第百二十一話「結界消失・5」
最初は、空中にぽっかりと口を開けた闇が、二つに分かれたように見えた。
片方は卵型、もう片方は――人の形に。
豊かな漆黒の巻毛に縁取られた白い顔は、首から下に同じく漆黒の鎧をまとっているため、闇の中で小さく浮いて見えた。
堂々とした長躯の、それは男だった。
秀でた額と頬骨、すっきりとした鼻梁、引き締まった顎――ギリシャ彫刻のように完璧なバランスで整えられたその美麗な容貌は、しかし、彼の全身から放たれる闇の気配と、闇よりもなお昏い、狂気を孕んだその瞳によって、見る者に底冷えのするような恐怖を与えた。
鷹彦は彼が現れた瞬間、気温が十数度下がったような気がした。
だが、それは気のせいではなかった。
吐く息が、白い。
足が震えるのは、寒さのせいだけではなさそうだが――
首筋がびりびりと痛む。これまで感じたことのない痛みだ。
生まれて初めて、今すぐこの場から逃げ出したいと思った。
逃げ出さなかったのは、紅子の前で恥をかきたくないというプライドと、涼音が腕にしがみついていたからだった。
その涼音も、今さっきまで泣いていたのが嘘のように静かだ。
恐怖からか、それともその美しさに圧倒されているのか、まるで魅入られたように男を見ている。
迦陵の動きを警戒していたはずの泰蔵でさえ、こちらに注意を奪われがちになっている。
周囲を圧倒する、この存在感。
――何者なのか。
鷹彦がそう訝ったとき、視界の端で迦陵がその膝を折り、言った。
「主上」
男はそれに対し、ふむ、と鼻を鳴らしただけで、紅子の方へ一歩、踏み出した。
鷹彦は、男が自分や紅子と同じ<壁>の中にいることを思い出し、急いで<壁>を消す。
すると、それを待っていたかのように、紅子は大きく斜め後方へ跳躍した。
「紅子ちゃん!?」
再度<壁>を作るつもりだった鷹彦は、驚いて彼女を呼んだ。
紅子の移動先は、男や迦陵と間合いを取るには最適の位置だったが、鷹彦や泰蔵とも距離が開いてしまう。
戻れ、と言おうとした。
が、振り返った紅子の顔――正確には、その目――を見た瞬間、声が喉に引っかかったまま、出てこなくなった。
闇に輝く、赤い瞳と、奇妙に感情の消えた顔。
まるで、見知らぬ少女のような――
と、そのとき、視界の端で男が動いた。
鷹彦はとっさに自分と涼音、それと泰蔵を囲む風の<壁>をめぐらせたが、男はこちらには目もくれず、紅子の方へ滑るように動く。
迦陵もまたそれに習い、紅子の背後に回り込む。が、紅子のほうが一瞬速かった。
普段とは明らかに違う、獣じみた身のこなしで、彼女は二人の黒珠の包囲を突破すると、そのまま夜の奥へと姿を消したのだった。
紅子は闇の中を疾駆していた。
どこへ向かっているのかは、わからない。
わかるのは、すぐ後ろにあの黒い鎧の男がいて、自分は逃げなければならない、ということだけ。
自分の意志とは無関係に、ただ身体が勝手に動く。飛行場のときと同じだ。
視界がめまぐるしく変わり、突然目の前に太い樹幹や岩が現れたかと思えば、次の瞬間には消えている。
怖くて目を閉じたいが、それさえできない。
背後の強烈な気配に、首筋がひりつく。
男はおそらく、その気になれば今すぐ追いついて、紅子を殺すことなど造作もない。
それなのに、一定の距離を保って追跡をついてくるのは――
疲れてスピードが落ちた頃を見計らい、狩りを楽しむつもりか。
男の他に追ってくる気配がないところを見ると、迦陵は泰蔵が引き止めているのだろう。
もしかすると、逆に泰蔵は紅子を追うつもりが、迦陵に足止めを食らっているのかもしれない。
いずれにしても、一人でこの状況をどうにかする必要がある。
直接対決は、彼我の力の差がありすぎて不可能。
なら、体力が尽きる前にどうにかして捲くか――
と、そのとき。
紅子は、自分の身体が何度か突然の跳躍や進路変更などを複雑に繰り返しながら、どこへ
向かっているか気づいて、一筋の光明を見た気がした。
碧珠の魂縒のときに通った、結界石のある場所。
