第百二十四話「冬の始まり・1」


 首が痛い。
 首の後ろをちくちくと刺すような不快感とともに、紅子は目を覚ました。
 目を開けて最初に見えたのは、青白く発光する天井。光源は一つ一つが複雑な幾何学模様で、じっと見ているとなぜか頭がくらくらしてくる。
「……ここ、どこ……?」
 舌がもつれる。身体が重い。
 起き上がろうとしたとたん、今度は寝違えたような痛みがはしって、彼女は思わずうめいた。
 同時に、意識を失う直前の記憶がよみがえる。
 背後に迫る黒珠の気配から逃れるため、ひたすら森の中を駆けた。

 でも、木立を抜けた先では、竜介と日可理が――

 一瞬、何も考えられなくなった。後ろにいる黒珠のことすら。
 首の後ろに衝撃を感じて、その後の記憶はただ、闇ばかり。
 だとすれば、ここは――

「目が覚めたか」

 突然、紅子の視界の外で声がした。低く冷たい、男の声。
 同時に、首の後ろの不快感が強くなる。
 紅子は焦りと恐怖で冷たい汗が吹き出すのを感じた。
 紺野家で自分を追い詰めた、あの黒珠だ。
 首の痛みを堪えながら、鉛のような身体を引き起こそうともがく少女に、黒珠の男は言った。
「やめておけ。この房は炎珠の力を消耗させる術式が施してある。ムダに動けば辛くなるだけだ」
 言葉と同時に、男の顔が彼女の眼前に沈み込んできた。
 黒い巻き毛に縁取られた、神々しいまでの美貌。
 死と狂気に蝕まれたその黒瞳を見た瞬間、紅子は彼との対面が、紺野家のそれより以前にあったことを、唐突に思い出した。

 夢で見た、荒廃した迷宮式庭園。崩れかけた数多の列柱と尖塔に守られた巨大な城。
 その奥で行われていた、おぞましくも冒涜的な儀式。

 黒い粘液の中から生まれた男と、今、目の前にある顔とが重なる。
 相手も同じことを思ったらしい。瞳がわずかに大きくなった。
「そうか……」
 男の唇がゆがみ、冷笑を作った。
「我が復活の儀を至聖殿の小窓から見ていたのは……お前か。魂魄だけを飛ばしてここを探し当てるとは何者かと思っていたが」
 ただの夢だと思っていたか?
 それとも、余の霊力で跳ね返された衝撃で忘れたか。魂魄の記憶は脆いからな。
 そう誰にともなくつぶやく男が放つ圧倒的な力の気配に、紅子は肌が痛いほど粟立つのを感じた。
 だが、殺気はない。
 殺すつもりで捕らえたなら、紅子の意識が戻る前に亡き者にしているはず。
「なんで……」
 紅子はもつれる舌を懸命に動かした。
「あたしを……さっさと殺さないの」
「殺しはせぬ。せっかく手に入れた封印の鍵ゆえ」
 男はそう答えると、話をそらすかのように、
「そうだ、名乗るのを忘れていたな。我は黒珠の王、龍垓(りゅうがい)。近き未来、汝が花婿となるであろう者だ。見知りおけ」
 最後の言葉の意味がわからず、紅子は眉をひそめた。
「はな……むこ?」
「そう。お前が封禁の儀を生き延びればの話だが」
 封禁の儀。
 黒珠を封印して異形の怪物に変え、?・白・碧の三支族がその術を怖れて炎珠の力を削ぐきっかけとなった、忌まわしい禁術。
 怖ろしい考えが紅子の脳裏をよぎる。
「まさ、か……?」
 龍垓は美しい顔にぞっとするような喜色を浮かべた。

「我らが味わったと同じ悪夢を、屈辱を、やつらにも味わわせてやるのだ」

 亡者の王は、底冷えのする声で、歌うように言った。 「我らはこの世界を死の沈黙と氷で覆い、新たなあるじとして君臨する。人の世は終わりを告げるであろう」
 だが、封禁の儀を生き延びたなら、お前は生かしておいてやろうぞ。
 やつらの封印を保つには、次なる神女が必要ゆえ……。
 紅子は胃のあたりがむかむかするのを感じた。
「あんたの……思う通り、になんか……!」
 冷たい手足に血流が蘇る。
 鉛のようだった身体が、軽くなる。
 龍垓は、少女の目が赤く輝くのを見た。
 と、次の瞬間。
 冷たく青白い薄闇の牢獄を、一瞬にして荒れ狂う炎が支配した。

