第百二十三話「結界消失・7」
誰かに肩をつかまれた。一瞬、周囲の音がゆがんだ。
「竜介、よせ!!」
聞き覚えのある声で我に返ると、竜介は紅子が消えた闇に向かって、あたうる限りその手を伸ばしていた。
何か叫んだらしく、口の中は乾ききり、喉がひりひりと痛んだ。
風が止まり、世界はほぼ静止している。
喉元に食い込んでいた刃はいつの間にか離れて、コマ送りで動くその切っ先からは赤い小さな粒がいくつか、ゆっくりと落ちていくのが見えた。
振り返らなくとも、誰が自分の肩をつかんでいるのか、竜介にはよくわかっていた。
泰蔵である。
自分と自分が触れているものの時間を五倍に引き伸ばす、それが竜介の師匠の異能だった。
ただしそれは、「通常時間」で二秒間しか保たない。すなわち、泰蔵が「時間を引き延ばしている世界」の時間は最大十秒。
「お前が、ここで死んでどうする!?」
ぜいぜいと荒い息の合間を縫うように、泰蔵は言った。
おそらく、その異能を最大限使ってここへ駆けつけてくれたのだろう。
もし彼が引き留めてくれなかったら――自分の首はその肩を離れて、今頃、地面に転がっていたかもしれない。
だが、このときの彼は、礼を言う代わりにこう吐き捨てた。
「俺の命なんて!!」
泰蔵に向き直ると、その腕を掴み返す。
「師匠なら、間に合ったはずだ!!なんで紅子ちゃんを取り戻してくれなかったんです!?」
「触れることができなかったんだ!!」
遮るように泰蔵が怒鳴った。
彼がこの場に到着して最初にしたことは、無論、紅子を取り戻すことだった。
ところが、彼の手は、紅子や彼女を抱えている黒珠の男を素通りしたのだ。
「そんな……」
泰蔵の手短な説明を聴いて、竜介はそう答えるのがやっとだった。
もう、打つ手はないのか――
絶望が重くのしかかる。
紅子が消えた空間をもう一度確かめるように、竜介は振り返った。
視界の端では、迦陵が相変わらずスローモーションを演じ続けている。
「時間切れだ。通常時間に戻るぞ」
泰蔵のこの言葉が終わるか終わらないかというとき、竜介は突然、動いた。
迦陵の最大最強の武器は両手の甲から伸びる鎌だが、それは片刃で、エッジは迦陵自身の腕のほうを向いている。
だから、攻撃するとき迦陵は腕を自分の胸に引き寄せてから外へ薙ぎ払う格好になり、必然的に背中はがら空きだ。
通常時間であれば、恐るべき俊敏な動きがそういった隙をすべてカバーしてしまうのだが、引き延ばされた時間の中なら、その無防備な背中に、渾身の蹴りを入れることなど造作もなかった。
ほぼ同時に、また音がゆがみ、世界はもとの速度を取り戻す。
「がッ!?」
小さな怪物は初めて苦悶の声を上げ、重量を感じさせない軽い音とともに、地面に倒れ伏した。
間髪を入れず、竜介はその背中にまたがる。
木の枝をへし折るような、ぞっとする音が二回。
と同時に、迦陵が獣のような低い唸り声を上げた。
竜介が膝を使って、この怪物の両肘を砕いたのだ。
傍らに立って様子を見ていた泰蔵は、痛そうに眉をひそめたが、何も言わなかった。
「さっきの男を呼べ。紅子を連れて戻ってこいってな」
竜介は迦陵の首に両手をかけ、冷ややかな声で言った。金色の稲光が爆ぜる。
小柄な死神は、顔の半分を地面に押し付けられ、狭められた気道からぜいぜいと苦しげな呼吸をしている。
「早くしろ。丸焦げになりたいか?」
単なる脅しでない証拠に、両手に稲光を集中させると同時に、力をこめた。迦陵の首の骨がみしみしといやな音を立てる。
ところが。
黒衣の怪物は、横目で竜介を見上げると、にやりと嘲笑った。
そのとき――
「なんだ、白鷺家の嬢ちゃんじゃないか」
泰蔵の声が聞こえた。
竜介はハッとして、叫んだ。
「師匠!彼女の目を見ちゃだめだ!」
「なぜここに――」
いるのか、と泰蔵は言おうとしたのだろう。
だが、その言葉はそれきりぷつりと途切れた。
代わりに聞こえたのは、あの鎧の男の声だった。
「碧珠の男……迦陵を放せ」
竜介が慌てて視線だけ振り向けると、そこには白い光輝をまとった日可理がいた。
着衣は泥で汚れ、髪はひどく乱れている。竜介と鎧の男の力がぶつかり合った衝撃に巻き込まれて意識を失ったところを、黒珠に完全に乗っ取られたのだろう。
