第百二十七話「凍結・前夜」


「……うぅ、(さみ)ぃ」
 鷹彦はノートパソコンのキーボードに指を走らせながら、思わず液晶画面にむかってつぶやいていた。
 暖房がきいているはずなのに、今夜はずいぶんと冷え込むようだ。
 パソコン横に置いたコーヒーからも、湯気が立たなくなって久しい。
 試みにマグカップを持ち上げてみて、そのひんやりした感触に彼は思わず身震いをひとつした。
 液晶画面の右下を見れば、時刻は午前一時を回ったところ。
 そろそろ寝るか――
 鷹彦は肘掛けつきビジネスチェアの上で大きくのびをすると、マグカップを持って立ち上がった。
 彼が大学通学に使っているいつものワンルームマンションでなら、朝まで放っておいても誰からも何も言われないのだが、ここではそうはいかない。
 この4LDKの持ち主は意外に清潔好きで、飲み物のカップは就寝前に必ず洗えと彼に厳命しているのだった。
 もっとも、そのあるじ本人は先月からずいぶん多忙となり、本当に同じ家に住んでいるのかと思うほど、顔を合わせることが少ないのだが。
 床に散らばった教科書や資料のコピーを足で踏みわけつつ部屋を出る。
 ドアのかたわらにかかったカレンダーはもう12月のそれだ。
 大学で論文考査の「お題」が発表されたので、とりあえず書きやすそうなものから手をつけ始めたのだが、まじめに大学に復帰し、卒業単位のことを考えてレポートなど書こうとしている自分が、ときどき滑稽になる。
 もう来年なんか来ないかもしれないのに。

 とはいえ、こうして日常に埋没しているとなぜかほっとするのも確かだった。
 他のことに気を取られているあいだだけは、一ヵ月あまり前に起きたことを忘れられる。
 影のようにつきまとう、喪失感を。

 鷹彦がリビングダイニングにむかって廊下を歩いていると、別室のドアのすきまから明かりがもれているのが見えた。
 この4LDKマンションの居住者は現在、戸主と彼の他に、実はもう一人。
 あっちもまだ起きてたのか――鷹彦は心中でつぶやくと、その部屋の前をそっと通りすぎた。
 無人のリビングダイニングには、闇と冷たい沈黙だけが漂っていた。
 台所の明かりをつけ、水音を立てても、それらは部屋のすみにわだかまっているようだった。
 街の喧噪も聞こえない、静かな夜。窓に映るのは台所に立つ自分の姿だけ。
 照明を消せば、それも消える。
 が、そのまま彼はしばし考え、何か思い直したようにスイッチから手を離すと、台所の隅に置かれたコーヒーメーカーの前に立った。

