第百二十三話「心の迷宮・24」


 白っぽい十字絣(じゅうじがすり)模様のついた灰褐色の和服。細い首周りはクリーム色の柔らかそうなショールですっぽりと包み込まれている。
 けれど、日可理の顔色はまったく温かそうではなかった。
 ふっくらしていた頬の肉はそげ落ち、目の下にも影がある。
 まだ体調が回復しきっていないのだろう。もしかしたら、立っているのさえやっとかもしれない。
 何か気遣いの言葉をかけるべきだと思ったけれど、思っただけで、竜介はその言葉を探そうとはしなかった。
 日可理もまた、声をかけたきり沈黙を守っている。黙って自分を見ている竜介の目に射すくめられたように、彼の足下に視線を落として。
 重苦しい沈黙。
 それを先に破ることさえ、竜介はしなかった。優しい言葉を探すことも、それに見合った声を出すことも、何もかもがおっくうだった。
 何分くらい、そうして向き合っていただろう。
「あの……」
ようやくといった感じで、日可理が口を開いた。
「おいとまする前に、一言……お詫びしたくて」
彼女はそう言って、深々と頭をさげた。いつも気高くもたげられている頭を。
「申し訳ありません。わたくしのせいでこんなことに……」
 富裕な白鷺家の令嬢として生まれた彼女の人生のうち、いったいこんなふうに頭を垂れることなど何度あるだろう。極めてまれに違いない。
「頭を上げてくれ」
竜介は静かに言った。
「日可理さんのせいじゃない」
「でも……」
 何か続けようとする日可理を、彼はつとめて柔らかくさえぎった。
「俺の力が足りなかったんだ」
 日可理は強くかぶりを振った。
「いいえ、そんなことは」
「いや、もういいんだ」
「でも、わたくしがもっとしっかりしていれば、紅子さまは、今も……!」
「もういいって言ってるだろう!」
 思いがけず大きな声が出て、竜介はハッと我に返った。
 日可理は驚き傷ついた様子でこちらを見ている。大きく見開かれた目はうるんでいた。
 紅子さまは、今も――
 その先を彼女は何と続けるつもりだったのだろう。
 それがどんな言葉であるにせよ、聞きたくなかった。少なくとも、今は。
「悪いけど」
彼は日可理に背を向けると、声の震えをおさえながら言った。
「一人にしてくれないか」
 背後で玉砂利の音が足早に遠ざかっていく。
 それが完全に聞こえなくなり、沈黙が戻ってくると、
「くそっ!」
竜介は目の前の金木犀の葉を力任せにむしった。
 自分が何に腹を立てているのかわからない。
 日可理に対してか。
 それとも、紅子を失ったのは日可理の責ではないと口では言いながら、八つ当たりしてしまった自分に対してか。
 手のひらに鋭い痛みがはしり、視線を落とす。
 枝葉で切ったのだろう、細いすり傷がいくつかでき、血がにじんでいた。
 竜介はそれを治さなかった。
 代わりにその手を握り込み、抱きしめるように胸に当てた。
 まるで、その小さな痛みをたしかめ、いとおしむように。


「日可理」
 日可理がぬれ縁から廊下にあがると、柱の影で様子を見守っていたらしい志乃武が声をかけた。
「志乃武さん……」
 日可理の目にふくれあがっていた涙がこぼれ、白い頬を伝う。
 彼女は自分とほとんど身長が変わらない弟の肩に顔を押しつけ、静かに泣いた。
 志乃武は何も言わなかった。
 ただ、姉の髪を優しくなでた。泥で汚れたせいで、いたんだ髪を。
 どれくらいの時間、そうしていただろう。
 日可理が志乃武の肩からようやく顔をあげ、落ち着きを取り戻しかけた、そのとき。
 不意に、廊下を慌ただしく走るバタバタという音と、それを追いかけるような「涼音!おい、待て!」という声が近づいてきたかと思うと、すぐそばのふすまが乱暴に開けられた。
 涼音が凄まじい形相で立っていた。
 志乃武が反射的に姉を背後にかばうのと、涼音が日可理につかみかかろうとするのとはほぼ同時だった。
「どいてよ!」
涼音は志乃武を怒鳴りつけた。
「ボクはその女に話があるんだから!」
「涼音、やめないか」
虎光が小柄な妹をやすやすと背後から抱え込み、言った。涼音を引き留めようとした声は、彼のものだったようだ。
「ごめんよ、日可理さん、志乃武くん」
「なんでこんなヤツに謝るんだよ!」
涼音は小さな狂犬のようにもがき暴れながら叫んだ。
「全部こいつのせいじゃないか!」
続けて、彼女は顔をそむけている日可理にむかって言った。
「ねえ、なんで!?なんでボクにあんなことさせたんだよ!!お前のせいで、ボクは、ボク……ぅ、う」
 涼音の言葉はそのまま嗚咽になり、それはやがて号泣に変わった。
 虎光は志乃武たちに目礼すると、子供のように声を上げて泣く妹を抱えてそそくさとその場をあとにした。
 これ以上ここにいても、気まずくなるだけだ。

