
第百二十九話「凍結・2」
この世界は、もうずっとこのままなのだろうか。このまま、狂い続けていくのだろうか。
誰もがよく知っていて飽きるほどに慣れきった、でも今となっては懐かしいあの日常は、もうもどってこないのだろうか。
大きめの旅行鞄に荷物をつめる手を止め、春香は、ふぅ、とため息をついた。
結露でにじんだ窓の外は、相変わらずの雪。
もう二週間近く断続的に降り続いている、「白く」冷たい綿毛――そう、雪が白いなんて、当たり前のことだ。
けれど、二週間前に降り始めた最初の雪は、赤かった。
テレビも新聞もネットも、瞬く間に「赤い雪」の話題で持ちきりになった。
春香の学校はすでに試験休みに入っていたけれど、携帯電話に入る友人からのメールも電話も、やっぱりその話ばかり。
あの有名な霊能力者はこれを天変地異の前触れだと言っている。
某大学教授が「赤い雪」がなぜ降ったのか、科学的に検証して見せた。
「赤い雪」を不謹慎なネタにした芸人のブログが炎上している。
――などなど。赤い雪がいつもの見慣れた白いそれに変わったあとも、新しいニュースを誰かが見聞きするたび、友人の間をメールが飛び交った。
みんな退屈なのだろう、と春香はメールの多さに苦笑しながら思った。
寒さと、雪と――それと「首なし大量殺人」のせいで、外出に制限があるから。
事件が起きたのは、彼女の親友である紅子が東京を離れたその日と、翌日。場所は東北地方の……たしか、青森県だった。
殺された人数は二件合わせて数十人にのぼり、警察は事件の規模から無差別テロも視野に入れて捜査をしているが、目撃者も犯人の遺留品もなく、捜査は難航している、という文句を見聞したのは、テレビだっただろうか、それともネットのニュースサイトだったろうか。
要するに、犯人はまだ捕まっていない。二ヵ月近く経った今も。
では東北で起きた事件のせいで、なぜ東京都民が外出制限を受けるのかといえば、事件が警察の読み通りテロリストによるものだった場合、東北の件は小手調べで、本番が都心で行われる恐れがあるから、ということらしい。
もっとも、規制が一番厳しかったのは最初の一ヶ月くらいで、十二月に入ってからは多少ゆるんでいた。
だから、試験休み明けの終業式も、クリスマスも、さらに正月も、何もかもスケジュール通りだと春香を含めて誰もが思っていた。
この雪さえ、降らなければ。
「赤い雪」を天変地異の前触れだと言った霊能力者の言葉は、あながち的はずれでもなかった。
白いはずの雪が赤いということ自体すでに天変地異のようなものだけれど、いわゆる「災厄」という意味ならば、それはたしかに「赤い雪」のあとにやって来たからだ。
静かな雪だった。風もなく、やんだと思ったらまた降ってくる、その繰り返し。
気味の悪い「赤い雪」はたちまち白く覆われて見えなくなり、春香はなんだかほっとしたのを憶えている。
けれど、その安堵感は長くは続かなかった。
真昼でも零下十度を下回る寒波と連日の雪とで、彼女の住む街がその機能のほとんどを停止に追い込まれたのは、「赤い雪」からほんの三日後のことだった。
まず、地上の交通網は電車もバスも飛行機も止まってしまった。地下鉄だけがかろうじて運行を続けていたが、電気系統の故障が多く、今も動いているだけましという状態だ。
凍った水道管があちこちで破裂し、電線は凍り付いた雪の重みで切れ、大規模な断水と停電が起きた。
停電は翌日には復旧したけれど、水道はそう簡単にはいかないようで、除雪車が道路の雪をどけてからさらに四、五日くらいかかったと思う。
災害に遭って避難している人たちが給水車の前に行列を作っている光景は春香もテレビで何度か見たことがあったけれど、まさか自分がそのうちの一人になるとは思ってもみなかった。
痛いような寒さと雪の中で一時間あまり並んだあと、水の詰まった重いタンクを持って帰るのは、想像以上に骨の折れる仕事だった。
連日の大雪警報で終業式は中止になり、試験休みはそのまま冬休みになった。
それはまあまだいいとしても、春香にとってショックだったのは、クリスマスまでもがないも同然になってしまったことだ。
無論、水も電気もない状態でクリスマスだなどと浮かれていられるほど、春香は脳天気ではなかったが、それでも多少、何かあるだろうと心のどこかで期待していた。
でも結局、何もなかった。パーティーはもちろん、プレゼントもケーキも。
それに……デートも。
まとめた着替えなどの手荷物は、結局、旅行鞄二つ分になった。
それらを両手に一つずつ持って階下に降りると、荷物だらけの玄関先で誰かと立ち話するらしい母・咲子の声が聞こえてきた。
近所の知り合いがあいさつにでも来ているのだろうか?
