第百二十二話「心の迷宮・23」


 翌日もまた、雨が降っていた。
 叩きつけるような雨ではない、霧雨である。
 柔らかな、けれど氷のように冷たい雨だった。


 紅子が連れ去られてしまったあと――
 竜介は伽陵が溶け込むようにして消えていった闇をしばらく、ただ呆然と眺めていた。
 全身から力が抜け、今にもその場に膝をついてしまいそうになるのを、必死でこらえながら。
 どれくらいの時間、そうしていただろう。
「竜介……」
 不意に背後から聞こえた、小さな声。
 今にも消え入りそうな少女の声に、彼は弾かれたように振り返る。
 しかし――
「涼音」
 そう、そこに立っていたのは、涼音だった。
 わかりきっていたはずだった。紅子はもう、ここにはいない。
 いったい自分は何を期待したのだろう――聞き慣れた妹の声を間違えるほどに。
 竜介はひそかに息を吐いた。
 紅子を失ったことを実感したからか、それとも、涼音が無事だったことへの安堵からか、自分でもわからないまま。
 薄闇に浮かび上がる涼音の小さな顔は、明かりがなくてもわかるほど、泥で汚れていた。
 おそらく、髪も服も同じように泥だらけに違いない。
 断続的にしゃくりあげているところから、泣いているらしいこともわかる。
 力とは無縁の、普通の少女。
 暗闇の中、あんな怪物を目の当たりにしてさぞ怖かったことだろう。
「涼音」
竜介はもう一度、妹の名前を呼んだ。できるだけ柔らかな声で。
「おいで」
 お前だけでも無事でよかった――そう言おうとした。もう大丈夫だよ。
 紅子を奪われたことは、痛い。痛すぎた。
 だから、今はせめて涼音が無事だったことを喜びたかった。
 小さな温もりを腕の中に感じて安堵したかった。
 そうでもしなければ、痛みで心がまひしてしまいそうだった。
 だが、涼音はぴく、と身体を震わせたきり、こちらへ近づこうとしない。
 いつもなら、子犬みたいに飛び込んでくるのに――
 竜介が首をかしげた、そのとき。
「ごめ……んっなさ……ひっ」
涼音が言った。
「ぅっ、こん……なこっ……なるっ……て、おもっ、おもわ……っ」
 最初、竜介は相手が何を謝っているのかわからなかった。
 「こんなこと」。「こんなこと」って何だ?
 と――
 何かに見つめられているような気がして、彼は視線を転じた。
 そこには、八番目の結界石。
 その表面には、黒々とした墨書が貼られている。結界をうち消す呪力を秘めた紙片。

 まさか――?

 わきあがる疑念を懸命にうち消しながら、竜介は手をのばし、おもむろに紙片をはがした。
 結界の術圧が戻る。軽いめまいに似た感覚。
 護るべきものは、もはやここにいないというのに。
 墨書から漂う力の気配は、白鷺家のそれだ。とすれば、書いたのは日可理だろう。
 だが、実際にこれを貼ったのは――
 彼は涼音に視線を戻した。
 この世ならざる異形の生き物のことなど何も知らない少女。
「お前、か……?」
 竜介は静かに尋ねた。
 否定してくれ。
 違うと言ってくれ。そう祈りながら。
 しかし。
 兄からの問いかけに対し、涼音はただ、わあっと声を上げて泣き崩れた。
 言葉はない。けれど、それだけで充分だった。

 目の前で、涼音が声を上げて泣いている。
 いつもなら、すぐにでも抱き寄せてあれこれなぐさめてやったに違いない。
 髪や肩を撫でながら、泣いている理由を聞いてやり、優しい言葉をかけていたはずだ。
 それなのに、そのときは、それができなかった。
 この世でたった一人の、可愛い大事な妹――の、はずなのに。
 何も心に浮かばなかった。
 愛しさも、哀れみも、何も。
 まるで、雨が全てを冷たく凍らせてしまったかのように。


 そこから先のことを、竜介はよく憶えていない。
 誰とどんな話をしたのかさえ定かではない。
 虎光は携帯で呼ばれて頭に傷を負った鷹彦を迎えに行ったと言うが、そう言われればそうだったかなと思うだけだ。
 それなのに、見聞きした情報だけはしっかり頭に蓄積されているらしい。
 鷹彦と涼音、日可理の三人とも精密検査を受けたが、鷹彦は軽い脳しんとうと擦り傷、涼音も膝に軽い擦過傷があったほかは何も異常がなかったことや、今日の午後に志乃武が日可理を迎えにこちらへ来ることなどは憶えているのが自分でも不思議だった。

 外が薄明るくなっているのをみて、夜が明けたことを知った。
 英莉や虎光から少しでも眠ったほうがいいと言われて布団に入ったものの、目を閉じると意識を失った紅子の青白い顔が浮かんで眠ってなどいられず、気がつくとここに来ていた。
 あの月の夜――
 紅子が姿を現した、背の高い常緑樹のそばに。
 雨が、冷たい。
 細い銀色の針のような雨が、傘を持たない竜介の髪を、肩を、容赦なく刺す。
 彼は寒さに身震いを一つして、
 そういえば、今、何時くらいだろう――
 そんなことをぼんやりと思った。
 空は薄灰色に曇り、朝とも夕暮れともつかない。あいまいで精彩を失った世界。
 もしももう昼近くなら、志乃武たちが来る前に身支度を整えておかなければ。
 そう思ってから、ふと苦笑する。
 もうすぐ世界が終わるというのに、日常から離れられない自分がなんだか滑稽だった。
 と、そのとき。
 背後から、耳慣れた声が彼を呼んだ。

「竜介さま」

 ゆっくりと振り返る。日可理がそこにいた。

2010.03.12


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