第百二十七話「冬の始まり・四」
「僕が今、東京の別宅に来ている理由は、竜介さんがお察しの通りです」
志乃武は話し始めた。
「日可理が行方をくらませた昨日の朝からずっと、僕は彼女の気配を昼顔と夜顔に追わせていました。すると――竜介さんに連絡を入れたあとのことになりますが――深夜になってようやく、東京の別宅に出入りしていることがわかったんです。
それで今朝、本宅からこちらへ来た……というのが、僕が今ここにいる経緯になります」
彼が他の三人の反応を伺うように言葉を切ると、竜介が言った。
「で……別宅に日可理さんはいなかったんだね」
志乃武はうなずく。
「ええ、僕が到着したときにはもぬけの殻でした。日可理の気配も再びつかめなくなってしまい、途方に暮れていたところへ、鷹彦さんから電話をもらって、それで……日可理が見つかった、と聞いたんです」
そして、その状況は彼が予期していたよりもはるかに最悪だった。
紺野家の結界が破られて、紅子が黒珠に連れ去られた。
日可理は見つかったが、意識を失っているので紺野家で保護している。
志乃武が鷹彦から電話で得た情報はこの二点。
もっと詳しい状況を知りたかったが、電話でのやり取りでは埒が明かないし、日可理の容態も知りたかったので、物理的な距離の制約を受けない式鬼たちをとりあえず「飛ばした」のだと彼は言った。
「電話を受けた当初、日可理は紅子さんを守るために黒珠と闘って意識を失ったのかと……そうであってほしいと思っていました」
志乃武はしばらく押し黙った後、再び思い切ったように言った。
「……今回の一件と、日可理は無関係ではないんですよね?」
泰蔵は竜介と一瞬目を見合わせてから、迦陵に斬られてズタズタになった作務衣のたもとから、一枚の和紙を取り出した。
黒々とした墨跡。
「志乃武くん、この呪符に見覚えはあるかね?」
昼顔は呪符をまじまじと見つめたあと、志乃武の声で答えた。
「はい。……日可理が書いたものです」
泰蔵が静かに言った。
「うちの結界石に貼られていたものだ。これを剥がしたら、消えていた結界が戻った」
「じゃあ、日可理がこれを……?」
「いや、」
と、竜介はかぶりを振る。
「俺もさっき、虎光からの電話で知ったんだが、事実はもうちょっと複雑らしい」
涼音は携帯で日可理から指示を受けて、この呪符と同じものを結界石に貼って回ったそうだ、と彼は言った。
おそらく、日可理は体内にいる黒珠のせいで結界内に入れなかったのだろう。
だから、結界や黒珠のことを何も知らず、かつ紅子を「招かれざる客」として嫌う涼音を利用した。
「でも、結界石のどれか一つに異常が起きても、碧珠の魂縒を受けた竜介さんたちはそれに気づくはずでは……?」
志乃武の言葉に、竜介がうなずく。
「その通り。日可理さんもそのことを知っていたからこそ、彼女の呪符は完璧だったんだ」
一枚だけでは何の影響もないが、すべての結界石に貼られたとき、初めて効力を発揮する呪符。
その最後の一枚を貼り終えたとき結界は消え、涼音は捕らえられて人質となり、迦陵と龍垓は彼女を連れて紅子がいる泰蔵の家へ向かった。
一方、日可理はその場に残り、呪符を剥がしに来るであろう「誰か」を待ち伏せた。
「これは俺の推測なんだが」
と、竜介が言った。
「日可理さんの中に潜んでいた黒珠は、宿主の中に入って間もない頃は小さく気配も弱すぎて、ことによると、寄生されていた日可理さん自身さえ気づいていなかったんじゃないかと思うんだ」
成長すれば、無論気配は強くなる。
けれど、その頃には寄生した黒珠が宿主を精神的に支配しているから、今度は宿主自らが黒珠の気配を隠してしまう。
「実は……僕がこの別宅に着いた時、結界がなかったんです」
志乃武は打ち明けた。
「本宅と同じ呪符で守られていたはずなのに、全部はがされていました。おそらく、日可理が剥がしたんでしょう……自分が出入りするために」
「本宅には、おかしなところはなかったのかね?」
泰蔵の質問に、昼顔は頭を振った。
