第百二十八話「凍結・1」


 時おり吹きつける風に舞う雪――
 そう聞けば、誰しも叙情的な光景を思い浮かべるだろう。夜の闇に舞う羽根のような白い雪片。
 しかし今、この都市に舞い散る雪は、叙情からはほど遠い。
 闇に浮かび上がるその色が、誰もが見慣れている純白ではなく、ありえない色に――朱に染まっているからだ。
 花びらに見立てれば美しいと言えなくもない、赤い雪。
 だが、そこからかすかに漂う血のにおいをかいだ後では、それはただ気味が悪いだけの異常現象でしかない。少なくとも、まともな神経を持つ人間にとっては。
 雪の気配に空を見上げた人々はたいていの場合、次の瞬間、あるいは絶句し、あるいは悲鳴をあげた。
 深更という時間にもかかわらず、街路にあふれていた人影は見る間にまばらになっていく。
 極彩色の雪に、文字通り色を失ったような摩天楼。
 そのはるか上空――
 小さな人影があった。
 闇に溶け込みそうな黒衣をまとっていた。あるいは、闇から生まれ出たような、と言うべきだろうか?
 薄い衣服は皮膚にぴったりと沿い、性別というものを極端に廃したようなその肉体を浮き彫りにしている。
 身体つきだけを見れば、細く華奢な子供のようであった。
 だが、その白い顔に子供らしいあどけなさなど一片も見いだす余地はない。
 嘲笑するわけでもなく、哀れむわけでもなく、ただ冷徹に、降り積もる赤い雪に染まっていく都市を見下ろすその目は、まるで感情というものをどこかに置き去りにしてきたかのようだ。
 しかも、極端な薄着であるにもかかわらず、降りしきる不吉な雪と、凍てつくような寒さの中、身を縮めるそぶりさえ見せないのである。
 普通の感覚ではない。
 そして何よりもこの黒衣の「子供」の特異だったこと――
 それは、すっくと立つその足の下にただ闇が広がるばかりで、何もなかった、ということだ。
 彼と呼ぶべきか彼女と呼ぶべきかわからないこの闇の生き物は、子供どころか人間でさえないのだった。
伽陵(がりょう)……」
 奇妙にくぐもった声が聞こえ、黒衣の者はその声が聞こえたほうに視線を移す。
 そこには、大きさにしてひと抱えほどの灰色の球体が浮かんでいた。
 声の主であるらしい奇怪なぬめりを帯びたその球体は、小さな目が真ん中にぽつりと開いているほかは、耳も鼻も口もない。
 しかし「伽陵」と呼ばれた黒衣の者は驚くわけでもなく、その球体にむかって
白眸児(はくぼうじ)
と呼んだ。
「何用か」
 先と同じ、くぐもった声が答える。
「主上の……お召しである」
 それを聞いた伽陵は「承知」と言うが早いかその身をひるがえし、闇に溶け込んだ。
 姿を消したわけではない。動きがあまりにも速いため、そう見えるだけだ。
 その証拠に、空を覆う灰色の雲を背景にしたとき、虚空を疾駆するその軌跡が一筋、黒く線を描くのが見えた。ちょうど、地上から天へさかのぼる流星のように。
 小さな黒い動点は瞬く間に雲の中へ入り、さらに奥へと進んで行く。
 しばらくして、のっぺりとしたグレー一色だった世界が突然開けたかと思うと、彼女の前に黒い壁が現れた。
 それは巨大な建造物だった。
 いくつもの尖塔や柱を持ち、階段の一つ一つから手すりの端にいたるまで、精緻な幾何模様や饕餮紋などの彫刻によって飾られた、壮大な宮殿。
 ただし、その宮殿が建つ場所は地上ではなかった。

 重力を無視して雲海を足下に臨みそびえる宮殿。

 まるで神々のすみかのように――だが、黒々としたその姿とそこに出入りする者たちを見れば、その異様はまさしく万魔殿(バンデモニアム)と呼ぶのがふさわしい。
 地上に建つわけではないから、本来地下部分であるはずの部分も、地上部分と同様に無数の尖塔で飾られている。だから、遠目に見ればその全体像はゆがんだ双角錐のようだった。
 黒い点は宮殿に近づくにつれ速度を落とし、もとの伽陵の姿を取り戻すと、いくつかある庭園のうち、最も広大な空中庭園に降り立った。
 庭園――と書いたものの、そこには花どころか草一本生えていない。
 幾何紋様が彫り込まれた柱や、奇怪な彫像が並ぶだけの場所である。
 そこに、二つの影があった。
 一つは大きく、一つは小さい。いずれも人の形をしている。
 伽陵はそれら影のうち大柄なほうへ歩み寄ると、膝をつき、頭を垂れた。
「お召しにより、御前に」
 その頭上から、「む」という満足げな声が降ってくる。
「おもてを上げよ。汝に見せたいものがある」
 伽陵がおもむろに顔を上げてみると、彼女――あるいは彼――の仕える黒衣の王が斜め後ろにいる小さな影に向かって手をさしのべ、
「こちらへ」
と、うながすところだった。
 その横顔に流れ落ちる黒い巻き毛のすき間から、赤黒い傷跡が見え隠れする。伽陵はそれを一瞥して何も言わず、いつものように表情も変えなかった。
 黒い王にいざなわれて伽陵の前に立ったのは、同じく黒い長衣に身を包んだ少女だった。
 かたわらにいる長身の王がその見事な体躯の上に鎧をまとっているせいで、少女は伽陵の記憶よりもさらに小柄に見える。
 大粒の紅い玉をあしらった髪留めでまとめ、結い上げられた長い黒髪。
 血の気のない白い顔に、黒い大きな瞳がやたら際だっている。
 だが、その目に生気はなく、双方の眼窩にあるのはただうつろな闇だけだった。
「思いのほか時間はかかったが、手に入れたぞ」
 黒衣の王はそう言って、にやりと笑った。形のよい唇の両端からのぞく犬歯が異様に長い。
「主上」
伽陵は己が王の言葉をさえぎるようにして言った。
「お喜びのところ、まことに恐れながら……」
「この娘は主上のお命を危うく致します、か?」
王は伽陵の言葉を先取りすると、ふふん、と鼻を鳴らした。
「汝の予言が当たろうが当たるまいが、我は関心がない」
それに、と、彼は続けた。
「我らに汚名を着せ、永き封印におとしめた者どもを、やつらが最も恐れてきたやり方で滅ぼすことができるなら、見合う対価とは思わぬか?」
 あるじの問いに伽陵は応とも否とも答えず、ただ再び頭を垂れた。
 黒衣の王はこの沈黙を肯定としてとらえたらしい。
 彼が片手を拳にして振り上げると、黒いいかづちが音をとどろかせてわき起こり、四方へ飛び散ったかと思うや、それらは生き物のように眼下に広がる雲海を切り開き始めた。
 灰色の視界が開け、代わって夜の闇が広がっていく。その闇の奥には、またたく無数の街の灯。
「目障りな光よ……」
冥府の王は誰にともなくささやくように言った。
「見ているがいい、我が物顔に地上にのさばる愚かな虫けらども。まもなくお前たちをそこから一掃してくれよう。沈黙と無明の闇こそ我が望みなれば」
 そして、彼は宣言した。
「我が復讐の時は来たれり」

2010.05.22

2015.08.27加筆修正


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