第百三十三話「凍結・6」


 一色家での遅い昼食後、仮眠をとったら帰宅が遅くなってしまった。
 一色家から、竜介が現在の定宿としている虎光所有のマンションまでは、通常なら片道徒歩三〇分程度なのだが、今は除雪された道しか通れないため、どうしても一時間以上かかる。
 分厚い雲に日差しをさえぎられているせいで昼間とは思えないほど薄暗い街並みは、夕刻を迎えるや日没を過ぎたかのように早々と闇が深くなっていく。
 人気もなく、車さえ通らず、家々に明かりがともることもない、氷雪に覆われた夜の街に、街路灯の青白い光だけがぽつりぽつりと浮かび上がる様は、実際の気温以上に寒々とした印象を見る者に与えた。
 夕食に間に合わないかもしれないという心配は、玄関の扉を開けたとたん、杞憂に終わった。
 温められた空気と一緒に流れてくる、肉料理の香ばしいにおい。
 ダイニングへ向かうと、今しも鷹彦が湯気の立つ皿をテーブルに並べているところだった。
 黒いギャルソンエプロンを着けた彼は兄の顔を見るや、おかえりの言葉もそこそこに、
「晩飯は?」
と、訊いてきた。
 ダイニングテーブルには二人分の皿が並んでいる。
「食う」
 竜介は即答しながら、無意識に今朝見た冷蔵庫の中身と目の前の料理を頭の中で比較していた。
 記憶の限りだが、冷蔵庫にはなかった食材がいくつかある。
 不思議に思って尋ねると、
「買い出し行ってきたんだよ」
という答えが、こともなげに返ってきた。
「買い出し、って、お前……」
 この雪の中をか?開いてる店なんかないだろうに、どうやって?
 竜介が重ねて質問しかかるのを、鷹彦は片手をあげて「ストップ」とさえぎると、
「とりあえず、熱いうちに食わね?せっかくのごちそうだしさ」
そう言いながら、ワインボトルの栓を抜いたのだった。