彼女は握った右手をゆっくりと高く持ち上げた。
懐剣だろうか。逆手に握られた刃が、ぎらりと光った。
「でないと……このじじいが大怪我をするぞ……!!」
言葉が終わるが早いか、刃が勢いよく振り下ろされる。
日可理の顔に表情はない。文字通りの操り人形だ。
泰蔵はといえば、彼女の顔を瞬きもせずまっすぐ見据えたまま、身じろぎ一つしない。おそらく日可理の術にかかって、動けないのだろう。
竜介は心中で舌打ちした。
次の瞬間、彼は泰蔵と日可理の間に入り、彼女の右手首を掴んでいた。刃は、泰蔵の左肩に突き刺さる寸前で止まり、ややあって、彼女の手を離れた。
カツン、という硬い音を立てて地面に落ちた短刀を、身体の自由を取り戻した泰蔵が拾い上げる。
と、葉擦れのような音と、迦陵の気配が遠ざかっていくのを、竜介は背中で感じた。
両肘を砕かれた迦陵に、もはやその刃を振るう術はなかったらしい。
複雑な安堵が彼の胸に去来した。
危難は去った。が、同時に、紅子を失ってしまった――おそらく、永遠に。
「久方ぶりに、たいそう愉快だったぞ……」
日可理を操る男の声が嘲笑った。
「礼として我が名を教えてやろう……我こそは黒珠の王、龍垓(りゅうがい)。見知りおけ……」
そう言い終えると。
日可理はうつろな目を閉じ、その場に力なくくずおれた。
まさに、傀儡の糸が切れた人形のように。
悪夢のような宵だった。
けれど、竜介にも泰蔵にも、喪失の痛みに浸る暇が与えられることはまだなかった。
どこかで携帯電話の呼び出し音が鳴っていることに彼らが気づいたのは、例の忌々しい呪符を剥がすため、結界石のそばに来たときだった。
泰蔵が「お前か?」というように竜介を見たので、彼はかぶりを振る。
竜介はその背中に日可理を背負っていた。
いつまた黒珠に操られて暴れるかわからない状態だから、紺野邸に連れて行くことはできないが、こんなところに放り出しておくわけにもいかない。志乃武には追々連絡するとして、ひとまず泰蔵の家で様子を見ることに決めたのだった。
泰蔵はとりあえず呪符を剥がし、結界を復旧させると、音が聞こえてくる辺りを見渡した。
周囲が暗いおかげで、呼び出し音に合わせて発光する物体はすぐ見つかった。
結界石からほど近い草むらに落ちていたそれを泰蔵が拾い上げると、竜介はハッと息を呑んだ。
「涼音の携帯です」
なぜ、こんなところに?
おそらく同じ疑問が同時に二人の脳裏をよぎったが、その答えを探るには、彼らは疲れすぎていた。
泰蔵は代わりに携帯のフリップに表示されている名前を読み上げた。
「虎兄……虎光くんかな?」
通話ボタンを押したとたん、携帯から離れている竜介にまで、虎光の怒鳴り声が聞こえてきた。
『涼音、今どこだ!?心配したんだぞ!!』
泰蔵は苦笑しながら送話口に向かって言った。
「あー……すまんな、わしだ、泰蔵だよ。涼音ちゃんならわしの家だ」
とたんに虎光の声は通常のボリュームに戻り、恐縮と当惑が入り混じったそれに変わった。
『も、申し訳ありません、師匠!大変失礼しました!あの、でもどうして涼音がそちらに?というか、どうして師匠が涼音の携帯を……?』
「実は、結界が破られてな……涼音ちゃんは黒珠に人質にされたんだ。……いや、無事だ。
……うむ、怖い思いをしたと思うから、あまり叱らんでやってくれ。
ときに、そちらは何事もなかったかね?」
『こちらは特に何も……じゃあ、涼音は今、そこにいるんですね?』
泰蔵は一瞬ためらってから、答えた。
「いや、ここにはいない。わしと竜介は今、うちから一番近い結界石にいるんだ。この携帯は、そこに落ちとったんだよ……。
……あいにく、理由はわしらにもわからん。詳しいことは本人から聞いてくれんか。あとで鷹彦に送って行かせるよ」
『全員無事なんですよね?』
虎光が念押しするように尋ねた。
『……紅子ちゃんも?』
泰蔵はしばし答えをためらった。
長い夜になりそうだ――そう思いながら。
2023.2.12改稿
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