第百三十二話「凍結・5」


 ゴゴ……ッズドン!
 窓ガラスがビリビリと震え、柱や天井がみしみしといやな音を立てる。
 まるで雷でも落ちたような音が、古びた一色家の建物を文字通り震撼させた。
 自室で書き物をしていた玄蔵は、またかと思いながら立ち上がると、庭を見下ろせるガラス窓に近寄った。
 最初はこの音が響き渡るたびに跳び上がったものだが、今は多少ドキッとする程度。
 人間、意外に慣れるものである。
 とはいえ、まったく平気というわけではない。この古い家屋の寿命がさらに縮む恐れがあるならなおのこと。
 夜、眠っているあいだに屋根が落ちてきたなどという事態は、できればごめんこうむりたい。
 そんなわけで、この二、三日は、はた迷惑な轟音を立てている本人の安否確認を兼ねて、玄蔵は一言苦言を呈することにしている。
 寒波で溶けない雪は、彼が今いる二階の窓の下、ほんの数メートルにまで迫っていた。
 定期的に雪かきをしないと外にも出られない――そんなどこか遠い雪国のような生活を、まさか自分が経験することになろうとは。
 そろそろ自分も都外へ避難する頃合いかもしれない、などと思いながら外を見る。
 と、眼下に広がる白い平面の中、一カ所だけ、まるで機械を使って雪をどけたようにきれいな円を描いてくぼんでいる場所があり、その縦穴の中央に立っている長身の人物と目が合った。
 すまなさそうに苦笑して頭を下げる相手に、玄蔵はちょっと渋い顔をして見せると上がってこいと手招きし、自らも階下へ降りた。
「大丈夫かね」
玄関を入ってきた相手に、玄蔵はそう声をかけた。
「竜介くん」
「俺は大丈夫です」
 彼は着ている丈の長いブルーグレーのフード付きコートを手で払いながら言った。
 分厚く上質に見えるそのコートはあちこち汚れている。
 コートだけではない、竜介は全身がうす灰色にすすけて、しかも火事場でいぶされてきたように焦げ臭い。
「すみません、騒々しくて」
と、彼は頭を下げた。
 騒々しいどころの騒ぎじゃないだろう――そう玄蔵は言い返したかったが、よく見知った青年の、少しやつれた面差しを見ていたら、
「まあ、少し休みたまえ。あがってコーヒーでもどうかね」
つい、そんな言葉が口から出ていた。
 どうせこの近隣一帯は、うち以外みな避難してしまってどこも留守だ。多少音を立てたところで、苦情を言いに来る人はいるまい。
 竜介を促して台所へむかいながら、玄蔵は言い訳をするように心中でつぶやいた。
 この家も、もう建て直しどきなのかもしれんしな。