春香はとくに興味もなかったけれど、近所の人にはあいさつをしておけと普段から耳にたこができるほど言われているので、念のためひょいとのぞいてみる。
とたんに、かぁっと顔が赤くなるのを感じた。
楽しげに話をしている母の、その向こう側に立っている人影は――
「……そうなのよ、これから主人のところにね。……あら、春香」
春香がわざと足音を立てて出ていくと、咲子はいつにない笑顔で娘のほうを振り返った。
「あら、じゃないわよ!何で母さんが先輩とぺちゃくちゃしゃべってんの!」
が、憤然とまくしたてる娘に母は動じず、
「うるさいわねぇ、いつも春香がお世話になってますってあいさつしてたんじゃない。今、呼ぼうと思ってたのよ」
と、しれっとしたものだ。
うそばっかり!
しかし、引き際をも心得ている母は娘がそう反論する前に、
「それじゃ、私は奥で用があるから。藤臣くん、またね」
そう言って、わざとらしく鼻歌など歌いながら奥へ引っ込んで行ったのだった。
母のスリッパが立てるぱたぱたという音が遠ざかるのを聞きながら、春香は玄関のたたきに立っている人物を、幻でも見るような心地で見た。
チャコールグレーのダッフルコートを着て、笑みを浮かべている藤臣を。
二ヵ月近く経った今もまだときどき、これは夢なんじゃないかと思うときがある。
自分と、この人が付き合ってるなんて――
「わたし……わたしじゃ、ダメですか?」
必死に絞り出した声は見事に裏返っていて、自分の声ではないようだった。
言ったあとはぎゅっと目を閉じ、ただひたすら返事を待った。
心臓がばくばくして、今にも口から飛び出しそうだった。
それなのに、藤臣から返ってきた言葉は、
「ダメって……何が?」
春香は全身から力が抜けそうになった。
紅子ならここで、
「何が、だって!?トボけた返事してんじゃねーわよっ!!」
などと相手の胸ぐらでもつかみそうだが、あいにく春香はそういうキャラではない。
おそるおそる目を開けて相手を見るのが精一杯だった。
藤臣はいつものきれいな顔に、悪気のなさそうなきょとんとした表情を浮かべている。
それを見るなり、春香は悟った。
この人はわたしから告白されたということ自体、わかってない……。
それはつまり、わたしのことを恋愛対象として意識してないから……?
視界がゆがんでぼやける。涙があふれた。
春香が泣き出して、藤臣はようやく彼女の言葉の意味を理解したらしい。
「その、何て言ったら……本当に申し訳ない。僕はどうも、カンが鈍くて……」
狼狽したような声でそう言った後、彼はふぅ、とため息をついた。
「松居の気持ちは嬉しいよ、ありがとう。でも」
でも。
だけど。
この言葉のあとで、いい返事を聞けたためしがない。
春香は身を固くした。そうすれば、心の傷がいくらか軽くてすむような気がして。
藤臣の言葉は続いた。
「でも、たった今失恋したばっかりで、僕の頭の中はまだ一色のことが整理がついてない。いきなり松居に切り替えるなんて器用なこと、僕にはできないし、松居にも失礼だと思うし」
だから――と、彼は言った。
「悪いけど、少し時間をもらっていいかな」
本当は問いただしたかった。時間って、一日ですか?二日ですか?
