第百二十四話「心の迷宮・25」


 失ってしまったものは戻らない。それが人の命であればなおさらだ。
 そんなことは十七年前、母親が死んだときから知っている。
 けれど、知っているということで喪失の痛みがゆるむかといえば、それはまったく別物だった。
 もう取り戻せないと頭ではわかっているのに、心がそれを拒否する。
 いまさら考えてもどうしようもない「もしも」を仮定しては、気がつくと記憶をまさぐっている。
 もしも、紅子が夢だと思っていることを、違うと教えていたら。
 きみが夢の中で会った「竜介」は、今目の前にいる自分だと教えていたら。
 あれこれ小賢しい理屈をつけたりせず、この気持ちを紅子に示していたら。
 そうしたら――?
 そうしたら、彼女を失わずに済んだのだろうか。
 今も変わりなく、この手の届くところに彼女はいたのだろうか。
 考えるほどに、ただ苦い後悔ばかりが心を切り刻んでいく。
 あるはずのない答えを求めて、さまよう心を。

「……にき。兄貴」
虎光の声が竜介を悲しい夢から現実に引き戻した。どうやら眠っていたらしい。
「もうすぐ着くぜ」
 そう言われて窓の外を見れば、見覚えのある住宅街が広がっている。
 戻ってきたのだ、と竜介は思った。
 東京に。紅子の自宅に。
 紅子を失ってから、二日後。
 竜介は彼女の父親である玄蔵に事情を説明し謝罪するため、虎光とともに東京へ戻ってきたのだった。
「なあ、やっぱり俺も行こうか?」
一色の表札が上がっている玄関にRV車を横付けしてから、虎光が心配そうに言った。
「なんか、兄貴一人に責任押しつけてるみたいで、落ち着かねーんだよな」
「気持ちはありがたいけど、俺一人で充分だよ」
竜介はバイザーの裏にある鏡でネクタイを直すと、言った。
「紅子ちゃんのことは、俺の責任だしな」
 とはいえ、それで相手が納得してくれる保証はどこにもないのだが。
 そんなことを思いながら、後部座席に置いてあった上着をはおり、車を降りる。
 着慣れないスーツは窮屈だが、状況が状況だから仕方がない。いつもの軽装では、謝る気があるのかと思われてしまう。
 車内は差し込む日差しで汗ばむほどだったのに、外は晩秋らしい陽気で竜介を身震いさせた。
 もう午後も遅い時刻だが、快晴のおかげでまだ外は充分に明るい。
 早朝に紺野家を出て、八時間あまり。思ったより早く着けるものだ。
 父の貴泰から連絡は行っているはずだが、玄蔵は家にいるだろうか?
 いったいどう謝ればいいだろう。
 何発くらい殴られるかな――
 これから来る傷の痛みを思って、竜介は思わず自分の頬を撫でた。
 歯の一、二本は覚悟したほうがいいかもしれない。

