第百三十三話「冬の始まり・十」
紺野家の最寄り駅では、斎が黒のリムジンとともに待っていた。
彼は二人の姿を認めると、さっと後部座席のドアを開けて、言った。
「玄蔵さま、お久しゅうございます。竜介さま、お帰りなさいませ」
二人はそれぞれ、久しぶり、と、ただいま、と返し、出迎えの礼を述べて車中の人となった。
斎が運転席に乗り込むと、玄蔵はすぐに、まずは紺野家の本邸に向かってほしい、と頼んだ。
「英梨さんに挨拶しておきたいんだ」
と、彼は言った。
「そのあとは自分の足で山を抜けて寺まで行くから、斎さんの手は煩わせないよ」
玄蔵の言葉に、ルームミラーの中の斎は、
「おそれいります」
と、笑顔を返し、車をスタートさせる。
それから、改まった調子でこう言った。
「玄蔵さま。紅子さまのことは、わたくしも滝口も、日々ご無事を祈っているところでございますが、奥様はそれ以上に、我がことのようにお心を傷めておいでです。ですから、その……」
「斎さん、おじさんもそれはわかってるさ」
斎の言わんとするところがわかった竜介は、そう言って彼を遮り、玄蔵に視線を移すと、
「ああ、もちろん。非難するつもりなんかない」
と、玄蔵はうなずいた。
「寝泊まりは父のところでするから、さほど面倒はかけないつもりだが、念のため顔を出しておきたいんだ……紅子が世話になった礼も言っておきたいし」
そして、こう付け加えた。
それに何より、英梨さんとは全くの初対面だから、とりあえず一度は会っておいたほうがいいだろうしね。
しかしながら――
玄蔵の気持ちとは別に、紺野邸で彼を出迎えた英梨は、今にも土下座をせんばかりの平身低頭ぶりだった。
無理もない。
紅子が行方不明になる原因の一端に、己の娘が関わってしまっているのだ。
当主の貴泰から、できる限りのもてなしをするよう言われている、と、なんとかして客間で茶菓などだけでも受けてもらおうとする彼女だったが、
「ありがとうございます。しかし、本日は挨拶だけと思っておりましたので……」
と、玄蔵は丁重に辞退した。
それでも納得した様子のない英梨に、彼は少し苦笑して言った。
「英梨さんはご存知ないかもしれませんが、わたしは紺野の家を出るとき、こちらの本邸の方々には本当にいろいろと迷惑をかけました。
でも、たとえそんな負い目がなかったとしても、わたしは誰も非難する気にはなれなかったでしょう……娘がこちらでお世話になったことや、竜介くんと鷹彦くんが身を挺して娘を守ろうとしてくれたことへの感謝もありますしね。
ですから、これ以上の謝罪は、どうかご勘弁ください。
娘は今、たしかに大変な危難に巻き込まれて、心配な状態ではありますが……誰かの落ち度を責めるより、これから我々はどうするべきかということに、わたしは集中したいのです」
では、父が首を長くして待っておりますので、これで。
と、一礼して――
玄蔵は、紺野邸を辞したのだった。
屋敷の玄関を出たあと、玄蔵は中庭に向かった。
寺への近道をするためだ。
勝手知ったる他家の庭を進んでいると、後ろから近づいてくる気配があった。
「ありがとうございました」
背後から、竜介の声が言った。
「母の気持ちは、いくぶん軽くなったと思います」
「同じ親として、いたたまれなくてね」
玄蔵は前を向いたまま言った。
「いい人だな。貴泰くんが惚れたのもわかる」
竜介は返事をしなかった。
二人が玉石を踏んで歩く音だけがしばらく続いたが、やがて、背後から再び声が聞こえた。
「……俺ももうこの年齢(とし)ですから、親父の気持ちも理解はできるんです。寂しかったんだろうな、とか」
共感はできませんけどね、と竜介は言った。
玄蔵は、歩きながら冬枯れの庭を眺めた。
山道に入る木戸が、もう前方に見えている。
「故人がその末期に何を思っていたかは、本人にしかわからん」
と、彼は言った。
「それを、我々があれこれと勝手に当て推量した挙げ句苦しむことを、彼らは望んでいるだろうか」
そして、ややあってこう付け加えた。
「……きみももう、楽になっていいんじゃないか」
竜介が返事をする前に、彼らはちょうど木戸の前にたどり着いた。
玄蔵は立ち止まり、竜介を振り返ると、
「見送りはここまででいいよ。ありがとう」
竜介はしばらく複雑な顔で玄蔵を見ていたが、やがてふと笑って言った。
「おじさん、住職に向いてますよ」
玄蔵もニヤリと笑う。
「わたしも年を取ったのさ」
そう言って、彼は竜介に手を振ると、木戸を出て行った。
玄蔵は記憶をたどるようにして山道を歩いた。
木立を抜ける風は乾燥して冷たく、冬の到来を感じさせるものの、東京よりも暖かいと彼は思う。
やがて懐かしい山門が木々の間にちらちらと見えてきた。
帰ってきたんだな――
我知らず歩みが速くなる。
気がつくともはや木立は途切れ、山門へ続く石段が目の前に現れた。
見上げると、山門のそばに人影がある。
二つの人影。
それが泰蔵と鷹彦だとわかるのに、さほど時間はかからなかった。
向こうも彼の姿を認めたらしく、こちらへ降りてくる。
どちらからともなく手を振りあうと、彼らは石段の途中で合流した。
鷹彦が一礼して自宅へ帰っていくのを見送って、玄蔵は年を取った父親と石段を登って行った。
山門をくぐり、懐かしい生家へと。
***
翌日。
玄蔵は墓地にいた。
泰蔵が住職を務める寺の境内にある霊園、その最奥に、紺野家代々の墓がある。
そこに眠る彼の母の墓参に来たのだった。
彼が婿入りした一色家が紺野家と絶縁して、十四年。
母が亡くなって初めての墓参だった。
昨日、泰蔵が待つ実家へ帰る道すがら立ち寄ってもよかったのだが、初めての墓参に手ぶらではさすがに親不孝がすぎると思い、昨日は実家の仏壇に手を合わせるだけにとどめておいた。
今際の際に立ち会えなかったことを詫びながら花や線香を手向け、墓に手を合わせる。
すぐには立ち去り難くて、今日は一人で来たけれど、次の月命日には父さんと二人で来るよ、などと心の中で話しかけつつ、そのまま墓前にたたずんでいた、そのとき。
近づいてくる足音もなく、ただ忽然と、人の気配が彼の背後に現れた。
カミソリのような、その鋭い気配を、彼はよく知っていた。
彼は振り返り、背後に立つ蓬髪の老人に言った。
「お待ちしていましたよ。黄根さん」
2023.8.28改稿
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