だが、そうする代わりに春香はポケットから出したハンカチで涙を拭きながら、こくりとうなずいた。
そのときの彼女には、そうするより他にできることなど何もなかった。たとえもうこのまま、うやむやに終わってしまうのだとしても。
持てる勇気をすべて振り絞った結果が、こんなあいまいなものだなんて。
そう思うとまた新たな涙が目頭にふくれあがる。
が、藤臣はきびすを返す前に、こう言った。
「明日、夕方までに必ず電話するから」
そして彼は実際、昼をすぎたくらいに電話をくれた。
『いろいろ考えてみたんだけど……』
電話だから、どんな表情かはわからない。
ただ、ためらうような声の調子に、続く言葉を待つ時間が長かった。
藤臣の声は、言葉を探すようにしばし言いよどんでから、こう告げた。
『ええと……よろしくお願いします』
「楽しいお母さんだね」
家の奥でドアの閉まる音が聞こえ、辺りが静かになるのを待って藤臣が言った。
春香はかぁっと顔が熱くなるのを感じた。
「すみません、うるさい母で……」
そう言ってから、彼女は藤臣が玄関に立ったままであることにようやく気づき、あわてる。
「あの、あがってください。今、ウチの中散らかってますけど、お茶だけでも」
「いや、ここでいいよ。松居の顔を見に来ただけだから」
スリッパを出そうとする春香を制して、藤臣は言った。
「ほら、この前の電話で、今日、大阪に発つって言ってただろ?」
春香はうなずいた。確かに二日ばかり前、藤臣と電話で話をしているときにそう言った。
春香の父親はもうかれこれ一年ほど、大阪に単身赴任している。
今回、東京が異様な寒波と大雪に見舞われ、春香たちが日常生活にまで支障をきたしているのを心配した彼は、気候が落ち着くまでこちらに来てはどうかとすすめてくれたのだ。
実際、他府県にいる親類縁者を頼って東京を離れる人は増えているらしい。テレビのニュースで言っていた。
水も電気も今は復旧しているけれど、停電は多いし、水道だってまたいつ止まるかわからない。
雪をかきわけてなんとか買い物に行っても、スーパーやコンビニの陳列棚は空きが目立つ上、どの商品も高い。
暮らせないわけではないが、不安は多い。母子二人きりとなればなおさらだ。
だから、父親からのすすめは春香たち母子にとって何よりの朗報だった。
雪にわずらわされない生活ができる!今すぐにでも飛んでいきたいと春香は思ったくらいだ。
冬休みが終わって学校が始まるまでには、さすがにこの寒波も東京から出ていくだろう。
でも、そうなると藤臣とは冬休み中、一度も会えないことになる。そのことが唯一の気がかりだったのだが――
「でも、あの……それでわざわざ、この雪の中を?」
「うん、まあ……」
藤臣はあいまいに言葉をにごして、人差し指で鼻の頭をかいた。照れているらしい。
「しばらく会えなくなりそうだから」
春香は嬉しくて胸がきゅっとなるのを感じた。
自分の好きな人が、自分と同じ思いでいてくれるって、なんて幸せなことなんだろう。
もう帰る、と言う藤臣を見送りに玄関の外へ出ると、相変わらず痛いほどの冷気が容赦なく襲ってきて、春香は身震いをした。
「だから、玄関まででいいって言ったのに。風邪引かないうちにもどれよ」
藤臣が苦笑して言う。
しかし春香は、
「だ、大丈夫ですっ」
と頑固に言い張り、門のところまで彼に同行した。さいわい、雪はやんでいる。
「先輩は東京を離れないんですか?」
少しでも寒さから気を紛らわそうとたずねると、
「いや、それが実は、母親の実家が名古屋にあって、近々そこに避難しようかと思ってるんだ。このままだと受験勉強にも響きそうだし」
藤臣はそう答えたあと、ため息をつきながら付け加えた。
「センター試験までにはこの雪、消えてくれてるといいんだけど……」
「そんな、私は冬休みが終わるまでには消えてくれないと困ります!」
春香が言い返すと、藤臣は「それはそうだね」と言って笑った。
「そういえば、一色から何か連絡は?」
門から一歩踏み出してから、藤臣は肩越しに春香を振り返るとたずねた。
春香は心配事を思い出したという顔になり、かぶりを振った。
「紅子の家には何度か電話して、おじさんから元気だっていう話は聞いているんですけど……紅子本人からは、何も」
「そう……か」
藤臣もつられたように暗い顔になって相づちを打つ。
「やだ、先輩までそんな顔しないでくださいよ」
春香は笑顔を作ると、わざと明るい声で言った。
「紅子って、こういうとこが昔からちょっと冷たいっていうか、あんまりべたべた連絡してこないんですよね。だから、今回も」
きっと大丈夫。
そう言いかけた、そのとき。
大きな音を立てて玄関のドアが開き、何事かと藤臣と春香がそちらを振り返ると、血相を変えた咲子がそこに立っていた。
「春香、早く来て!」
悲鳴に近い声で、彼女は叫んだ。
「紅子ちゃん、紅子ちゃんが……!!」
世界は、どこまで狂っていくのだろう。
2010.06.02
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