 ところが。
 竜介から話を聞いた玄蔵の反応は、気持ちが悪いくらいあっさりとしたものだった。
「顔を上げろ、竜介くん」
 坪庭に面した奥座敷。紅子の意識界でも見た、仏間を兼ねたあの部屋で、畳に額をすりつける従兄甥に玄蔵は柔らかな声で言った。
 だが、
「できません」
と、竜介は頑なに言った。
「えらそうなことを言っておきながら、俺は、結局……。おじさんに合わせる顔がありません」
 それを聞いて、玄蔵はふっと息を吐いたようだった。
「そうか。ならば……」
 そう言って立ち上がり、近づいてくる気配。
 足蹴にされてもいいように、竜介がぎゅっと身を固くした、そのとき。
「これではどうかな」
という言葉と同時に、玄蔵は竜介の傍らに腰を下ろすと、彼の頭のすぐ横に、ことん、と何かを置いた。
 竜介は視線だけでそれを見た。
 それは、寄せ木細工の箱だった。
 大きさは人の頭くらい。素材は桐だろうか。真新しい木の香りが彼の鼻腔をくすぐった。
「この箱は……?」
「昨日の今時くらいに、黄根久乃という人が置いて帰ったものだ」
玄蔵が言った。
「例のクソじじいから、これを一色家に持って行けと言われたんだそうだ」
 その返答に、竜介は思わず頭をあげていた。
 そうだ、紅子がさらわれたごたごたですっかり忘れていた。久乃に紺野家まで黄珠を持参してくれと電話で依頼したことを。
 持参先が紺野家ではなく一色家に変更されたのは、朋徳がその恐るべき千里眼で事の次第を知っているからだろう。
 彼が黄珠を木箱に入れ封術をかけたことは久乃から聞いていたが、これがそうなのだろうか?
 竜介がその木箱――形は立方体ではなく、五角柱。そしてその天辺に彫り込まれているのは、饕餮紋(とうてつもん)――を見つめていると、
「やっと顔を上げたな」
玄蔵が言った。
 竜介はこのときようやく、久しぶりに紅子の父親を間近に見た。
 彼が紅子を連れてここを発ってから、まだ一ヶ月も経っていない。それなのに、今目の前にいる玄蔵は、いったい何年会わなかったかと思うほどに白髪が増えていた。
 そして意外にも彼は渋面ではなく、落ち着いた笑みを竜介に向けていた。
「中身は、黄珠だそうだ」
 玄蔵の言葉に、竜介は再び寄せ木細工の箱に目を落とした。
 久乃から電話で聞いた通り、御珠の気配はみじんもない。
「見事ですね」
 竜介がほめると、
「悔しいが、な……」
と、玄蔵は鼻を鳴らした。
 それから彼は視線を竜介に戻し、「さて、」と言った。
「黒珠のやつらは、紅子を生かしたまま連れ去ったと言ったね」
 竜介は首肯した。
「そうです」
 玄蔵は彼にうなずき返し、
「わたしの読みが正しければ、だが――」
と、ゆっくり言った。
「やつらは紅子を殺していない。あの子はまだ生きている」
 竜介は疑わしげに眉をひそめる。
 もしその読みが本当に当たっていれば、これ以上の福音はない。
「もちろん、確証なんかない」
玄蔵は言った。
「しかし、これ――と、彼は木箱を示した――をここに寄こしたということは、黄根のあのくそったれご老公もわたしと同じ考えと思っていいんじゃないか?」
 まさか。
 けれど、あの朋徳が、まだこうして動いている。この世のすべてを見通すかのような、あのすさまじい千里眼の持ち主。もしも紅子の命がなくなっているなら、もう打つ手など何も残っていないなら、人を人とも思わぬ冷徹な彼が、こんな無駄なあがきをするだろうか?
 彼のこの行為には、必ず意味がある。そしてそれは、彼らにまだやるべきことがあると告げていた。すなわち、

 紅子は、生きている。

「それじゃ……」
 そこから先を、竜介は言葉にできなかった。
 目の前の視界が忽然と開けたような気がした。
 そのまぶしさに思わず瞬きをすると何かが頬を伝い落ち、膝の上に置いた手の甲をぬらした。
 口を手で覆い、声を殺しても、流れ落ちる涙をとめることはできなかった。
 肩に温かいものが触れるのを感じて視線を上げると、それは玄蔵の手だった。
 彼は竜介と目が合うと、
「そうだよ、竜介くん」
と、自らをも鼓舞するように何度も竜介にうなずきかけた。その目もまた、うるんでいた。
「我々の敗北は、まだ決まったわけじゃない」
 しかし――と、冷え切ったその胸をかすかな希望で温めようとする竜介に、いまだつきまとう冷たい影が語りかける。
 黒珠の者たちにとって、紅子を生かしておくことに何の利点がある?

 彼女は、封印の鍵なのだ。封印の――

 そのとき、忽然として竜介は思い出した。紅子の意識世界で見た、過去の幻。
 天帝が立ち上げた禁術。
 それを、一族の誰もが恐れたことを。
 あの禁術が有効なのは、黒珠だけではないということを。
 竜介は、己のたどりついた答えに、全身が震えるのをとめられなかった。
「……竜介くん?どうした?」
 突然、青い顔で黙り込んだ彼を、玄蔵が怪訝そうにうかがう。
 だが、竜介は返事ができなかった。
 娘が生きている、そのことにひたすら一縷の望みを抱いている玄蔵には、言えなかった。

 紅子が生かされているのは、碧珠、白珠、そして黄珠に対し禁術をしかけるためだ、などとは。

2010.3.22

2015.8.26加筆修正


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