***

 疲れと絶望で重い身体を引きずるようにして、泰蔵は竜介と一緒に自宅へ戻った。
 玄関で二人を出迎えた鷹彦は、一瞬、言葉が出てこなかった。
 まず、二人とも、恐ろしく顔色が悪かった。
 泰蔵の着衣は鋏でも入れたようにあちこちがすっぱりと切れ、切れ目からはところどころカミソリで切ったような傷がのぞいていた。
 竜介はもっとひどかった。喉元から下が血まみれだったのだ。
「竜兄、血が……」
 鷹彦がようやくそれだけ言うと、竜介は、
「もう止まってる」
 と答えながら、無造作に靴を脱ぎ捨て廊下に上がった。
 そのとき、鷹彦は兄が誰かを背負っていることに気づいた。
 むき出しの白い腕が、彼の背後から胸に、力なく回されている。
 彼は心臓に氷を押し当てられたような気がした。
「それより、鷹彦、ちょっと手伝ってくれ。彼女を休ませないと」
 そう言って、竜介が奥へ向かうとき、すれ違いざまにその背中にいる人物の顔がちらりと見えた。
 紅子ではなかった。
「日可理さん……?」
 なぜ、ここに?
 てっきり、紅子だと思ったのに。じゃあ、彼女はどこへ……?
 呆然と立ちすくむ鷹彦を、奥から竜介が呼んだ。
「鷹彦、ここを開けてくれ」
「今行く」
 そう答える鷹彦の背中に、泰蔵が尋ねた。
「涼音の姿が見えんようだが?」
「ダイニングにいますよ」
 肩越しに返事をして、兄のところへ向かう鷹彦を見送ってから、泰蔵はダイニングへ向かった。

 ダイニングの椅子に所在なげに腰をおろした涼音の目は赤く腫れ、首についた刃の痕も痛々しかった。
 彼女は泰蔵が入ってきたことに気づくと、一瞬、顔を上げ、何か言おうと口をもごもごさせたが、すぐまた視線を床に落とした。
 泰蔵は彼女の隣に腰をおろすと、結界石のそばで拾った携帯電話を取り出して見せた。
 涼音の顔が明らかに青ざめ、こわばる。
 泰蔵は静かに言った。
「竜介がお前さんのだと言っていたが、間違いないかい?」
 涼音はまた口をもごもごさせるだけで返事をしなかったが、その視線は携帯に釘付けになっている。
 泰蔵は涼音の手を取ると、その手に携帯を握らせてやった。
「履歴を見ればわかると思うが、虎光くんから着信があって、わしが出た。ここまで迎えに来てもらうよう頼んでおいたから、ぼちぼち到着するだろう」
 ありがとうございます、というようなことを口の中でぼそぼそとつぶやきながら携帯を受け取る涼音の手をつかんだまま、「それとな、」と泰蔵は言葉を続けた。
「虎光くんには、お前さんを叱るなと言ってある。だから……本当のことを話しなさい。
 虎光くんにだけでいい、あったことを、そのまま、話しなさい。いいね?」
 噛んで含めるようにそう言ってから、泰蔵は涼音の手を放した。
 涼音は受け取った携帯を大事そうに胸の前で両手で握りしめると、大きくうなずき、うつむいた。ジャージの膝に、しみがいくつもできていた。
 と、そのとき――
 竜介が日可理を休ませに行った客間のほうから、いきなり、怒号が響いた。
 「嘘だろ」とか「なんでだよ」という言葉が聞こえてくる。
 鷹彦の声だった。
 泰蔵がやりきれない気持ちでそれを聞いていると、涼音が言った。
「ご……ごめんなさい」
 ぱた、ぱた、と水滴が落ち、彼女の膝に新しいしみを作った。
「ごめんなさい……ぼく、ぼく本当に知らなかったんだ……こんなことになるって」
「泣かんでいい」
 泰蔵は涼音の肩に手を置き、言った。
「泣かんでいいんだ……」
 そう言う彼の頬にも、伝い落ちるしずくが一筋、光っていた。
 泣いても、叫んでも、もう何も変わることはないのだと、わかっていても。

2023.2.15改稿


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