竜介は、泰蔵の家から一番近い結界石へ行ってみると言って出て行ったのだ。
背後から迫る圧倒的な力の気配の持ち主を、竜介がどうにかできるという根拠などない。
ただ、自分一人だけよりは二人のほうがいい。
紅子の身体はにわかに速度を上げ、追跡者を引き離す。
二人なら――もっと正確に言えば、竜介となら――どうにかなる。
根拠のない直感。だが、紅子はそれを信じた。
竜介の気配をめがけて、闇の中を進む。
木立が途切れ、紅子は見知った場所に出た。
空から降り注ぐ星あかりに、闇が薄らぐ。
竜介は、たしかにそこにいた。
だが、紅子は彼の名前を呼ぶことはできなかった。それは喉の奥に張り付いたまま、声となることはなかった。
彼は一人ではなかった。
そこには日可理がいて――
二人は、口づけを交わしていた。
※※※
日可理の一連の行為は、竜介をまったく混乱させていた。
なぜ彼女がこんなところにいるのか、なぜ結界を復活させる邪魔をするのか、なぜ――
かすかに黒珠の気配がするのか。
際限なく湧き上がる疑問。
とりあえず、何とかして術を解かなければ――
焦る彼を、日可理はさらに恐怖の中へ突き落とした。
歯列を割って、何かが口の中に侵入してきたのだ。
それは舌よりも小さく平たく、無味無臭だが、気味の悪いぬめりがあった。
得体のしれない物が、うねうねと蠢きながら喉の奥へすべりこんでいく感覚に、ぞわりと肌が粟立つ。次いで首筋に走る痛痒感と、猛烈な吐き気。
と、そのとき。
木立の奥から、忽然と人の気配が出現した。
草木を揺らすことなく現れたその気配の主が誰であれ、竜介の助け手となったのは確かだった。
その瞬間、気配に気を取られた日可理の術への集中が乱れ、彼を縛っていた力がゆるんだのだ。
発作的に日可理を突き飛ばすと、術による縛りが完全に解けた。
小さな悲鳴と、どさっ、という何かが地面にぶつかる音。
だが、彼にはむろんそちらを振り返る余裕などない。
力を使うまでもなく、彼の胃は痙攣じみた拒否反応とともに、食道に入り込もうとしていた正体不明の異物を逆流させた。
地面にできた小さな胃液だまりでうごめくそれは、一見して小さな魚のようだった。
黒い鱗をぬめぬめと光らせながら、いまだ息絶えることなくのたくっている、細長い、正体不明の生き物。
彼は口の中に残る不快な感触や胃液の味を消そうと唾液を吐き、口元を手の甲でぬぐいながらそれを踏み潰すと、周囲の闇に視線を巡らせた。
自分を救ってくれた気配の主がいたはずの場所に。
そのとき、
「どうしても、わたくしのものにはなってくださらないのですね……」
背後から、日可理の弱々しいつぶやきが聞こえたが、彼の心は自身でも驚くほどひんやりと静かだった。
否、彼の心はそのとき、実際には激しく波立っていた。ただそれが、日可理のことではなかっただけだ。
彼は、気配の主が鷹彦か泰蔵であることを期待していた。
しかし――
闇の中で見つけたのは、その両者のうちの誰でもなかった。
地面に倒れ伏している、小柄な人影。
紅子だった。
「紅子ちゃん!?」
竜介は驚いて叫んだが、返事はない。意識を失っているらしい。
彼は小さく舌打ちすると、急いで彼女に駆け寄ろうとした。
いつから見られていたのだろう。日可理との関係を誤解しただろうか。
いや、それよりもなぜたった一人でこんなところに?鷹彦と泰蔵は何をしているのか――
焦燥が彼の視野を、思考を狭める。
彼はもっと警戒するべきだった。怪しむべきだった。
なぜ、あの小さな怪魚を吐き出した今も、まだ首の後ろがひりつくのか。
なぜ、こんなに息が白く、凍えるように寒いのか。
肌が粟立つのは、この突然の寒さのせいだけなのか。
紅子の白い顔が、すぐそこに見えていた。かすかに眉をひそめているように見えた。
その細い身体に、あともう少しで手が届くと思った、そのとき。
見えない力が、竜介を弾き飛ばした。
2010.03.06
2022.06.04
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