 十分あまり後――
 鷹彦は、台所へ行く前に素通りしたドアの前に立っていた。片手に、マグカップが二つ乗ったティートレイを持って。
 焦げ茶色のドアのすきまからは、まだ明かりがもれている。
 コツ、コツ。
 空いているほうの手で軽くノックすると、「どうぞ」という、いかにも面倒くさそうな答えが返ってきた。
 ドアを開けると、暖かい空気に混じって、カビとホコリのにおい。
 色あせてぼろぼろになった和綴本(わとじぼん)の山に埋もれるようにして机にむかう広い背中に、鷹彦は、
「竜兄」
と、声をかけた。
「コーヒー淹れたんだけど、飲まね?」
「おう、すまん」
顔を半分だけ振り向かせて、竜介が言った。
「ちょうど、少し休憩しようと思ってた」
 鷹彦はトレイの上にあるカップのうち、一つを兄に渡すと、自分は残りの一つを持ってベッドに腰をおろした。
 パジャマ代わりのスウェットを着込んだ男二人が、夜中に向かい合ってコーヒーをすする図――というのはあまり絵にならない。どころか、どことなくわびしささえ漂う。
 鷹彦は東京のこの4LDKに居候を始めて早や一ヵ月になるが、目の前の長兄とこうしてゆっくりコーヒーなど飲むのは久し振りな気がした。
 なぜなら、竜介はたいていこの部屋にこもりきりで、食事の時間にもろくに出てこないからだ。
 床に積み上げられた古書の山を眺め、彼は兄に言った。
「それで、どこまで進んだんだ?」
 竜介は照明の加減か、やつれた顔をコーヒーから上げると、カップを持っていないほうの手で自分の右手の山を指さし、
「あっちに積んであるのは終わった」
と、答えた。
 古書全体の、およそ半分がそこにあった。
「すげーじゃん」
 鷹彦は純粋に感心してみせたが、竜介の表情はさえない。
「目当てのもんが見つからなきゃ、意味ねーよ」
そう言って、彼は苦そうに熱いコーヒーをすすりこんだ。
 竜介がこの部屋にこもってしていること――
 それは紺野邸から送らせた御珠に関する古文書を解読し、今の形勢をどうにか逆転する手だてを探すことだった。
 そんな手段が本当にあるのだろうか、と鷹彦は古書の山を眺めて思う。
 形勢を逆転するということは、つまり紅子がいなくても黒珠をどうにかできるということだ。
 もしもそんな夢のような方法があったとしたら、とうの昔に自分たちの先祖がそれを見つけだしているはずだ、と思うのだが――
 竜介がそのことに気づいていない、などということがあるだろうか?
 それとも。
 彼が探しているのは、何か他のことなのだろうか?
 鷹彦は本の山を眺めるふりをして、長兄の顔をちらりと見た。
 蛍光灯の明かりが、無精ひげの生えた彼の頬に青白い影を落とし、目の下のくまを際だたせている。頭髪も最後にとかしたのはいつかと思うほどぼさぼさだ。
 疲れた顔。だが、その目には生気があった。
 東京に来るまでの竜介にはなかった光が。
 もっと正確にいうなら、一色家に紅子のことを報告しに行って、帰ってくるまでの彼にはなかったものが。
 実家から古文書の山を送らせてこの部屋にこもりだしたのも、それからだ。
 一色家で、玄蔵叔父のところで、何があったのだろう。
 何があったかはわからないが、それが今の竜介に何らかの希望を与えていることだけはわかる。
 彼には、鷹彦のように現実の忙しさで悲しみをまぎらわす必要がないということも。
「何か言いたいことでもあるのか?」
と、マグカップに視線を落としたままで竜介が言った。
「さっきから俺の顔、ちらちら見て」
 兄の口元はうすく笑っている。
 久し振りに見る笑み。これも東京に来るまではなかったことだ。
 うっかりしていた、と鷹彦は思った。この兄は昔からこういう気配にさとかったのだった。
「いや、大したことじゃねーんだけど」
いたずらがばれた子供のような心地で、彼は言った。
「竜兄、ちょっと元気になった?」
 竜介は一瞬、心外だという顔で、
「元気?俺が?」
と聞き返したあと、不意に何か思い当たった様子で独り言のようにつぶやいた。
「ああ、まぁ……そうか、そう見えるのか」
「何だよ、一人で納得してないで俺っちにも言えよ」
「確証のある話じゃないんだ」
竜介は中身を飲み干したマグカップを机の空いたところに置き、両手の指をあごの下で組んだ。
「だから、お前や虎光には黙ってた。俺の頭がとうとうイカレたと思われても困るし」
 鷹彦は兄の目を覗き込んだ。そこに宿っている光は至極まともだ。
「誰もイカレたなんて思わねーよ。いいから、もったいつけずに言えよ」
 竜介はしばしためらうように黙り込んだ。
 それから、静かに、だがはっきりした口調で告げた。
「……紅子ちゃんは、生きてる」
 短い沈黙があった。
「何……だって?」
鷹彦は怒り笑いのような顔で聞き返した。
「でも、竜兄が言ったんだぜ。目の前で紅子ちゃんが連れ去られたって……」
「そうだ。だが、あのとき黒珠が言ったんだ。気を失っているだけだと。それに、こうも言っていた」
 生かしたまま連れて来るようにというのが我が主上の命――
 鷹彦はどういう反応を示していいのかわからず、頭を抱えた。
 それが本当なら、信じたい――けれど。
「まだ生きてるとは限らねぇ」
「たしかにな」
竜介は首肯した。
「だが、俺だけじゃなく、玄蔵おじさんも同じ考えだ。それから……黄根老人も。そして、俺の推測が正しければ、彼女はまだ生きてる」
 鷹彦の脳裏を、紺野家にやって来た蓬髪(ほうはつ)・仏頂面の老人の顔がよぎった。
「黄根って、あのおっかねぇじいさんか?」
 彼がそう尋ねると、竜介はにやっと笑いながら唇に人差し指を立てた。
「あの人の悪口はあんまり言わないほうがいいぜ。すげえ千里眼の持ち主だから」
 鷹彦はあわてて口を両手で押さえた。そんなことをしたところで、口にした言葉を帳消しにはできないのだが。
「でもさ、何のために?」
鷹彦は訊いた。
「言っちゃなんだけど、紅子ちゃんを生かしておいて、やつらに何のトクがあるわけ?」
「それは……」
自分の考えを説明するか否か、逡巡する竜介の耳に、そのとき、何かが窓に触れたような、かすかな音が聞こえた。
「今、何か音がしなかったか?」
 いきなり兄から訊かれて、鷹彦はかぶりを振る。
「いや、何も」
 竜介はしかし、その返答が終わる前に席を立つと、窓に近づいてカーテンを開いた。
 小さな出窓はびっしょり汗をかいている。
「これじゃ外が見えねぇな」
 彼はそうつぶやきながら、手のひらで乱暴に結露をぬぐい、目をこらした。
 隣に立った鷹彦が言った。
「雨か?」
 竜介はかぶりを振った。
「いや、雨じゃない。雪……?に見えるんだが、なんか変だな……」
 彼は解錠すると、サッシ窓を開けた。
 とたんにすさまじい冷気が室内にすべりこむ。
 鷹彦は思わず両腕で自分の身体を抱え、
「寒い!」
と叫んでいた。
 一方、竜介は上から落ちてくる何かを受け止めようとするように外に手をさしのべている。
「鷹彦、ちょっとこれ見てみろ」
 兄から命令されて、彼は「勘弁しろよ、もう」などとぶつくさ言いながら窓のそばに寄ると、相手が差し出す手のひらを一瞥した。
 そのまま、視線が釘付けになる。
「何だ、これ……」
 我知らずそうつぶやいていた。
 兄の手のひらの上で半ば溶けかかっていたそれは、たしかに形だけ見れば雪のようだった。
 やや大きな、雪のひとひら。
 その色が白ければ、鷹彦をこんなに戦慄させることもなかっただろう。
 だが――

 その雪は、赤かった。

「くそっ、やつら、とうとう始めやがった」
言葉もなく呆然としている弟の横で、竜介が苦々しく言った。
「こっちはまだ何の準備もできてねぇってのに……!」
 降りしきる赤い雪。
 それはかすかに、血のにおいがした。

2010.05.06

2015.08.26加筆修正


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