第百二十六話「冬の始まり・3」


 式鬼たちの施術は、白鷺家にのみ伝わるものなのか、竜介たちにとって見たこともない不可思議な光景の連続だった。
 白い法円は、昼顔の微細な指の動きに合わせてしばしその模様を目まぐるしく変化させていたが、やがて何らかの規則にしたがって調整が終わったらしく、輝きをひときわ強くして静止した。
 その途端、黄緑色のメイド服を着た昼顔の姿が、その指先からほぼ一瞬で、デジタル映像のブロックノイズのようにばらりと解ける。
 法円は音もなくそのブロックノイズを吸い込むと、裏側から、小さく細長い、蛇に似た「何か」を吐き出した。
 「それ」は一般的な蛇とは明らかに異なる姿をしていた。
 鱗はなく、代わりに全身に輝く白い羽毛をまとっている。
 目は金とオリーブ色に輝き、小鳥のような翼で飛ぶ姿は、愛らしくさえあった。
 式鬼が変化したその生き物は、翼をはためかせてふわりと浮き上がったあと、日可理の顔めがけて勢いよく急降下し、わずかに開いたその口へ、するりと身を躍らせた。
 変化はまもなく訪れた。
 それまでぴったりと閉じていた日可理のまぶたが、突然、開いたのだ。

 だが――

 そこに彼女のあの澄んだ黒瞳を見ることはできなかった。
 得体の知れない、黒い粘液に塗りつぶされた目をカッと見開き、恐ろしい形相で日可理は吠えた。

「ウガァッ、グォオ!!」

 身体が弓なりに反り返り、夜具の上で跳ね回る。
 竜介たちはとっさに身構えたが、夜顔が着けた枷がその役目をしっかり果たしているおかげで、それ以上のことは起きずに済んだ。
 やがて、反り返った白い喉から、ゴボゴボという不気味な音が聞こえてきたかと思うと、その場にいる三人――と一体――が固唾を飲んで見守る中、突然、日可理の口から黒い塊がぬるりと飛び出した。
 大人の拳くらいはあろうかと思われる、口だけしかないナマズに似た異形。
 それを、夜顔が絶妙なタイミングで広げたタオルの中に捕らえる。
 次いで、あの白い翼を持った蛇がおもむろに日可理の口から顔をのぞかせた。
 蛇は汚れてまばらになった翼でどうにか空を舞うと、法円をくぐり、さっきの過程を逆に繰り返して昼顔の姿に戻った。
 一方、宿主から切り離された異形の魚は、黒珠の気配を放ちながら、どろどろに溶け始めていた。
 足掻くように鋭い牙を鳴らして蠢き、それは言った。

「……ジャ……邪マ者を消スのよ……」

 ところどころ歪んでいたけれど、それは確かに日可理の声だった。
 崩れかけた口で、怪魚は呪詛を繰り返す。
「あノ女……消シてヤる……邪魔者……わタくしノものよ……ワた」
 バチッ、という何かが爆ぜるような音とともに、呪詛の言葉は唐突に途切れた。
 竜介が横から手を伸ばし、夜顔が捕らえていたあのおぞましい黒い塊を握りつぶしたのだ。
 塊を握る彼は青い光輝をまとい、ちりちりと爆ぜる金色の稲光がその周りをせわしなく駆け抜ける。
 竜介が握っていた手を開くと黒い粘液が残っていたが、それもたちまち蒸発し、彼の手と夜顔の持つ布の上にただ黒いシミを残して、黒珠の異形は消えたのだった。
 紙のようだった日可理の頬に赤みが戻り、健康な寝息が聞こえるようになると、引き続き彼女の様子を見守るという夜顔だけを残し、昼顔と泰蔵たち三人は客間を出た。
 不気味なシミのついたタオルについては、竜介が
「洗面所に手を洗いに行くついでに、捨てておきます」
 と、引き受けたので、泰蔵は鷹彦と、少し影が薄くなった昼顔を伴って、先に食堂へ向かったのだった。


