第百三十話「凍結・3」


 どこか遠くで断続的に響く、低いモーター音。
 その音が、眠りの淵に深く沈み込んでいた竜介の意識をむりやり浮上させた。
 除雪車の音……?
 一瞬そう思い無視しかけてから、マナーモードの携帯電話が震えている音だとようやく気づいた彼は、毛布のあいだから片手をのばすとサイドテーブル上に置いた携帯を手に取った。下の道路の音が、五十階建て高層マンションの三十九階、しかも防音ガラス入りの部屋まで届くことはありえない。
「っせえな、誰だよ……」
 安眠を妨害された恨みを独りごちつつ、寒さを避けるために彼は布団の中で液晶を開いた。今日は空調が動いているらしく寒さはまだましだが、それでも寒いものは寒い。
 バックライトに浮かび上がる時計は彼がすでに七時間あまり眠ったことを示しており、そして電話の発信元は「一色家」となっていた。
 何かあったのだろうか。いずれにしても、無視するわけにはいかない。
『竜介くんか!?』
電話に出ると、めずらしく興奮しているらしい玄蔵の声が受話器から飛び出してきた。こちらの眠そうにくぐもった声などまったく気づいていない様子で、竜介からの返事も待たずに彼はこう続けた。
『テレビ、今、テレビは見ているかね』
「テレビですか?いえ……」
 今まで寝てたんで。竜介がそう言いわけするよりも先に、玄蔵は言った。
『テレビを見たまえ。どのチャンネルでもいい』
 竜介は喉から出かかる「ええ?」という不服そうな声をどうにか飲み込んだ。テレビを見るには温かいベッドを出て、居間まで行かなければならない。
「何かあったんですか?」
 念のため尋ねると、
『見りゃあわかる』
という返事。
 今ひとつ緊急性がわからない竜介は、
「それ、今すぐじゃないとだめですか」
と思わず訊いていた。
「俺、昨夜(ゆうべ)遅かったんでまだ眠」
いんですけど、と続けようとしたが、言い終わる前に、
『今すぐだ!わかったな!』
という、明らかにいらだちを込めた声が返ってきたと思ったら、それきり、ぷつりと電話は切れたのだった。