 ライフラインは相変わらず断続的に途切れたり復旧したりを繰り返していて、この日は電気とガスはOKだった。
 窓が雪でほぼ埋まっているため、一階はどこも薄暗い。
 玄蔵は台所に入ると、明かりをつけて備蓄用の大きなウォーターサーバーからコーヒーポットに水を入れた。
 竜介は勝手知ったる他人の家とばかりに古風なミルを戸棚から出すと、豆を挽き始める。
 暖房を使っていても、上着を脱ぐほどには寒さが緩和されないため、二人とも分厚い上着は着たままだ。
「ずいぶんと苦戦しているじゃないか」
 ポットを火にかけながら玄蔵が言うと、
「本に書いてあるとおりにやってるんですけどね」
竜介は苦笑した。
「どうにも、慣れない術は加減が難しいです」
 憔悴したようなその口調に、玄蔵はうまい返答が見つからず、「そうか」とだけ相づちを打った。
 ペーパーフィルターに入れた挽き粉に湯を注ぐと、香気を含んだ蒸気が冷え切った台所に満ち、いくぶん室温が上がったような気さえする。
「それにしても、まさか本当にあるとはな」
コーヒーを入れたカップを手に、テーブルを挟んで竜介の向かいに座ると、玄蔵は言った。
「人間を竜に変える術なんて」
 竜介はマグカップから立ち上る湯気のむこうで笑うと、
「言っておきますが、特撮みたいな変身の術じゃありませんよ」
と言った。
「要は外気功の壮大な応用ってとこかな。術者に集中した気のかたまりが、人によっては竜に見えたりする、という……それだけのことのようです」
「なるほど」
玄蔵はあごをなでた。
「しかし……長らく『伝説』だと言われていたのはなぜなんだろうな」
「たぶん、この『天零(てんれい)』の術の記憶が顕化を持つ人間にしか与えられないからでしょう」
 玄蔵は眉を上げた。
「それじゃあ、きみには術の記憶があるのかね」
「断片的で、あまり役には立ちませんけどね」
と、竜介は肩をすくめる。
「どうやらこの術は未完成みたいです」
 玄蔵は「ふーむ」と長く鼻を鳴らすと、コーヒーを一口すすってから、
「苦戦するきみの努力に水を差すようだが……」
と言いにくそうに言った。
「その天零術は、果たして黒珠に対抗できるほどのものなのかね?」
「わかりません」
竜介はあっさりそう答えたが、やつれぎみの頬に不意に力をこめ、
「でも、この術は必要なんです――紅子ちゃんを助けるには、絶対に」
と、語気も強く付け加えた。
 いつにないその迫力に、玄蔵が少々気圧されながら尋ねた。
「それはまた、なぜ?」
「黒珠の王が、同じ術を使うからです」
竜介は重々しい声で言った。
「それも、俺みたいに付け焼き刃じゃない、完成された熟練のものをね」
 その言葉はつまり、黒珠の王も彼と同じ顕化の持ち主ということを意味していた。
 しかし、それではなぜ黒珠が天零を使いこなし、碧珠の記録には伝説程度にしか残っていないのだろう?
 竜介の説明によれば、その理由はごく簡単なことだった。
 すなわち、天零が本来、黒珠独自の術だったからである。

 それは、彼が紅子の意識界で黒珠封印のいきさつをつぶさに見たからこそ知り得たことだった。
 長引く黒珠との戦を終わらせるため、同じく顕化の持ち主が生まれる碧珠は、天零の術式を盗んだのである。
 ただし、立ち上げた術は不完全なもので、碧珠の術者は黒珠封印後に死んでいる。
 二度目の封印のときは碧珠に顕化の持ち主がいなかったため、残念ながら天零は使われなかった。
 数世代おきにまれに生まれる人間だけが習得できる術が、単なる伝説となり、忘れられてしまうのは当然の成り行きといえる。
「だけど、もしも二度目の封印で天零を使うことのできる人間が碧珠にいたら、最後の天帝は死なずにすんだかもしれません」
竜介はそう言い終えると、早くもぬるくなってきたコーヒーを飲み干した。
「紅子ちゃんはきっと生きている……同じ轍は踏みたくないんです」
 玄蔵は目の前にいる青年の顔をまじまじと見た。
 彼は、自分と同等、いやひょっとしたらそれ以上の力を持つかもしれない相手と闘うつもりなのだ。
「……出発はいつだったかね」
 玄蔵が尋ねると、
「明後日です」
「虎光くんが首相に直訴したのが、たしか……」
「今日からちょうど一週間前になります」
「ずいぶん早いな」
「失敗だったと分かるのは、早ければ早いほどいいってことでしょう」
竜介は皮肉っぽく笑った。
「二十四時間以内に目立った変化がなければ、もとの予定通りジェット燃料で雲を蒸発させるそうですよ。ま、俺たちは、言ってみれば前座ってとこかな」
 笑っていいのかどうかわからない相手の物言いに、玄蔵はあいまいな笑みを返すと、
「年寄りの出る幕ではないと言われそうだが……わたしも、きみらと一緒に行くべきじゃないかね?」
遠慮がちに言った。
「伺候者は四人。きみらだけではギリギリの人数だろう」
 竜介は少し考える様子で、しばらく空のカップに視線を落としていたが、
「……いや、おじさんはやっぱり残ってください」
顔をあげて言った。
「紅子ちゃんが帰ってきたとき、必ずこの家にいてあげてほしいんです。それに……」
「それに?」
 言いよどむ竜介に玄蔵が先をうながす。
 思い切った様子で、彼は言った。
「黄根さんが、来ると思うんです」
 玄蔵は驚いた。
「あのじいさんからそんな連絡があったのかね?」
「いえ、そうじゃなくて……予感ていうか、俺がそう思ってるだけですが」
「なんだ」
玄蔵は前のめりになりかけた身体を椅子の背もたれにもどした。
「しかし、何だってそんなことを?」
 竜介は肩をすくめた。
「あの人にとっては、自分が長年見てきた未来の本当の姿を確かめる、絶好の機会だからですよ」