「あんなおっかない顔の竜兄、初めて見ましたよ……」
 鷹彦は食卓の椅子に身体を預けると、ようやく緊張が解けたのか、ため息をつきながら言った。
 その言葉に、泰蔵は十五年前のことを思い出しながら、
「そうかい」
 とだけ、曖昧に答えた。
 卓上には、結界が消える前に竜介と紅子が作っていた料理が、手つかずのままで放置されている。
 こんなときでも――いや、こんなときだからこそなのか――腹は減るもので、二人の目は皿の上をさまよいつつも、冷え切った料理に手をつける気になれずにいた。
 料理を温め直すために席を立つ気力が、疲れ切った彼らにはもはやなかったのだ。
 そんな二人の内心を察したように、昼顔が言った。
「お食事になさいますか?」
 否やのあろうはずがない。
「頼めるかね」
 泰蔵が言うと、昼顔はお安い御用とばかりに台所に立つ。
 卓上にはたちまちのうちに湯気の立つ皿が並んだ。
 さらに、飲み物をどうするか尋ねられたが、さすがに今は酒を飲む気にはなれない。
 泰蔵が温かい茶を所望すると、鷹彦もそれにならった。
 空っぽだった胃に食べ物が入ると、それだけで部屋の温度が数度上がった気がする。
 けれど、ときに安堵というものは、心の穴をことさら思い出させるようだ。
 黙々と食事をしていた鷹彦が不意に鼻をすすり出し、泰蔵はしばし年若い弟子の背中をなでてやらねばならなかった。
 ややあって気持ちが落ち着いたのか、鷹彦は小さな声で、すみません、とつぶやいてから、
「竜兄、遅いですね」
 と、無理やり空気を変えようとしてか、明るく言った。
「俺、ちょっと見てきましょうか」
「それには及ばんよ」
 泰蔵は苦笑して、鷹彦の肩の向こう、食堂の入り口を視線で示す。
 鷹彦が肩越しにそちらを振り返ると、ちょうど竜介が入ってくるところだった。
「いい匂いだな」
 先程の剣幕もどこへやら、彼は穏やかな口調でそう言うと、席についてさっそく料理に箸をつけた。
「悪いが先にいただいとるよ」
 泰蔵が言うと、竜介は食事をしながら、「気にしないでください」というようなことをもぐもぐと言った。
「虎光から電話が入ったので、明日のことを打ち合わせしてたら遅くなってしまいました」
 鷹彦は怪訝な顔をした。
「明日のことって?」
「一色家に詫びを入れに行くんだよ」
 と、竜介。
「えっ、じゃあ俺も一緒に行かなきゃ」
「いや、お前は師匠と一緒に留守番を頼む」
 竜介は昼顔が淹れてくれたお茶で料理を飲み下し、言った。
「虎光も父さんに状況を報告しに行くから、明日の朝、一緒に東京へ向かう。お前まで一緒に来たら、何かあったとき師匠一人でここと本宅のほうまで面倒を見ることになるだろ?
 それに、俺たちの留守中、いろいろとやってもらいたいこともあるしな」
「やってもらいたいこと?」
 鷹彦が鸚鵡返しに尋ねたが、竜介はそれに答える代わりに、式鬼に向かって言った。
「昼顔、志乃武くんが日可理さんを迎えに来れるのはいつ頃になるかな?」
「志乃武様は本日、東京の別宅にお泊りですので、明日の昼前にはこちらへうかがえるとのことです」
 昼顔の返答に満足気にうなずく。
「てっきり本宅だと思ってたから、助かるよ。予報だと今夜から雨になるらしい。気をつけて来るように伝えてくれ」
「ありがとうございます」
 昼顔は丁寧に頭を下げた。
「竜介様もどうかお気をつけて、と我が主(あるじ)が申しています。日可理がご迷惑をかけたお詫びを、竜介様にも直接申し上げたかったので、行き違いになるのは大変残念です、と」
「迷惑、か……」
 竜介は皮肉めいた複雑な顔でそうつぶやいた後、少し改まった調子で式鬼の主人に、

「志乃武くん、」

 と、直接呼びかけた。
「今回の件で君が知ってることを教えてくれないか」
 別宅に来てたのは、日可理さんの動きと何か関係があるんだろう?
 昨夜、電話をくれたときに、朝から日可理さんの姿が見当たらないと言ってたよね?

 その言葉に、泰蔵と鷹彦がハッと表情を固くする。
 昼顔はしばし沈黙してから、口を開いた。
 それは、志乃武の声だった。

「僕が知っていることは、あまり多くありませんが……知っている限りのことは、お話しましょう」

2023.4.8改稿


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