 部屋に霜がつくのを防ぐため、空調が利くときは――つまり、停電していないときは――廊下を含むこの4LDK全室に暖房が入るようにしてあるおかげで、空調が使えないときは歩いているだけで凍死しそうになる廊下の気温も、今日はまだましだった。
 居間までの途中にある窓から、竜介は外を見た。
 四隅に霜がこびりつき、もう開けることができない窓。この窓だけではない、この家中の窓がそうだ。
 その霜のすき間からかろうじて見る外の景色は、相変わらずどんよりとした濃い灰色。
 今日は雪はなし、か――
 少しほっとしている自分に、彼は苦笑した。この東京で、こんなにうんざりするほど雪を見ることになるとは、誰が予想できただろう。
 リビングの扉は真ん中に細長くステンドグラスがはめ込んであり、そこから室内の様子をうかがうことができる。
 ガラスの向こうが明るいところを見ると、中に誰かいるらしい。
 扉を開けると、テレビのニュース音声が耳に飛び込んできた。
『この時間は通常の番組を変更し、緊急報道特集をお送りしています』
 女性キャスターの硬質な声。
 テレビの前のソファセットに腰を下ろして画面を見ていた鷹彦が、扉を開閉する音に気づいて背もたれごしにこちらを振り向き、
「おはよう、竜兄」
と言った。
「今、起こしに行こうかと思ってたんだ」
「玄蔵おじさんからの電話で起こされた。テレビを見ろってさ」
竜介は弟の隣に腰を下ろすと、あくび混じりに辺りを見回した。
「虎光は?」
 すると、兄の質問に鷹彦は苦笑した。
「今ごろ何言ってんだろうね、この人は」
と、彼は言った。
「親父さんと一緒に、年末からもうずっと大阪ですよ」
「大阪?何しに?」
 鷹彦は呆れ顔で天を仰いだ。
「マジで浦島太郎かよ。まあずっと部屋にこもってたんだから、しょーがねえけど」
「もったいつけずにさっさと答えろよ」
 竜介が少々いらついた口調で言うと、それが人にものを尋ねる態度か、などとぶつぶつ文句を言いながら、鷹彦は彼らの父親が社長を務める会社の東京本社の機能が大阪に移転したこと、東京都の首都機能もとうに同じく大阪へ移ったことを説明した。
「交通は完全マヒしてるし、むりやり出勤してもオフィスが停電しまくりじゃ仕事になんないだろ」
 たしかに、テレビも照明器具もちゃんとその機能を果たし、暖房も効いているところを見ると今日は調子がいいようだが、またいつ寒々とした薄暗い日々がやってくるかわからない。
 さて、それにしても――
「玄蔵おじさんは俺に何を見ろってんだろう」
 大型液晶画面を眺めて竜介がつぶやくと、それを聞いた鷹彦がわけ知り顔で言った。
「ま、見てりゃわかるよ」
 画面の中では、女性キャスターが固い表情でニュースを読んでいた。
『先程からお伝えしておりますとおり、十二月半ばより東京上空に停滞し甚大な被害をもたらしている大寒波は、昨日から東京・神奈川を中心に同心円状に広がる様相を見せ始め、またそれに合わせて都内の気温も急激に下降を始めたことが気象庁の調査で明らかになりました。気温が上昇に転じる気配はいまだないとのことで、この調査結果を受け、政府は……』
 気温の下降、寒波の拡大。いよいよ本格的になってきたな、と竜介は苦々しい気持ちになった。
「寒波が広がるのがどれくらいの速さかわかるか?」
 画面を見たままかたわらの弟に尋ねると、
「時速二キロ前後ってさっき言ってたぜ」
という返事が聞こえた。
 東京から九州・北海道までの直線距離をだいたい千キロメートルとすると――と、暗算してみて、
「速いな」
竜介は誰に言うともなくつぶやいた。
「二、三週間で九州から北海道まで氷づけになっちまう」
 すると、鷹彦がこう付け加えた。
「二年後には地球全体が氷河期に突入するぜ」
『避難命令が出ている地域です』
 キャスターの声とともにテレビ画面はオレンジと黄色に色分けされた関東地方の地図に切り替わった。
 同じ声が、オレンジ色になっている地区名を読み上げていく。
『とくに気温が低い新宿区を中心に東京都内は水、電気、およびガスの供給が困難になってきています。なお、避難にあたっては都内を巡回中の自衛隊特殊車両を利用するほか……』
「避難ねえ」
鷹彦が皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「どうする?俺らも大阪に行く?」
 竜介は肩をすくめて言った。
「これが単なる自然現象で、もうすぐ例年通りの気候にもどるっていうんならな」
 本当にこの寒さが自然のいたずらであれば、どんなによかっただろう。
 このまま放っておいても、やがて再び暖かな季節がめぐってくるのだとしたら。ただいっときの記録的な異常気象に過ぎないとしたら。
 だがこれは自然発生的なものではないのだ。残念ながら。
「やつら、けっこう頭いいよな」
鷹彦の声の調子が苦い。
「いきなり戦争をおっぱじめるより、効率いいんじゃね?」
「まったくな」
 それは認めざるをえない、と竜介は思った。
 突然の寒冷化による食糧不足、水不足。行き場をなくした地球上の人口は大幅に減るだろう。
 「彼ら」はただ、待っているだけでいい。
「しっかしマジな話、俺っちもいい加減、雪を見ない生活がしたいよ」
「じゃあ、お前も親父や虎光と一緒に大阪に行けばよかったのに」
 弟の言葉に竜介が何気なくそう返すと、鷹彦はやれやれというように首を振った。
「ほっといたらメシもろくに食わないで部屋にこもってる竜兄をほっといてか?」
 竜介は耳の痛い指摘に苦笑した。
「一人になったら、それはそれで自分でなんとかするさ」
 すると、鷹彦は急に怒ったような顔をした。
「そういう意味で言ったんじゃねーよ」
自分の膝に両肘をついて頬杖をつくと、彼はすねたように視線をテレビにそらして言った。