 その日は結局、竜介はもう一回、落雷のごとき轟音を辺りに響かせただけで終わった。
 そして、また次の日。
 さすがに時間のなさに気が焦るのか、一色家に現れた彼は顔に疲労の色がますます濃かった。
 いつものように庭に出てしばらく後に、いつも通りの轟音。
 二時間ほどして、またもや失敗を現す衝撃。
 家の中で道場関係の書類を片づけたりしながら様子をうかがっている玄蔵までもが、じりじりとした気分になってしまう。
 わたしが焦っても仕方がない――
 そう気をとりなおして台所へ行き、あるだけの食材で心づくしの昼食を作る。
 幸い、今日はライフラインはどれも調子がいいようだ。
 昼食ができあがり、竜介に声をかけようと玄関を出た、そのとき――
 いつもの轟音とは違う、低い地鳴りと凄絶な術圧が、大きな波のように辺りを覆いつくした。
 玄蔵は弾かれたように縁側の窓に駆け寄ったが、積雪で外が見えない。
 「くそっ!!」
 思わず毒づきながら階段を駆け上がり、二階から外を見た。
 雪に埋もれた庭から、暗雲に覆われた天へ駆けのぼる、巨大な青い光柱と黄金の稲妻。
 だが次の瞬間、それは幻のようにかき消えた。
 玄蔵は狐につままれたような心地でしばらくぼんやりと庭を眺めていたが、はっと我に返ると、上がって来たときと同じくらいの慌ただしさで階下へ向かった。

 竜介は雪の上に仰向けに倒れたまま、放心したようにただ空を眺めていた。
 青空ではない、雪雲に覆われた暗い空。
 雪に埋もれているのに、不思議と寒さは感じなかった。慣れない大きな術を使ったせいで、身体のあちこちにまだピリピリとしびれるような感覚が残っている。
 調整が必要だ。
 そう思うのに、立ち上がることができない。術がとりあえずは完成したという、その安堵が、これまでため込んでいた疲労を一気に解放してしまったようだ。
 と、そのとき。
「竜介くん!!」
玄蔵の声が聞こえた。それと、雪をかきわけて近づいてこようとしている、ざくざくという音。
「今の、今のは……?!」
 視界に、息を切らせた玄蔵の顔が入ると、竜介は寝ころんだまま疲れた顔でにやっと笑った。
「間に合いましたよ」
それだけ言うと、目が勝手に閉じてしまった。
「なんとかね……。でも、まだやらなきゃ……いけないこと……が」
 しかし、その言葉の後半はほとんど消え入るようで、玄蔵の耳にはとどかなかった。
「おい、大丈夫か!?」
 竜介がいきなり目を閉じたまま動かなくなったので、玄蔵は慌てて彼を抱え起こした。
 慣れない術の影響で、身体のどこかに大けがでもしたのかと思ったのだが、それは杞憂だった。
 竜介はただ、ぐっすりと眠っていただけだった。
 唇に、つかの間の安堵の笑みを浮かべたまま。

2010.09.26

2014.02.07一部加筆修正


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