第百三十一話「冬の始まり・八」


 黄根家の老翁は、虎光に向かって言った。
「お前の親父は政界に友人がいるだろう。わたしも秘書時代の知り合いに声をかけているが、お前からも親父に言っておけ。この国の中心を西に移せとな」
 続けて彼が口にした言葉に、その場の誰もが耳を疑った。

 まもなく、東京は雪に埋まり、人はほぼ住めなくなる――

 老人は、そう予言した。
「では、その前に、紅子を救い出すのですね?」
 玄蔵が身を乗り出すようにして尋ねると、朋徳は頭を振った。
「我々は待たねばならぬ」
 老人は何かの発作をこらえているかのように、眉間に深いしわを刻み、言った。
「また会おう……近いうちに、必要なときに」
 そんな言葉だけを残して。
 朋徳は、幻のようにかき消えたのだった。

 虎光はこの日、瞬間移動能力というものを生まれて初めて目の当たりにしたわけだが、さすがに異能を持つ親族を持っているおかげで、こういった現象にはそれなりに免疫があり、驚きのあまり大声を上げたりすることはなかった。
 それでも、黄根翁が消えてしばらくの間は、老人が座っていた辺りを凝視したまま固まってしまう程度には驚愕していて、我に返ったとき、彼は自失していたことをごまかすために咳払いを一つしてから、玄蔵に暇乞いをした。
 竜介も、予約を入れているビジネスホテルまで虎光に送ってもらうつもりだったので一緒に席を立った。
 すると、玄蔵が彼らに、今夜の宿は決まっているのかと尋ね、こう言った。
「よかったら、久しぶりにうちに泊まって行かんかね」
 虎光はこのあと、貴泰に今回の事の次第を報告しに行かねばならず、そのまま父親の家に泊まる予定だが、竜介には特に予定はないし、ホテルはキャンセルを入れれば済む。
 玄蔵にしてみれば、娘について聞きたいことや話したいことが山積しているのだろう。
 そう思い、竜介は彼の申し出を受けることにしたのだった。

 休むのは、竜介がこの家に寝泊まりしていたときに使っていたのと同じ部屋だ。
 使ったといってもほんの短期間だったから、私物など置いていたわけでもないのだが、部屋に入った瞬間、なんだか妙に懐かしい気持ちになった。
 スーツを脱いで部屋着に着替え、人心地ついたところで携帯を見ると、鷹彦からのメールが二通届いていた。
 一通目の着信時刻は今朝の十時ごろで、
「結界石の呪符を剥がして回るのに、足場が悪くて二時間くらいかかった。終わって家に戻ったら、日可理さんの意識が戻っていた」
 という内容。
 二通目はつい三十分ほど前の着信。
「志乃武くんが来て、無事に日可理さんの引き渡しが完了。二人は今日は近くのホテルで一泊し、日可理さんの体調を見て明朝帰京予定とのこと」
 竜介はほっと安堵の息をついた。
 これでとりあえず、気がかりが二つ片付いたわけだ。
 鷹彦へのねぎらいとこちらからの報告をするため、竜介は直接電話をすることにした。
 電話に出た鷹彦は、黒珠の者たちの企みと、それゆえに紅子が生かされているということを竜介が伝えると、さしたる感慨もなさげに――いや、むしろやや腹立たしげにこう言った。
「知ってるよ」
 同じ話を日可理さんから聞いた、と彼は続けた。
 日可理は迦陵から聞いたらしい。
「日可理さんが?」
 竜介は驚いて言った。
「じゃあ、彼女は黒珠に支配されていた間の記憶があるのか?」
「ところどころ曖昧だけどね」
 目が醒めて意識がはっきりしてくると、自分は取り返しのつかないことをしてしまった、皆さんにどうお詫びすればいいのかわからない、そう言って彼女は泣き出したのだと鷹彦は言った。
「可哀想だとは思ったけど、だから何だとも思ったよ」
 彼は吐き捨てるように続けた。
「紅子ちゃんが”今”生きてるから何だってんだ?助け出しに行けないなら、そんな情報意味ねえだろ。俺は……」