 食事をしながら聞いた鷹彦の説明によると、彼はマンションの地下駐車場で放置状態だった虎光のRV車にチェーンを巻いてはるばる出かけたのだと言う。
「竜兄が出かけたあと、郊外の大型店にいくつか電話してみたんだ。そしたら、営業してるっていう店があってさ」
「だけど、時間かかっただろう」
 竜介が気を遣うと、
「そうでもねーよ。信号も点滅ばっかだったし、道路もがら空きで、貸し切りみたいで面白かったぜ」
そう言って鷹彦は笑った。
 竜介は苦笑した。
 雪道では車の速度にも限界があっただろう、という意味で言ったのだが……まあいいか。
 鷹彦が買ってきたワインは上等というわけではなかったが、料理によく合ってうまかった。
 そういえば、酒を飲むのも久し振りだ。
 術が完成した満足感と疲労とで、竜介は自分がふわふわとした酩酊状態にあることに気づいた。
 ワインをグラスに数杯飲んだくらいで、珍しい。
 鷹彦も、買い出しについて何でもなかったように振る舞ってはいるが、慣れない雪道の運転で疲れたのだろう、
「もうタイヤのチェーン巻きなんか秒殺だぜ。スキー場までの雪道だって恐れるに足らず!」
などと調子に乗ってうそぶく口調も、ろれつがあやしくなってきている。
 汚れた皿を食洗機に放り込んだら、今夜はもう眠ったほうがよさそうだ。
 そういえば、明日は何時にここを出発するのだっただろう――
「明日、迎えの車が来るんだったよな。何時だっけ?」
 兄の独り言のような問いを聞いて、鷹彦は何かを探すように視線を泳がせた。
 周りが赤くなったその目はどことなく焦点が合っていなかったが、
「あー……そこのカレンダーに書いてある」
と、ダイニングとひと繋がりになっている居間のほうを的確に指さした。
 竜介は「サンキュ」と短く礼を言うと、立ち上がってファックス電話の上にかかったカレンダーを見に行った。
 まばたきをするたびに視界がぐらつくのがやっかいだ。
 予定を書き込めるよう、日付の下に大きく余白をとったカレンダー。その明日の日付の欄には、赤いサインペンで「朝八時迎車」とあった。
 思ったより遅い時間で、少しほっとしながら何気なく視線を落とす。
 と、電話機の留守番機能ボタンが明滅しているのが目に入った。
「留守電入ってるぞ」
 竜介が言うと、鷹彦はグラスに何杯目かのワインを継ぎ足しながら、
「へー?気づかなかったな。誰から?」
と、のんびり尋ねた。
 竜介が再生ボタンを押すと、流れてきた声は虎光のものだった。
 明日の予定に何か変更でもあったのだろうか?
 そう思いながら、竜介は注意深く耳を傾けていたが、虎光は兄と鷹彦を何度か呼んだ後、
『……なんだ、二人ともいないのか?直接話したかったのに……』
と、少し落胆した声で言った。
『まあ、いないなら、仕方ないか……』
ふう、と長いため息のあと、声はさらに続いた。
『今生の別れみたいになるのがイヤで、ずっと言いそびれてたんだが……やっぱり言っておくべきだと思って、電話したんだ。本当は電話なんかじゃなくて、直接言うべきことなんだろうけど』
一瞬の間を置いて、虎光の声は続けた。
『俺一人だけ安全な場所にいて、何もできなくて……ほんと、申し訳ない』
「なんだ?虎兄、何謝ってんの?」
 いつの間にかそばに来ていた鷹彦が、虎光の言葉を横から混ぜっ返す。
 が、録音された声がそれに反応することは当然ながらなく、再生は淡々と続いた。
『二人とも、絶対、生きて戻ってきてくれ。言いたかったのは、それだけだ。じゃあ……またな』
 通話の切れる音のあと、しばらくツー、ツーという信号音が続き、やがて再生が終わった。
 が、電話機が沈黙した後も、竜介と鷹彦はしばらくその場に立ちつくしていた。
 その静寂を破ったのは、鷹彦だった。
「竜兄、虎兄に電話しねーの?」
「なんで?」
竜介は「しない」と言う代わりに、わざと聞き返した。
「それこそ、今生の別れみたいだろ」
 「だな」
という弟の短い同意を背後に聞きながら、彼はきびすを返してダイニングに戻った。
 皿を片づけようとして、ボトルにまだワインが少しばかり残っていることに気づく。
「お、まだ残ってるじゃん。飲んじまおうぜ」
鷹彦は兄の持つボトルを一瞥するや、嬉しそうな声をあげた。
「なんか今の電話で酔いが醒めちゃったよ」
 竜介はくすりと笑って言った。
「俺もだ」
 残ったワインはさほど多くはなかったが、彼らはそれを二等分すると互いのグラスを軽く打ち鳴らしてから、中身を飲み干した。
「つーかさ、虎兄に言われるまでもねーよな。だって俺、死ぬ気なんか全然しねえもん」
鷹彦は空になったグラスをテーブルに置いて言った。
「竜兄だって、そうだろ?術だって、そのために完成させたんだろ?」
 いきなり術のことを言われて、竜介は喫驚した。
「俺、術のことお前に言ったっけ?」
「玄蔵おじさんから聞いた」
鷹彦はにやりと笑って言った。
「竜兄、おじさんとこに行くって言うだけで、何しに行くか全然言ってくれねーから、おじさんに直接電話で聞いたんだ」
「じゃあ、完成したってことも?」
「今日の昼頃、おじさんから電話があった」
「そうか。それでわざわざ……」
 雪の中を買い出しにまで行って、料理を作ってくれたのか。
 そう続けたかったけれど、胸がいっぱいで言葉が出てこない。
 すると、それまで子どものように「どうだ!」と言わんばかりの満面の笑みを浮かべていた鷹彦が不意に真顔にもどり、
「実は、ちょっとほっとしてるんだ、俺」
と言った。
「竜兄は死ぬつもりでいるんじゃないかって思ってたからさ」
「鷹彦……」
「絶対帰ってこようぜ。紅子ちゃんも一緒にさ」
 竜介は弟の決然とした表情に胸を打たれた。
「……ああ、そうだな」
と、大きくうなずく。
「一人も欠けさせたりしねえ」
そう言って、彼は笑って見せた。
 それはおそらく、無理だ――
 そんなつぶやきを、心の奥に押し込めて。
 天零の術はたしかに完成した。
 だが、まだ使いこなせているわけではない。黒珠の王と闘ったとしてどこまで通用するか、わからない。

 たぶん、自分は生きては帰れない。

 竜介はそう思っていた。

 生きて帰れない。
 そう――奇跡でも起きない限りは。

2010.11.15

2015.08.25一部加筆修正


第百三十二話へ戻る

第百三十四話へ続く

このページの文書については、無断転載をご遠慮下さい。

ねこまんま通信/掲示板/ 小説
リンク集/ SENRIの部屋