第百二十一話「心の迷宮・22」


 少女の姿をした死に神はそう言って、自らの背後をあごで示した。
 ようやく乾きかけていた背中に、また冷たい汗がにじむのを竜介は感じた。
 紅子がこんなところにいるはずはない。
 彼は相手の動きを警戒しながら、示された方向を一瞥する。
 そこには、悪夢が待っていた。

 小柄な黒衣よりもはるかに巨大なその影を、竜介は最初、樹の影かと思った。
 しかし、あんな場所に大木などあっただろうか――
 かすかな異臭が鼻を突く。獣くさいにおい。
 いったいどこからだろう。
 そういぶかしんだ、そのとき。
 のそり――影が動いた。
 影には、脚があった。
 ヒトと同じ、二本脚。だがその形は醜く湾曲し、ヒトのそれにはまるで似ていない。
 薄闇を透かして見るその脚の表面に毛皮は見えず、代わって金属のような、奇妙なつやがあった。
 竜介はそろそろと視線をあげていく。
 その生き物を衆知の他の生物にたとえるとすれば、誰もがサルを選んだだろう。
 それは体長四、五メートルはあろうかという巨大な類人猿だった。
 ただし、その全身を覆うのは密集した毛ではなく、鋭くとがった鱗のようなもの。
 がっしりと発達した肩の上はすぐ頭で、首はほとんどない。
 横に広がった鼻と口は前に大きくせり出し、同じく張り出した額がその下にある眼窩に深い影を作っている。
 それなのに、獣の黄色く濁った目がたしかにこちらを見ているとわかるのは、それがぎらぎらと光を放っているからだ。
 獣は口元を大きくゆがめてこちらをあざけるように歯を見せたかと思うと、肩からのびた二本の長い腕のうち、片方をこれみよがしに竜介の眼前に突きつけた。
 その巨大なこぶしに握られているもの。
 それが何なのかを認めたとたん、竜介は全身から血の気が引くのを感じた。

 それは、紅子だった。

「紅子ちゃん!?」
 竜介は絶叫に近い声が自分ののどから出るのを他人事のように聞いていた。
 紅子の耳に届かないはずはない。
 なのに、彼女の身体は胸から上を巨大な猿人の指にくったりとあずけたまま、動かない。
 薄闇の中で、血の気の失せたその顔が不吉なまでにしらじらと浮かび上がって見える。
 一緒にいた鷹彦はどうしたのか。
 いったい何があって、こんなことになってしまったのか。
 答を与えられることのないさまざまな疑問が、めまぐるしく彼の脳裏に現れては消える。
 まさか、紅子はもう――
「安心せよ。気を失っているだけだ」
竜介の心中を見透かすように、黒衣の死神は言った。
「なるべく傷つけず、生かしたまま連れて来るようにというのが我が主上の命ゆえ」
 何のために?
 そんな疑問を言葉にする余裕さえ、そのときの竜介にはなかった。
「彼女を放せ!!」
 叫ぶと同時に彼の身体は大きく跳躍していた。
 感情が金色のスパークとなってほとばしり、闇にまばゆい軌跡を残す。
 怪物の鱗状の外皮は固そうだが、それでも急所にじかに雷撃を加えればダメージは免れないはずだ。
 竜介は空中で身体をひねり、猿人の延髄めがけて蹴りを叩き込んだ。
 カミソリのように鋭く弧を描く脚。逃れようのない、一撃必殺の攻撃。
 ところが。
 次の瞬間、それは空を切っていた。
「なっ……!?」
竜介は我と我が目を疑った。
「……んだと!?」
 着地を決めたあと、彼は敵の姿を改めて見た。
 紅子の姿も、彼女をとらえている巨大な怪物の姿も、たしかにそこにある。見えている。
 ではなぜ、今の攻撃はかすりもしなかったのか。
 竜介は試しに手をのばして、紅子に触れようとした。
 化け物は紅子を捕らえた拳を突きだしたまま、彼から遠ざけようともしない。
 まるで、彼には触れることができないとわかっているかのように。
 そう、竜介は紅子に触れることができなかった。
 手が突き抜けてしまう。実体がないのだ。
「いったいどうなってんだ……!?」
 呆然とする竜介の耳朶を、冷ややかな声が打った。
「それは影だ」
 振り向くと、先とまったく同じ場所に黒衣の死に神は立っていた。
 折れそうに細い両腕を胸の前で組み、先と同じ無表情のままで、それは言った。
「実体はもはやここにはない」
「てめぇ……!!」
 竜介は憤怒の形相で黒衣の少女をにらみつけると、衝動的にその白い顔めがけて拳を叩き込んでいた。
 だが、伽陵は背後へ大きく跳び、その一撃をかわす。
「待ちやがれっ!!」
 叫び、追いすがる竜介。
 こちらの攻撃をかわすということは、伽陵には実体があるということに他ならない。
 立て続けに繰り出す攻撃はしかし、ことごとくかわされていく。
「やめておけ」
何の感情も交えない声で伽陵は言った。
「それ以上踏み込めば、命はないぞ」
 そう言われてようやく、竜介はハッとして足を止めた。
 足下から細かな雨粒が吹き上げてくる。
 見下ろした先には、真闇が広がっていた。靴の下で崩れた砂粒が、ぱらぱらと闇の底へ吸い込まれていく。
 あともう数センチ足を踏み出していたら――そんな想像が脳裏をよぎり、背筋が寒くなる。
「なぜ……」
竜介は絞り出すように目の前の小さな黒衣に言った。黒衣の足下には闇の他に何もない。彼女は空を踏んで立っている。
「なぜ、俺を助けた」
 死神に命を救われるなんて、とんだ皮肉だ。
 が、黒衣の少女の返答は、
「助けたつもりなどない」
だった。
 能面のように変わらぬ無表情のままで、死神は続けた。
「炎珠の神女を失った貴様らなど、もはや我が敵ではない。そういうことだ」
 露骨にこちらを愚弄する言葉。
 だがそのときの竜介にはそれに反応している余裕がなかった。
 言葉とともに黒衣の輪郭があいまいになり、闇にのまれ始めたのだ。
 竜介は慌てて振り返り、あの巨大な猿人の姿を探した。
 ない。紅子も、彼女を捕らえている異形のサルも、もはやどこにも見当たらない。
「せいぜい大事にすることだ……」
抑揚のない、冷ややかな声が空を舞う。
「残り少ない命を……」
 今や闇に浮かぶのは死神の白い顔ばかりになっていた。
「待て!!」
竜介はぼやけていく白い顔にむかって叫んだ。
「紅子ちゃんを……あの子を返せ!!」
 だが、無表情な死神はもはや何も答えず――
 やがて、その姿は竜介の悲痛な叫びとともに闇に溶け、消えたのだった。

2010.03.06


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