第百三十一話「凍結・4」


 大阪、午後八時。
 地上二十六階に位置するシティホテルのエグゼクティブラウンジから見る夜景は格別だった。
 制服をぴしっと着こなした折り目正しいウェイター、調度品、空調、料理、酒――ここではまだ何もかもが申し分ない。
 今の東京では望むべくもないことばかり。
 目の前のローテーブルに置かれたオンザロックのグラスを眺めながら、まるで別世界だ、と虎光は思った。
 かぐわしい琥珀色の液体に浮かぶ氷は見事な球形にカットされ、室内の間接照明を受けて柔らかな光を放っている。
 その輝きの美しさも含めて、今ここにあるすべてが彼の目には奇跡のようだった。
 この手ですくいあげなければ、明日にももろく崩れ去るものたち。
 隣の席についている父、貴泰が何度目かで腕時計に目を落としたとき、ラウンジの入口が少しにぎやかになった。
「来たか」
 貴泰が低い声でひとりごちる。それにかぶせるように、
「昔の友人に会ってくる。きみたちはここまででいい」
という、よく通る男の声が聞こえた。
 それからややあってウェイターに案内され姿を現した声の主は、オーダーメイドらしい上質な三つ揃いのスーツを着た白髪交じりの紳士だった。
 彼は貴泰と虎光を見つけると、親しげな笑みとともに片手を上げた。
「ひさしぶりだな」
 父親がそう言って立ち上がるのを見て、虎光も慌ててソファから腰を浮かせる。
「まったく。こうして直接会うのは何年ぶりかな」
 紳士は貴泰としっかりした握手を交わし、次いで虎光に視線を向けた。それに気づいた貴泰が、
「次男の虎光だ。でかくなったろう」
と、ざっくばらんに息子を紹介する。
「お目にかかれて光栄です」
 相手が誰なのかを知っている虎光が最敬礼で頭をさげると、
「ほう、あのちびっこかった虎坊が、本当に大きくなったもんだな」
と、紳士は目を細め、鷹揚に笑って言った。
「まあ堅苦しいあいさつは抜きにしようじゃないか」
「ご家族は変わりないか」
 貴泰がテーブルを挟んだ向かいのソファを相手にすすめながら尋ねると、
「ああ、みな元気だ」
という答えが返ってきた。
「もうすぐ、二人目の孫が生まれる」
 すると、貴泰は意味ありげな視線を隣の息子にちらりと送ってから、
「それはめでたい」
「それが、あまり手放しで喜んでもいられないのさ」
紳士は肩をすくめて苦笑した。
「東京があの状態だから、周辺都市の病院はどこもいっぱいらしくてね。設備の整ったところで生ませてやりたいんだが、これがなかなか」
 そう言って首を振る相手に、貴泰は「ふむ」と同情的に鼻を鳴らした。
「一人目はたしか、貴史(たかふみ)くんだったな」
 紳士はうなずいた。
「ああ。四歳になったが、やんちゃでな。うるさくてかなわんよ」
 かなわん、というわりには嬉しそうな相手に、貴泰も笑みを返したそのとき、会話にひと区切りがつくタイミングを計っていたのだろう、
「ご歓談中、失礼致します」
ホテルの制服を着た熟年の男が彼らに声をかけてきた。男の背後には、メニューを持ったウェイターがかしこまって控えている。
神沢(かみさわ)総理、このたびは当ホテルにお立ち寄りいただき、まことにありがとうございます」
男は作り慣れた笑顔とともに言った。
「わたくし、このホテルのエグゼクティブマネジャーを務めております、藪内と申します。今後とも当ホテルをどうぞごひいきに」
と、虎光親子の向かいに座る紳士に名刺を差し出す。
「おう、ありがとう。いただいておくよ」
 神沢総理、と呼ばれた紳士は愛想よく礼を言うと、紙片を目の高さまで上げて押しいただくような仕草をしてから、シャツの胸ポケットにそれをしまった。
 エグゼクティブマネジャーはそれを確かめるとうやうやしく頭を垂れ、
「では、どうぞごゆっくりおくつろぎください」
流れるような仕草で後ろにさがると、背後に控えていたウェイターに小声で何やら指示し、ラウンジを出て行ったのだった。
 あとに一人残されたウェイターはやや緊張した面もちで、虎光たちのテーブルは特別に一杯目の飲み物代がホテル持ち――要するに無料――になることを丁寧に告げると、神沢に「どうぞ」と、メニューをさしだした。
「後ほどご注文をうかがいに参ります」
そう言っていったん立ち去ろうとする。
 ところが神沢は、
「ああ、いや、あまり時間もないから、今注文させてくれ」
と彼を引き留めると、焦げ茶色の合皮で装丁されたメニューを開いて、ホットコーヒーを注文した。

