第百二十五話「心の迷宮・26」


 竜介の手がこの肩を離れたとき、なぜかもうこれきりになるような気がした。
 きびすを返し、薄闇の中へまぎれていく背中に
「行かないで」
と叫びそうになった。
「大丈夫だよ」
ずっと立ちつくしたままの紅子を気遣ってか、鷹彦が言った。
「俺っちもいることだし、ね」
 最後の「ね」でウインク。この軽さが鼻につくときもあるけれど、今は逆にそれが救いだった。
 紅子はちょっと笑って見せた。
 あまり不安そうにしていては、彼のプライドを傷つけることになる。
 竜介はすぐに戻ってくる。結界を正常に戻して、すぐに。
 だが――
 その願いは裏切られた。
 日可理は、忽然と、本当に忽然と姿を現したように見えた。
 鷹彦も同じように感じたらしく、
「あれっ、日可理さん?どこから……?」
と、怪訝そうにひとりごちた。
「紅子ちゃん、気づいてた?」
 そう訊かれても、紅子はかぶりを振るしかなかった。
 気づいたときには、既に日可理は視界の端にいた。
 つい先まで何もなかったはずの場所に、当たり前のように。
 紅子はわけもなくぎゅっと胸が苦しくなるのを感じた。いやな予感。
 それから間もなく、その予感は的中した。
 日可理は音もなく竜介に近づいたかと思うと、結界石に貼られた紙片のようなものをはがそうとしている彼を、背後から抱きしめた――少なくとも、紅子と鷹彦の目にはそう見えた。
 振り向いた竜介は、日可理と何か言葉を交わしているように見えたが、距離がある上に薄暗いので、話の中身はおろか、彼ら二人の表情さえうかがうことができない。
「何しゃべくってんだよ、竜兄」
鷹彦が歯がゆそうに言った。
「さっさと結界を元に戻せよ」
 無論、竜介に聞こえるはずはない。
 ないのだけれど、ちょうどそのとき、彼はまるで弟の声を聞いたかのように結界石に手を伸ばした。
 ところが、その手を日可理がさえぎる。
 彼女は竜介の邪魔をしている。まさしく紅子たちにはそう見えた。だが、なぜ?
 彼ら観衆の疑問を置き去りにしたまま、目の前の光景は急展開を見せていた。
 日可理の影が竜介のそれに寄り添い、そして、次の瞬間――
 薄暗い中でも、重なった二つの影が何を意味するかは、わかりすぎるほどわかった。
 見たくない。
 紅子は目を逸らそうとした。けれど、身体が石になってしまったように動かない。
 頭のどこかで、こんなのは何かの間違いだ、薄暗いからこんなふうに見えているだけだ、そう思いたがっている自分がいる。
 目を逸らしちゃダメ。確かめなきゃダメ。そう言っている。
 でも――視界がにじんでしまって、もう何も見えない。
 と、そのとき、紅子の目を大きな手のひらがふさいだ。
「見るなよ」
鷹彦の怒ったような声が聞こえた。
「くそっ。何やってんだ……何やってんだよ、竜兄」
 彼の気遣いはしかし、紅子を余計にいたたまれなくさせた。
 竜介が戻ってきたとき、どんな顔で会えばいいのだろう。
 考えるだけで胸が苦しくなる。
 できることなら、今すぐこの場を立ち去りたい。
 いっそ消えてしまえたら、どんなにか楽だろう――
 感情に押し流されそうになる一方で、紅子の理性は、こうなることは予測できたと主張していた。
 容姿はもちろん、中身も何もかも非の打ち所のない美女。
 年齢も彼女ほうが紅子より竜介に近く、そして何より、十年以上彼を恋い慕っている女性。
 自分の気持ちにばかり気を取られて、日可理の存在を忘れていたなんて。
「バカみたい……」
 そんなつぶやきが、我知らず口をついて出た。
 かたわらにいる鷹彦が息を吸い込む気配がした。何か言おうとしたのだろう。
 だが、彼の言葉はそれきりさえぎられてしまった。

「そう。お前たちみなが、な」

という声によって。
 二人は慌てて声が聞こえた背後を振り返った。
 同時に、鷹彦の身体が青い光輝に包まれる。竜介と同じ光。
 風もないのにざわざわと下生えの雑草が騒ぐのは、彼が「かまいたち」を周囲に張り巡らせたからだ。目には見えないけれど、触れるものを切り裂く真空の壁。
 声の主は、白鷺家でも遭遇した黒衣の少女――伽陵だった。
 相変わらずの無表情に、小さな細い身体。
 だが、その力の気配は凄絶で、紅子は首筋が痛いほどちりつくのを感じた。
 かたわらにいる鷹彦をうかがえば、彼も見かけにそぐわぬ相手の気配を感じているのだろう、見たこともないような必死の形相で相手をにらんでいる。
「風を使うのは、お前だったか……」
 独り言のように、伽陵が言った。
 ずっと探していたけれど、やっとわかったと言いたげな口調で。
「ミンチにされたくなきゃ、とっとと失せな」
鷹彦は相手の言葉を無視して威嚇した。
「こいつには指一本触れさせねえ」
 しかし、伽陵の白い顔はぴくりとも動かない。
「威勢だけでは勝てぬぞ」
嘲笑とも警告ともつかない、抑揚のない声。
鎧猴(がいこう)
 少女の形をした黒衣の異形がつぶやく。すると、
 のそり――と、その背後の闇が動いた。
 黒衣のうしろから現れたのは、巨大なサルのような生き物だった。
 柔毛の代わりに、硬質な鱗のようなもので全身を覆った、奇怪なサル。
 それは長い腕を大きく振り上げたかと思うと、次の瞬間、鷹彦の身体を横殴りになぎ払っていた。
 彼の身体はなすすべもなく吹き飛び、木にぶつかったあと地面に崩おれて、そのまま動かなくなった。
 紅子は悲鳴をあげた。
「鷹彦!!」
 彼は「かまいたち」を立ち上げていたのに、なぜこんなことになるのか。
 推測できることはただ一つ。固そうなあの鱗には、「かまいたち」は効かなかったのだ。
「この……!!」
 紅子は怒りをこめて振り返り、黒衣の顔をにらみつけた。
 その足下からは、煙と焦げくさい臭いがたちのぼる。
 三つの御珠から魂縒を受けた今、彼女にとって炎を操るのは自在のこととなっていた。
 だが。
 その煙が炎に変わることはなかった。
 紅子が振り返ったその瞬間、伽陵は彼女の目の前に右手のひらを突きだした。
 そこには小さな法円が起動し、回っていた。
 紅子はほとんど反射的にそれを見てしまい――
 身体の自由を奪われたのだった。
「主上のお召しだ」
伽陵の声が聞こえた。
「一緒に来てもらうぞ」
 その言葉を最後に、紅子の意識はまったくの闇に落ちた。

2010.04.10


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