第百三十二話「冬の始まり・九」


 竜介は電話を終えると、コーヒーでも淹れようと部屋を出た。
 すると、廊下にはすでに芳香が漂っていて、台所ではコーヒーメーカーが、湯気の立つセピア色の液体を抽出しているところだった。
 食器棚からカップを取り出していた玄蔵は、気配に気づいて振り返り、言った。
「竜介くん。ちょうどよかった、お茶にしないかね」
 否やのあろうはずもない。
「ありがとうございます。いただきます」
 ダイニングテーブルには秋らしい栗の焼菓子が用意されている。
 彼らは淹れたてのコーヒーが入ったカップを手にテーブルを囲んだ。
「虎光くんには遠来のところ、ろくなもてなしもできなくて、悪いことをしたな」
 玄蔵が言うと、竜介は頭を振った。
「気にしないでください。あいつも急いでましたから」
「ならいいんだが」
 竜介は卓上の菓子を食べながら、
「これ……もしかして、この雨の中わざわざ?」
 と尋ねると、玄蔵は、いやいや、と苦笑しながら顔の前で片手を左右に振った。
「君が来ると黄根さんが言ったので、昨日のうちに買っておいたんだ」
 道理で――と、竜介は声に出さずにつぶやいた。
「……だから、昨晩電話したとき、何も訊かなかったんですね」
 玄蔵はうなずき、言った。
「正直に言うと、紅子にとって必要なことだったと言われても……今もまだ、どこか割り切れない気持ちだよ」
「さっき、黄根さんの話を伝えるために鷹彦と電話で話したら、あいつ言ってましたよ」
 竜介はコーヒーを一口すすり、言った。
「『紅子ちゃんが生きて戻ってこない限り、日可理さんのことも涼音のことも、一生許さない』、って」
 玄蔵は同意も否定もしない。
 ただ、腕を組み、考え深げに卓上に視線を落とした。

「……日可理さんも涼音ちゃんも、被害者だ。わたしは、責める気にはなれんよ」

「俺も、同感です。でも……」
 と、竜介は続けた。

「赦す気にもまだなれない」

「……すべてに白黒つくまではな」
 つらいところだな、と、玄蔵は頭を掻く。
「紅子ちゃんをいつどうやって助け出すか、あのご老体、具体的なことは何も言わずに消えちまいましたからね」
 竜介が言うと、玄蔵も同意のため息をついた。
「あまりもったいをつけないでほしいもんだ」

 玄蔵の意見にうなずきながら、竜介は自分の中の黄根に対する感情が複雑に変化するのを感じていた。
 相変わらずどこかいけ好かないクソジジイだと思う一方、結果として、玄蔵とこうして穏やかに茶を飲んでいられるのは、あの老人の言葉のおかげなのだとも思う。
 玄蔵は自分と竜介のカップがどちらも空っぽなのを確かめると、コーヒーサーバーを持って来て、新しいコーヒーで空いた二つのカップを満たした。

「実は、今さっき、久しぶりに父から電話があってね」
 空になったコーヒーサーバーを流し台に置いて戻ると、彼は言った。
「東京はこれから大変なことになると聞いたが、お前、どうするんだ、と訊かれたよ」
「鷹彦から聞いたんでしょう」
 思ったより早かったな、と竜介は少し驚きながら、
「なんて答えたんです?」
「『どうもこうも、困ってますよ』と正直に答えたさ。どこか行くあてがあるでなし。そしたら――」
「師匠から、うちに一度戻って来ないか、って言われたんですね?」
 竜介がニヤッと笑いながら先回りをすると、玄蔵は苦笑した。
「そんなわけで、ありがたく父の言葉に甘えることにしたよ」
 竜介は安堵の笑みを浮かべた。
「よかったです。俺も同じことを勧めようと思ってましたから」
「ありがとう」
 と、礼を口にしつつ、しかし、玄蔵はあまり気乗りしない様子で、

「十七年前の騒動で、本家のほうに色々迷惑をかけてしまったことを考えると、どんな顔をして帰ればいいのやら……気が重いけどね」

 と、つぶやいた。
 当時紺野家の当主だった竜介の祖父母は海外に転地療養中、実母の美弥子は亡くなっているので、騒動に直接関わって、今も紺野家にいるのは、使用人である斎と滝口の二人だけだ。
「斎さんも滝口さんもあれこれ言うような人じゃないし、おじさんが気になるなら、菓子折りの一つも持って挨拶に行っておけばいいでしょう」
 竜介の言葉に玄蔵は「そうだな」と頷き、
「君にも、つらい思いをさせてしまったな。すまない」
 竜介は頭を振った。
「美弥子さんのことは事故ですから……それに、師匠やおかみさんにも、よくしてもらったし」
 それを聞いて、玄蔵は少しホッとした顔になる。
「そうか。……ああ、そういえば、やっと母の墓参りができるんだなぁ」
 そう言って懐かしそうに微笑する玄蔵に、竜介も自然と気持ちがほぐれるのを感じた。

 この家の玄関をくぐったときは、謝罪を受けてもらえるだろうかと、そればかりで他のことを考える余裕などなかったが、今こうして玄蔵と二人、台所でくつろいでいると、改めて家のそこここに紅子の気配を意識してしまう。
 何ともいえず居心地が悪い、と竜介は思った。
 彼女が今にもひょっこり台所に入ってきそうで――しかし、そのたびに彼女はここにはいないのだと思い出しては、どこか物寂しく、虚ろな気持ちになる。
 玄蔵は娘を送り出してからずっと、こんな気持ちと向き合って来たのだろう――
 そう思うと、竜介はいたたまれない気分だった。

***

 その後、一色家が経営している道場などの都合もあり、玄蔵が紺野家に出発したのは、竜介が一色家に到着して三週間後のことだった。
 玄蔵は道場の長期閉鎖について、とりあえず「改修工事のため」と生徒に告知し、竜介も細々とした事務仕事などを手伝って、三週間はあっという間に過ぎた。
 出発の日は、初冬にしては息が白く凍える寒い日だった。
 ただ、空は快晴だ。
 日が昇ってすぐ、彼らは家中の戸締まりを確認して、家を出た。
 虎光とはあいにく予定が合わず、二人は鉄路で紺野家へ向かうことになったが、大きい荷物は予め宅配便で送ってあるため、旅装は軽い。
「すまんな、竜介くん。仕事を手伝ってもらった上に、君まで電車移動になってしまって」
 玄蔵が詫びると、竜介は笑って、
「気にしないでください。俺、電車のほうが旅って気がして好きなんで」
 と、言った。

 玄関の鍵を締め、門扉を外から閉ざしたところで、玄蔵は塀の向こうにたたずむ我が家をしばし感慨深げに眺めた。
 竜介がそんな従兄伯父を急かすこともなく、彼の気が済むのを待っていた、そのとき。
 雲のない空から、白いものがふわりと落ちてきた。
 雪である。
「降り出したな」
「そうですね」
 彼らは言葉少なにそう言い交わすと、どちらからともなく歩き出した。

 一色家の今の姿は、おそらくこれが見納めになるだろう。

 そんな予感を胸にいだきながら。

2023.8.8改稿


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