第百二十話「心の迷宮・21」


 見るな。
 そう叫びたかった。木立の中に隠れてこちらを見ているはずの紅子にむかって。
 これは俺の意志じゃない。
 だが、心の中でいくら叫ぼうと、相手には聞こえない。
 日可理の意味不明な行為に対する当惑、何とかして術を解かなければという焦り――それだけでも混乱している竜介を、日可理はさらに恐怖の中へ突き落とした。
 歯列を割って何かが口腔に侵入してくるのを、彼は感じた。
 舌よりも小さく平たい、得体の知れない物。
 それが、ぬるりと喉の奥へすべりこんでいく。
 背筋の毛がぞわりと逆立つ――と同時に、首筋に走る激しい痛痒感。猛烈な吐き気。
 次の瞬間、気がつくと竜介は日可理を力任せに突き飛ばしていた。
 小さな悲鳴と、泥の中に倒れ込むような音が聞こえた気がしたけれど、相手の様子を確かめる余裕もない。
 胃の中からせりあがってくるものがあり、彼は身体をくの字に折り曲げて、食道に入り込もうとする正体不明の異物もろともそれを吐き出した。
 空気を求めてあえいだせいで胃液の一部が気管に入ってしまい、ひどく咳き込んだ。
 どうにか咳が落ち着き、ぬかるんだ地面に目を落とす。
 日可理が自分に飲ませようとした異物の正体を確かめるために。
 それは一見して魚に似ていた。
 黒い鱗をぬめぬめと光らせながら、いまだ息絶えることなく泥の中でのたくっている、細長い生き物。
 ただしそれには、えらもなければひれもない。眼窩の部分はうつろにくぼんでいるだけ。
 こんな物が一度でも自分の口に入ったのかと思うと、おぞましさに全身が総毛立つ。
 嫌悪をこめて異形の生物を踏みつぶすと、雷電が走り、じゅっ、という音とともに足下の生物は黒こげになった。
 このときにしてようやく、竜介は自分が無意識のうちに力を使っていたことに気づいた。
「どうして……」
 弱々しい声が聞こえた。
 視線を合わせないように声の主の様子をうかがうと、彼女は泥の中に座り込んだまま、驚きや悲嘆がないまぜになった表情でこちらを見ていた。
 あれほど微動だにしなかった身体が、なぜ今になって動かせたのか――日可理が自ら術を解いてくれたわけではなく、竜介の力が彼女のそれより強かったから、術を破ることができたということのようだ。
「どうして?」
彼は舌に残る胃液の味とともに不快な感触をも消そうとするかのように、ペッと唾液を吐き、口元を乱暴に手の甲でぬぐう。
「それはこっちのセリフだぜ」
 もっと早く力を使っていれば、こんなややこしい状況にはおちいらずに済んだのだろうか。
 そんなことを今さらのように思う。
 紅子と鷹彦の誤解をどうやって解こう?――いや。
 彼はかぶりを振った。
 それよりも今は、まず結界石の呪符をはがさなければ。
 だが――
 そのとき、彼に――あるいは「彼ら」に――与えられた時間は尽きた。
 辺りに響き渡った鋭い悲鳴が、それを告げていた。
 悲鳴が紅子のものだと気づくのに、そう長くはかからなかった。
 竜介は舌打ちしながら急いできびすを返した。彼女と鷹彦のところへ戻るために。
 しかし、その行く手を日可理がさえぎっていた。
「ケガをしたくなかったら、そこをどいてくれ」
 自分でも驚くほど剣呑な声。
 彼の感情の高ぶりを示すように、金色の小さな稲妻がせわしなく火花を散らす。
 日可理はその輝きから目をそらしながら言った。
「どうしても、わたくしのものになってはくださらないのですね……」
 まだそんなことを言っているのか。
 思わず怒鳴りそうになるのを、竜介は唇をかんでこらえた。
 今ここにいる日可理はいつもの彼女ではないのだ。おそらく彼女は黒珠に支配されている。
 どうにかしてやりたいのはやまやまだが、方法がわからない上に、今は時間もない。
 竜介は日可理を黙殺して、その脇を足早にすり抜けようとした。
 彼が身にまとう雷電はそのとき最小限の出力しかなかったが、その輝きを正視することさえできない今の日可理にこちらの動きを制することなどできないはずだ。そう高をくくっていた。
 ところが。
 日可理は思わぬ行動に出た。
 竜介の腕に、いきなりしがみついたのである。
 バチッ、というスパーク音と同時に、日可理の小さな悲鳴が聞こえた。
 竜介は驚いて叫んだ。
「何するんだ!!」
 触れたとしても多少の電気的な衝撃を受ける程度で、やけどまではしない。
 しかし、そのときの日可理にはその衝撃がかなりの苦痛だったようで、彼女は苦悶の表情を浮かべ、額には玉の汗が浮かんでいた。
「放せ!」
 振り払おうとしても、日可理のしがみつく力が思いのほか強くてほどけない。
 雷電の出力を上げてケガをさせるわけにもいかず、ただ焦りがつのる。
「こんなことしてる場合じゃないんだ!頼むから放してくれ!」
「いやです」
彼女は弱々しい声で、しかしきっぱりと言った。
「この手を放したら……あなたは紅子さまのところへ行ってしまう」
 まるで話が通じない。
 竜介は焦りといらだちで目の前が暗くなる気がした。
 とりあえず、一つだけはっきりとわかったことがある。今の彼女は熱病か何かに浮かされた病人と同じで、何を言ってもムダだということだ。
「日可理さん、すまない」
 そう言った、次の瞬間。
 彼はその拳を日可理の柔らかなみぞおちめがけて強かに滑り込ませた。
 相手にやけどを負わせない程度に雷電を帯びた拳である。
 日可理は「ぐぁっ」と低くうめいて白目をむいたかと思うと、その赤い唇から何か黒い物をぞろりと吐き出した。
 ぼとり、と重い音を立てて地面に落ちた物を見れば、それは竜介がついさっき日可理に飲まされかけたあの異形の魚と同じ生物だった。ただし、こちらのほうがはるかに大きい。
 まだ宿主を求めるかのようにぴくぴくとうごめく闇の生物にとどめを刺して日可理を一瞥すれば、彼女は意識を失ったまま倒れ伏していた。
 ぬかるんだ地面に扇のように広がる、長いまっすぐな黒髪。泥がしみていく和服。
 それらを振り切るようにして駆け出そうとした、そのとき――
「どこへ行くのだ?」
 そんな声が、背後から聞こえた。
 少女のような声には不釣り合いな、重々しい口調。
 こういう話し方をする相手を、竜介はたった一人だけ知っていた。
 そして、首筋を刺激する強い痛痒感は彼の推測が残念ながら当たっていることを教えていた。
 ゆっくりと振り返る。
 いつからそこにいたのだろう。ほんの数メートル先に、見覚えのある小柄な人影があった。
 身体の線が出る黒衣をまとう、少女の姿をした黒珠――伽陵。
「久しいな。碧珠の男よ」
抑揚のない声が言った。
「炎珠の神女なら、ここにいるぞ」

2010.02.20


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