 廊下を歩いているうちに気持ちが落ち着いてきたのか、涼音は自室に戻るまでに泣きわめくのをやめていた。
「竜介……に、きらわれ……った」
 しゃくり上げながらつぶやく妹を、
「兄貴がお前を嫌ったりするわけないだろう」
虎光がなだめると、
「でも……怒って……る、……虎にぃ、も……っ鷹に……も」
「そりゃあ、お前がやったアホなことには怒ってるさ」
彼は言った。
「だけど、怒るのと嫌うのとは別だろ。お前は俺たちの大事な妹なんだから」
 涼音は泣きすぎて真っ赤にはれた目で大柄な兄を見上げた。
「ほん……とに?」
「ああ、本当だ」
 虎光が首肯すると、涼音はまた顔を伏せ、小さな声で言った。
「こ……なこと……なるっ……おもわなか……たんだ」
「そうか」
虎光は優しく言った。
「怖かったな」
 涼音は兄のみぞおちに自分の額を押しつけると、また泣き出した。
「う……ごめ……なさい。ごめ……」
 何度も謝る妹の肩をなでてやりながら、
「俺が兄貴や鷹彦に代わりに謝っておいてやる、と言ってやりたいところだけどなぁ」
虎光はかんでふくめるように言った。
「今度ばかりは、お前が自分でちゃんと謝らなきゃいけない。お前はそれだけ大変なことをしちまったんだから」
 わかるな?
 そう念押しすると、彼のみぞおちに押しつけられた涼音の頭は小さく、こくん、と上下したのだった。

 涼音を彼女の部屋まで送り届けたあと、虎光が中庭に面した廊下に出ると、鷹彦が少し離れたところに立っているのが見えた。
 庭にいる竜介を柱の影から見ている弟にそっと近づくと、
「鷹彦」
と、彼は声をかけた。
「お前、まだ寝てろ」
 鷹彦の頭には白い包帯が巻かれ、それは彼の左目にもかぶさっていた。
 大事にはいたっていないものの、左まぶたとその周りがひどい打撲と擦り傷ではれあがっているのだ。
 頭を打っているせいもあって、退院するとき、医者からしばらく安静にするように言われている。
 だが、と、虎光は弟の包帯に隠れていない右目を見ながら思った。
 俺がこいつでも、やっぱり寝てなんかいられなかっただろうな。
 鷹彦の右目はひどく赤くうるんでいた。
「虎兄、俺……」
彼は兄の姿を見ると、鼻をすすりあげた。
「竜兄に……なんて言ったらいいかわかんねぇ。あんな顔、初めて見た」
 俺ってほんと、中間管理職キャラだよな――
 そんな軽口を密かなため息とともに頭の隅でつぶやきながら、虎光は弟の肩に手を置き、
「俺もだよ」
と、言った。
「かける言葉が見つからねぇや……」
 庭にたたずむ兄の姿から目をそらすように、空へ視線を転じる。
 降り止む気配のない雨と、重い鉛色の雲が、世界をふさいでいた。
 青空も、太陽のまぶしさも、このまま忘れ去ろうとしているかのように。

2010.3.18


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