「僕にはわからないような小さなほころびをどこかに作っておいて、そこから出入りしていたのかも……うちの結界は、日可理が管理しているので、細工は容易かったはずです」
志乃武が話を終え、昼顔はもとの声に戻った。
「私はこれにて失礼いたしますが、日可理さまのおそばには、引き続き夜顔が控えておりますので、皆様はどうぞお休みください」
そう言って、式鬼は煙のようにかき消えた。
食堂に残った三人はその後も、食事をしながら今夕に起きたことをひと通り報告し合い、明日の段取りを決めて味気ない夕食を終えた。
「……じゃあ、竜兄が明日俺にやってほしいことって、残りの呪符を剥がして回るのと、志乃武くんの応対と、本宅の留守番、でいいんだよな?」
鷹彦は指を折りながら言うと、心細そうにこう付け加えた。
「でも俺、他の結界石の場所がうろ覚えなんだよなぁ……」
「なら、わしも一緒に行こう」
泰蔵が言った。
「足場の悪いところもあるし、二人のほうがいいだろう」
「助かります、師匠」
と、鷹彦が両手を合わせて大げさに泰蔵を拝むような仕草をするので、竜介も苦笑しながら師匠に礼を言った。
泰蔵は礼には及ばないというふうに片手で二人を制すると、「さて、」とおもむろに立ち上がり、
「お前さん、明日早いんだろう?あとは片付けておくから、先に風呂に入って休みなさい」
と、竜介を促したのだった。
竜介が風呂から上がる頃、ポツ、ポツと何かが軒を叩き始め、その不規則な打音が、ザアザアという明らかな雨音に変わるまで、さほど時間はかからなかった。
「お風呂、お先にいただきました」
風呂から出た竜介は、台所の片付けを終えて居間に移動していた泰蔵と弟に声をかけた。
「雨、降ってきましたね」
「おう、そのようだな」
と、返す泰蔵の背後で、テレビの天気予報がしばらく雨が続くだろうと告げていた。気温もぐっと下がるようだ。
鷹彦はちょっとうんざりした顔で言った。
「呪符も雨で流れりゃいいのに」
泰蔵はそんな彼をまあまあとなだめる。
「先延ばしにしたいのはわしもやまやまだが、気がかりは早めに取り除いておかんとな」
「無理はしないでください」
竜介が言うと、
「うむ。ま、せいぜい気をつけて行くよ」
と、泰蔵は笑顔を作った。
「お前さんこそ、道中気をつけてな」
竜介は、はい、とうなずく。
「それじゃあ、先に休みます」
と、踵を返しかけたとき、泰蔵が思い切ったように言った。
「その……玄蔵には、すまんと、伝えておいてくれ」
竜介が肩越しに振り返ると、老人は続けた。
「紅子ちゃんのことは、詫びる言葉もないと言っていた、と」
そう言った泰蔵の顔は、彼をよく知る竜介と鷹彦さえも驚くほど、悲しく老け込んで見えたのだった。
竜介が今夜休む部屋は、大人五、六人が余裕で並んで眠れるくらいの奥座敷だった。
昔は檀家とその親類たちが法事のあとで精進落しの食事をしたりするための部屋だったのだが、今は麓に良い懐石料理の店があるので、本来の目的で使われることはほとんどなくなっている。
鷹彦もここで休むはずなので、彼は二人分の布団を敷くと、照明を落として片方に横になった。
常夜灯のオレンジ色の光を眺めていると、今夕あったすべてのことが、悪い夢だったように思われる。
日可理からあの小さな異形の生き物を飲まされそうになったことについて、竜介は泰蔵たちに話していない。
あのときの彼女の言動について彼女自身の意思と関わりがわからなかったし、この先も続くだろう紺野家と白鷺家の関係にとって、無駄に彼女の尊厳を傷つけるような話は一利にもならないと思ったからだ。
が、それより何より、彼女と自分の関係について、余計な誤解や邪推をされたくないというのが最も大きな理由だった。
今更だ、と自分でも思う。
思うけれど、認めざるを得ない。
そして、もう、自分の心に嘘をつきたくない。
紅子に対する、この気持ちに。
けれど、もう――手遅れだ。
遅すぎた。何もかもが。
2023.5.9改稿
このページの文書については、無断転載をご遠慮下さい。