第百二十六話「迷宮の果て」


 次に紅子が目を開けたときも、同じような薄闇に世界は包まれていた。
 ここは……?
 記憶と空間識の混乱。紅子は目を何度かしばたたかせた。
 目を閉じているよりは開けているほうが、わずかに明るい。青白い闇に満たされた世界。
 何が、どうなってるの――?
 意識にかかったクモの巣を払いのけ、その奥にある記憶をたぐり寄せる。
 と、そのとたん、巨大な猿の化け物とその手が迫ってくる光景が眼前に出現し、紅子は恐怖のあまり悲鳴とともにバネじかけのように跳ね起きた。
 もちろん、そんなものは記憶が見せた幻にすぎない。
 それがわかってほっとしたのもつかの間。
 次の瞬間襲いかかってきた凄まじいめまいと脱力感に、彼女は再びくたくたと倒れ伏してしまったのだった。
 身体にまったく力が入らない。
「どうなってんの……?」
 思わずつぶやいた言葉も、うまくろれつが回らない。
 床には毛足の長い絨毯が敷かれていて、直接寝転がっていても痛くないのがせめてもの救いだった。
 よく見れば、絨毯が敷かれていない床や壁、そして天井には、何やら精密な幾何学模様が刻まれていて、それが青白く発光している。その光のおかげで、室内は照明がなくとも薄明を保っているようだ。
 あたし……死んだのかな?
 記憶に残っている最後の映像――巨大な化け物の手――が夢でないとすれば、黒珠が炎珠の神女を捕らえてそのまま生かしておくとは考えにくい。
 だとしたら、ここって天国、それとも地獄?
 何時間くらいこうしてここで寝ていたのか知らないが、空腹も喉の渇きも、暑さも寒さも、奇妙なくらい何も感じない。
 体感だけでなく意識さえもがどこかしらあいまいで、しっかりととらえておかなければふっと消えてしまいそうだった。まるで本当の夢のように。
 そうだ、これは夢なのかも。と、紅子は思った。
 目が覚めたら自分は紺野邸の客間にいて、何もかもいつも通りで――
 だが、そんな淡い希望はあっけなくついえた。

「ほう……まだ意識があるのか」

という声によって。

 その男はいつの間にか紅子のすぐそばに立ち、彼女をじっと見下ろしていた。
 彼の身体がこの室内と同じようにわずかに光を帯びていなければ、闇に埋もれてしまいそうな黒ずくめの男。
 身にまとっているのは(よろい)だろうか。闇の中でごつごつと硬質な輝きを放っている。
 肩から上は薄闇に沈み、どんな表情でこちらを見ているのかはわからなかった。
 ただ、氷のような空気だけが漂ってくる。
 いったいいつからそこにいたのだろう。
 いや、そもそも、いつこの部屋に入ってきたのか。扉が開く音も、足音も、何も聞こえなかったのに。
 凄まじい力の気配と首の後ろの痛痒感が警告を発している。
 何とかして男と距離を取ろうともがくけれど、起きあがることはおろか、身じろぎさえ思うようにできない。
 心臓の拍動と呼吸だけがむなしく跳ね上がる。
 ややあって、
「ムダだ」
空気と同じ冷たい声が降ってきた。
「この部屋には炎珠の者を封じる術がほどこしてある。動けば苦しいだけだ」
 紅子は気力のすべてを振り絞って男をにらみあげた。
「あたしを……殺しに、来たの……?」
「殺す?」
 嘲弄するような声と一緒に、男の身体が沈み込んできた。
 身体を覆う無骨な装束に反して、男の頭部を守るものは何もなかった。
 豊かな漆黒の巻き毛に縁取られた白い顔が闇の中に浮かび上がった。
 ギリシャ彫刻を思わせる繊細で優美なその容貌は、薄闇を通してさえ、見る者をはっとさせる。
 だが、その二つの黒瞳は暗く冷たい狂気に輝き、その唇は酷薄な笑みにゆがんでいた。
 男は紅子の顔を覗き込むようにして言った。
「殺してほしいのか?」
 かぁっと怒りがこみあげる。が、今の彼女には怒鳴ることさえできない。弱々しい声で
「んな、わけない……」
と、つぶやくように言うのがやっとだった。
「殺しはせぬ」
男は紅子の怒りを楽しんでいるようだった。
「お前にはやってもらわねばならぬことがある」
「やってもら……こと?」
 紅子がたどたどしくおうむ返しに尋ねると、男の笑みが大きくなった。
「我らをおとしいれた者どもに、我らと同じ恐怖と、苦痛を味わってもらう」
 そのとき、目の前の男が頭に思い描いていると思われる光景が、紅子の脳裏に閃光のように現れ、消えた。
 次の瞬間、彼女をとらえたのは、自分でも恐ろしくなるほど激しい感情の嵐だった。
 それは炎となって黒衣の男に襲いかかり、油断していたらしい彼の左頬と髪のひとふさを焼いた。
 ジュッ、といういやな音と、肉の焦げる臭気。
 だが、できたのはそこまで。
 力を使ったとたん目の前が暗くなり、紅子は意識が遠のくのを感じた。
「大したものだ、この状況でまだ力が使えるとは……」
夢と現実のはざまで、黒衣の男の感心しているような、あざけるような声が聞こえた。
「だが……もう動くこともできまい……」
 うるさい。
 そう言ってやりたかった。
 あんたたちの思い通りになんか、なるもんか。
 しかしその言葉は唇をわずかに震わせただけで、声になることはなかった。
 しばらくして、黒衣の男の気配は消えた。
 目の前に横たわる無力な少女の心を読みとったかのように、冷笑だけを残して。

 もう、目を開けることさえできない。
 壊れた舟のように闇に沈みゆく意識の中、竜介の顔が脳裏をよぎる。
 彼のそばには今、日可理がいるのだろうか。
 東京にもどってからなんてもったいをつけずに、あの夢からもどってきたときに、自分の気持ちに気づいたときに、伝えておけばよかった。

 好き、と。

 失恋したまま死ぬのがつらいからとか、竜介に気を遣わせたくなかったからなんて、ただの小賢しい理屈だ、と紅子はいまさらのように思った。
 あたしはただ、傷つきたくなかったんだ。
 日可理さんの気持ちを知っていたから。
 あんなきれいな人に、かなうわけないと思っていたから。
 だけど、心のどこかで期待していた。彼の気持ちはこちらを向いていると。
 俺も、きみとまた、東京で会いたい――
 夢の中で言われた言葉と、優しいキスがあったから。
 バッカみたい。夢なのに。
 そう吐き捨てようとした言葉は、しかしかすかな吐息にしかならなかった。
 閉じたまぶたから温かなしずくがあふれ、こめかみをつたって耳のほうへ流れていったのは、果たしてまだ現実のことだったろうか?
 こんなことになるなら、聞いておけばよかった。
 腕のあざを竜介に見せて、夢は、本当にただの夢だったのか、と。
 でも――
 あれほどくっきりしていたあざも、もう消えてしまった。

 もう遅い。

 もう、遅すぎる。何もかも。
 たぶん、きっと――

2010.04.23


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