかもしれないのだ。
 どっちにしても、おばさんに話せることじゃないよなぁ。
 紅子は答えた。
「いえ、別に」
「そう……」
咲子は一瞬、落胆した様子だったが、すぐに笑顔に戻ると、言った。
「ごめんなさいね、変なこと聞いちゃって」
 だが、無理に作られたその笑顔は、どことなく寂しげで、紅子は余計にいたたまれなくなり、
「それじゃ、春香に、お大事にって伝えて下さい」
と、いとまごいもそこそこに、友人の家を後にしたのだった。
 娘の友人の後ろ姿をしばし見送った後、咲子は家の中に入ると、二階に上がった。
 飾り文字で「HARUKA」と書かれた、可愛らしいドアプレートの下がっている部屋の扉を、二、三度、ノックする。
「春香……春香?」
返事はない。
「紅子ちゃん、来てくれたわよ。本当に良かったの、会わなくて?」
「……いいの」
扉の向こうから、低く、くぐもった声が聞こえてきた。
「あんな子……もう、友達でも何でもない……あんなウソつき」

 紅子が帰宅すると、家の中には竜介一人だけで、父親の姿はどこにもなかった。
「父さんは?」
 居間で新聞を読んでいた竜介は、そう尋ねられて紙面から顔を上げ、言った。
「おじさんならついさっき、用を思い出したって、出かけたよ」
「いつ帰るって?」
彼は首をひねった。
「さぁて……聞いてないなぁ」
「ふ……ふぅん」
紅子の不安そうな反応を見て、彼はくすりと笑う。
「俺と二人きりじゃ、落ち着かない?」
「ばっ……」
図星を指された彼女の顔は、たちまち真っ赤になった。
「バカ言わないでよっっ!」
 そう叫ぶが早いか、どかどかと廊下を踏み鳴らしながら、自分の部屋へ向かう。
 その背中を、竜介の声が追いかけてきた。
「昼飯だけど、台所に用意してあるから、よかったらどうぞ」
 自室の扉を閉めると、紅子はイライラと制服を脱ぎ捨て、私服に着替えた。
 ああもう、(しゃく)に触るったら!
 何だってあいつといると、こんなに調子が狂うんだろう?
 手の内すべてを見透かされているみたい(実際、見透かされているんだろうけど)で、居心地が悪い。
 あの、いつも余裕だけは忘れないって感じの態度も、気にくわない。
 できれば、二人きりというシチュエーションは避けたい相手――だが、父親が出かけてしまったのでは、もはやどうしようもない。
 ばむっ、と、乱暴にクローゼットを閉じると、彼女はいやいやながら、階下へ降りた。
 空腹と……そして、竜介が一体どんな話をするのか、その好奇心には勝てなかったのだった。

 竜介が言ったとおり、台所のテーブルに用意されていた食事をそそくさとかき込んだあと、紅子は再び居間へ顔を出した。
 すると、
「話を始める前に、見てもらいたいものがあるんだ」
 竜介はそう言って、彼女を庭に連れだした。
 しかし、彼の足がどこへ向かっているか知ったとき、紅子の顔色がにわかに変わった。
「ちょっ……待ってよ、そっちは」
 彼女は、見えない壁にぶつかったように、立ち止まった。
 動悸(どうき)が激しくなり、冷や汗が吹き出す。
「待ってったら!」
 ところが、竜介はその声がまるで聞こえていないかのように歩を進めると、庭の片隅(かたすみ)に建つ、みすぼらしく古ぼけた土蔵の前でようやく足を止めたのだった。
 ジーンズのポケットから鍵を取り出し、入り口の錠前をはずす。
 紅子は凍り付いたように動かず、ただ、彼の動作の一部始終を見守っていた。
 何年も閉じられたままだったはずの引き戸。
 それはしかし、竜介がちょっと力を入れただけで難なく開き、深い闇が口をあけた。
 彼はゆっくりと紅子を振り返った。
「この奥なんだけど」
と、何でもないような口調で暗闇の中を指さす。
「どうかしたのかい?顔色が悪いぜ」
 日差しが暑いくらいの昼下がりなのに、紅子の全身には鳥肌が立ち、膝には震えが来ていた。
「あたし……行けない」
紅子は、小さな子供がいやいやをするように、かぶりを振った。
「蔵には、近づいちゃいけない……いつ崩れるかわからないから」
「大丈夫だよ」
竜介は彼女のそばまで引き返すと、断言した。
「別に、柱が腐ってるってわけでもないし。今すぐ倒れるなんてことはないさ」
「小さい頃から言われてるの!」
紅子は強い口調で相手をさえぎった。
「中のものを壊したりするから、入っちゃダメだって!」
「でも、君はもう小さい子供じゃないだろ?中に入って暴れようってわけでもない」
「それは……そうだけど」
「それとも、」
と彼は言った。
「中に入るのが怖い?」
 この一言は、またしても紅子の図星を突いていた。
 怖いもの知らずを自負する彼女の、唯一の屈辱。
 それがこの古ぼけた土蔵。
「……そうよ」
紅子は、吐き捨てるように言った。
「怖いの。あの中に入るのが、怖いのっ!おかしいでしょ?笑っていいよ」
「別に、おかしくなんかないさ」
竜介の口調は穏やかで、真面目だった。
「君のその恐怖が、作られたものだとわかってるから、なおさらね」


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