「竜兄が何やろうとしてんのか俺っちにはわかんねーけど、何でもいいから手伝いたいんだよ」
「鷹彦……」
「俺、けっこう責任感じてんだぜ。これでもさ」
 そんなことを思っていたのか、と竜介は胸を突かれた。
 どう返したらいいのかわからずに言葉を探しているところへ、テレビの音声が割って入る。
『……により、今回の大寒波による死者は二百人を越しました』
「どこに逃げたって、時間の問題なんだよ」
鷹彦が神妙な声で言った。
「このままじゃ、さ」
 わかってる、と竜介は声に出さずにつぶやいた。
 それにしても――玄蔵が自分に見せたかったものはいったい何だったのだろう。
 紅子に関する何かの手がかりかと淡い期待を抱いていたのだが、と彼が思った、そのとき。
『対応の遅さから、与野党の厳しい非難を浴びている政府緊急対策本部ですが、さきほどにもお伝えしました通り、寒冷化を人工的に緩和あるいは消滅させるための研究調査に大きな進展がありました。ここで、本日未明、新宿上空で行われた雲の消滅実験の映像をもう一度、ご覧いただきましょう』
「おっ、いよいよ問題の映像のご登場だぜ」
 鷹彦の口調が一転して明るくなる。と同時に、VTRの再生が始まった。
 それはキャスターの説明によると、新宿区を覆う雪雲を上空から高感度カメラで撮影したものとのことだった。
 久し振りに見る青い夜空に、星が瞬いている。その下には、地の果てまで届くかと思うほど大きな黒雲。
 その分厚い雲に白いカプセル状の物体が投下されたと思うや、一瞬、画面が暗くなり――カメラが傷まないようフィルターをかけたらしい――次の瞬間、白い閃光が辺りを満たした。
 閃光が消えたあと、雲にはぽっかり穴が開き、まるで灰黒色の巨大な生物が黒々とした口を開けたようだった。
 とはいえ、雲は雲である。生物ではないし、内部に何があるはずもない。
 あるのは水蒸気と闇ばかり――そのはずだった。ところが。
『この実験で使われたのは、ロケットの燃料などにも使われる液体水素と液体酸素です。これらを雲の内部で爆発的に反応させることにより、雪雲は消滅させることが可能であるという対策本部の見解はこれで実証される形となりました。なお、反応後の水素と酸素は水となるので……』
 テレビの音声はまだ続いていたが、もはや竜介の耳には届いていなかった。
 彼の全神経は、画面に映った雲の内部に注がれていた。
 光量が少ないため、一見しただけでは何が映っているのか判然としない映像。だが、よく見ると――
 ごつごつとした固い壁のようなものが見える。
 尖塔。大きな柱。
 壁から突き出た、テラスのようなもの。そこに大小二つの人影が立っている。
 まるでタイミングを計っていたかのように、映像が拡大された。
 大きいほうは黒くつぶれていて、人なのか何なのかわからない。
 だが、小さいほうは――
『これは雲の内部映像を拡大したものです。塔や柱のように見えるものや人影のようなものが写っていますが、専門家によりますと、これはブロッケン現象の一種で……』
 ブロッケン現象?そんなはずはない、と竜介は心の中で叫んだ。
 画像が荒くてもわかる。この背格好。目鼻立ち。
「彼女だ……!」
彼は思わず立ち上がっていた。
「紅子ちゃんだ!そうだろ!?」
「やっぱ竜兄にもそう見えるよな」
鷹彦はうなずき、言った。
「玄蔵おじさんと竜兄の予言的中、ってとこか」
「それと、黄根のじいさんの、な」
 竜介はニヤリと笑って付け加える。
「今の映像、偶然だと思う?」
「思うわけねえだろう」
弟の質問に、竜介はかぶりを振った。
「わざとカメラに撮影させたんだよ。俺たちに見せるために」
 ここまで来れるものなら来て見ろ、と挑発するために。
 ともかく、これですべてのカードはそろった。
「忙しくなりそうだ」
 兄の独り言を聞いて、鷹彦はテレビの画面を見たまま言った。
「とりあえず、風呂入ってきたら?今日は給湯器の調子もいいみたいだし」
「風呂?なんで?」
 竜介がきょとんとした顔で尋ねると、
「自分の格好、鏡で見てみろよ」
鷹彦はあきれ顔で言った。
「百年の恋も冷めるぜ」
 そんなにひどいのだろうか。
 竜介が居間を出て洗面所へ行ってみると、寝癖頭に無精ひげだらけの、どことなくあかじみた男が鏡の中からこちらを見ていた。
 どこかで見覚えがある――と思ったら、十四年ぶりに一色家を訪れたときの自分の姿ではないか。あのときほどには髪はのびていないけれど。
 自分を浮浪者扱いしたときの紅子の顔が脳裏によみがえる。
 あのときはまだ、お互い恋愛感情などかけらもなかった。どころか、そういう対象でさえなかった。
「百年の恋も冷める、か」
竜介は鏡を見ながらひとりごちた。
「たしかにな」
 そう言って彼が笑うと、鏡の中のむくつけき男も何やらおかしそうに笑った。
 紅子はいったいこんな男のどこを気に入ったのだろう?
「何一人でにやにやしてんだよ、気色悪い」
 いきなりそう言われて鏡の中をあらためると、いつの間にそこにいたのか、鷹彦が洗面所の入口に立っていた。
 口調はきついが、目が笑っている。
「別に。ちょっと思い出し笑い」
竜介はニヤニヤを引っ込めようともせず、鏡の中の弟に言った。
「お前こそ、顔でも洗いに来たのか?」
「ちげーよ。竜兄に聞き忘れたことがあってさ」
と彼は言った。
「結局のところ、やつらが紅子ちゃんを生かしておくメリットって何?」
 そういえば、まだ説明していなかった。
「やつらは、彼女を利用するつもりなのさ」
竜介はゆっくり、静かに言った。
「俺たちを、自分たちと同じ目に遭わせるために……な」

2010.06.24


第百二十九話へ戻る

第百三十一話へ続く

このページの文書については、無断転載をご遠慮下さい。

ねこまんま通信/掲示板/ 小説
リンク集/ SENRIの部屋