 俺は、彼女が生きて戻って来ない限り、日可理さんのことも、涼音のことも、一生許さねえ。

 いつも陽気で、どちらかというと軽薄ともいえる末弟の重く激しい言葉。
 それにも竜介は驚いたが、
「……わかるよ」
 自分の口から、我知らずそんな共感の言葉がするりと出たことに、さらに驚いた。
 ずっと感じていた、喉の奥に刺さった小骨のような不快感の正体に今更のように気付かされる。
「だけど、」
 と、彼は続けた。
「黄根さんが言うには、すべてを終わらせて、紅子ちゃんの命も助けるには、これしか道がなかったんだそうだ」
「俺は納得できないね」
 鷹彦は憤然とした口調のままだった。
「雲の中にあるっていう黒珠の棲家まで、どうやって助けに行くんだよ?あの爺さん一人でか?」
「雲の中?」
 竜介がおうむ返しに聞き返すと、鷹彦はこう答えた。
「やつらの城は、浮いてるんだとさ。空中に」

 鷹彦との通話を終えるとすぐ、竜介は志乃武に電話をかけた。
 ひょっとするとまだ運転中かもしれないと思ったが、まもなく呼び出し音が途切れて志乃武の声が聞こえた。
「竜介さん……」
 その声はひどく憔悴して、同情せずにいられないほどだった。
「申し訳ありません、こちらからお電話すべきなのに」
「いや、それは気にしないでくれ」
 竜介は言った。
「今、一色家にいるんだけど、手に入った情報を共有しておきたいと思っただけだから」
 そうして彼が黄根の言葉を伝えると、志乃武は言った。
「すみません、日可理にも伝えたいので、少し待ってもらえますか」
 電話から彼の声が遠のく。
 ややあって、
「竜介様」
 不意に日可理の声に代わった。
「日可理さん?」
 竜介は少し驚きながら尋ねた。
「体調はもう大丈夫なのか?」
「はい、お気遣いありがとうございます。こうしてしばらくお話しができる程度には回復しておりますので……」
 しかしそう答える彼女の声はか細く、体調がまだ万全ではないことがうかがえたが、彼女は気丈に続けた。
「本当は、こちらから出向いて直接お詫び申し上げなければならないことは重々承知しております。でも、この機会を借りてまずは一言だけでもと思い、志乃武に代わってもらいました」
 そう言って、彼女は丁寧に詫びの言葉を口にした。
 日可理の声と言葉とは、たしかに竜介の耳を打ったけれど、それは今の彼には、自分の心の奥底にわだかまりがあることを意識させるだけで終わってしまった。
「……ひとまず、日可理さんが元の日可理さんに戻ってよかったと俺は思ってるよ」
 日可理からの謝罪が終わり、しばしの重い沈黙のあと、竜介は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「黄根さんが言ったことを信じるなら、今のこの状況は、すべてをうまく終わらせるために必要なことだったんだろう。そして、俺はそう信じたいし、君や志乃武くんとはこの先も良い友人でいたいと思ってる」
 でも、と彼は続けた。
「率直に言って、今回の件について俺の中ではまだ気持ちの整理がついていない。だから、日可理さんからのお詫びは確かに受け取ったけれど……心から受け入れるかどうかは、今日のところは保留にさせてほしいんだ」
 申し訳ない。
 そう付け加えると、ややあって、日可理から、
「……いいえ。もったいないお言葉です」
 と、変わらず気丈な答えが返ってきた。
「ところで、」
 と、竜介は話題を代えた。
「鷹彦から聞いたよ。黒珠に操られていた間の記憶があるんだって?」
 はい、と日可理は言葉少なに肯定する。
「黒珠の城に行ったときのことを、教えてくれないか」
 すると彼女はしばらく押し黙ったあと、
「……申し訳ございません、少々お待ち下さいませ」
 と、再び会話が途切れた。
 やがて、電話口に戻ってきたのは志乃武だった。
「竜介さん、すみません。日可理の体力が限界に来たようですので、ここからは僕が姉の言葉を伝えます」
 彼が言うには、日可理は黒珠の城について話すことに何ら異存はない、ただ、かなり長い話になるし電話では説明もしづらいので、自分の体力が回復した頃合いを見て、直接会って話させてほしい、とのことだった。

2023.7.24改稿


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