「なんだ、飲まないのか」
 ウェイターが立ち去ったあと、貴泰が少し意外そうに言うと神沢は苦笑して肩をすくめた。
「あいにく、まだ仕事が残っているのでね。きみらは好きなものを飲んでくれてかまわんよ」
 貴泰はラウンジの入口を固めているがっしりした黒スーツの男たちを一瞥、
「それにしても、お前はずいぶんたいそうなご身分になったもんだな」
感心しているのか同情しているのかよくわからない口調で言った。
「慣れればどうということもない」
神沢は唇の片端を持ち上げて笑みを作る。
「これも自分が一国の宰相である(あかし)と思えばなおのこと」
「ほう。そういうものか」
「そういうものだ」
 まもなく、さっきと同じウェイターがコーヒーを持ってくると、神沢はそれをさっそくひと口すすり、
「さて、」
と言った。
「お互い、世間話をするためにこうして時間を割いたわけでもなかろう。そろそろ本題に入ろうじゃないか」

 長く、いやな沈黙が彼ら三人の上に降りていた。
 それを最初に破ったのは、神沢だった。
「つまりきみは、ジェット燃料や火薬では、あの分厚い雲を消すことはできないと、そう言い切るんだな?」
 相手の怖いような目と、国の最高権力者たるオーラとでもいうべきものに圧倒されながら、虎光は「そうです」と、どうにかうなずいた。
「じ、時間がないのはわかっています。それなのに、この前と同じ雲の除去実験を繰り返すことに何の意味があるのかと思われることも」
 虎光はあまり緊張というものをしないたちなのだが、神沢の無言の迫力の前には、どうしても肩に力が入ってしまう。
 その場限りの冗談や、あいまいな口約束などで一蹴されてはならないと思えば、なおさらだった。
「でも……」
 この方法でなければだめなんです、そう重ねて言おうとしたとき、神沢が手を挙げてそれをさえぎった。
「この寒波の対策費用にどれくらいの国家予算が当てられているか、きみは知っているかね」
 虎光はかぶりを振った。
「いえ、残念ながら……」
「およそ八千億だ。今のところはな。まだ増えるかもしれん」
神沢はコーヒーカップを持ち上げると、冷めてぬるくなった液体を一口すすった。
「安いと思うかね」
 虎光は再びかぶりを振った。
「そう、安くはない。特に今のこの国にとっては。それだけの国費を投じた対策が失敗に終わり、きみのやり方なら成功する?」
 そう確かめる相手の目に、虎光は背中に冷たい汗が噴き出すのを感じた。
 怖い。だが、逃げ出すわけには行かない。
「勝算はあります」
「根拠を示したまえ」
「東京の寒波が長期化するという前回の情報と、ソースが同じだからです」
 すると、神沢は虎光の言葉の真偽を確かめるかのように、その視線をゆっくりと貴泰のほうに移した。
 貴泰がうなずいて見せると、神沢はこめかみに手を当て、静かに息を吐いた。
 虎光は子供の頃から神沢を知っているが、彼と自分の父親との付き合いがどれほどのものかということまでは知らない。
 しかし、今こうして目だけで何やら会話を成立させたらしい二人を見ていると、神沢は紺野家の秘密についてもそれなりに知っているのではないかと思われた。
「なるほど」
ややあって、神沢はつぶやくように言った。
「あの情報には確かに助けられたよ。きみらには借りがある。しかし、これは私にとって少々()が悪い賭けじゃないかね?」
「どういうことですか?」
 虎光が言葉の意味を聞き返すと、
「失敗すれば、我々政府は貴重な時間と金を失う。国民の信用もだ。だが、きみらは何も失わない」
そんな答えが返ってきた。
 ムッとした虎光が反論しようとしたそのとき、
「こちらにも、失うものは大いにあるさ」
それまで黙って二人の会話を聞いていた貴泰が、ぽつりと言った。
「お前が思っている以上にな」
 再び沈黙。
「そうか」
神沢はしばらく旧友の顔をまじまじと眺めたあと、それだけ言うと、ソファから立ち上がった。
「わかった、また連絡する。今夜は話ができて楽しかったよ、虎光くん」

「お疲れさん。よくやったな」
 神沢がラウンジの外に控えていた黒服たちとともに立ち去った後、貴泰はそう言って息子の肩を叩いた。
 虎光は何も言わずに苦笑すると、テーブルの上に放置されてすっかり氷が小さくなってしまった自分のオンザロックを取ろうとして、やめた。
 手のひらに気持ち悪いほど脂汗をかいていたからだ。
 自分の命がかかっていたわけでもないのに。

2010.08.01

2014.02.07一部加筆修正


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