第百十七話「結界消失・1」


 同日、紅子たちが泰蔵の家に着く頃。
 涼音は紺野邸から見て南西の方角にある森にいた。
 電話の相手から渡された、なんだかわからない模様が描かれた紙を「石」に貼ってまわるためだ。
 本来ならまだ部活の時間だが、用事があるからと嘘をついて休んだ。
 「石」は六個もあるらしい。どれくらいの距離を移動することになるかわからないので、通学カバンなど余計な荷物は自室に置いてきたが、そのためにはちょっとしたスリルを味わわねばならなかった。
 家族――今、家にいるのは虎光と英莉だけのはずだ――に見咎められたとき、いつもより早く帰宅した理由についてうまい嘘をつける自信がないので、なるべく二人に出くわさないよう、庭を周って濡れ縁から自室に入ったのだ。
 再び無事、自宅の門を出たとき、涼音の心臓はドキドキと早鐘を打っていた。
 よく考えてみたら、こんなふうに家族の誰にも内緒で何かをする、ということが自分には今まで一度もなかった。
 誰にも知られてはならない、秘密のミッション。
 ややあって気持ちが落ち着いた頃、
 さて、ここからどこにどう行けばいいんだろう――
 そう考えた瞬間、見計らったように携帯に着信があった。
 見慣れた番号。
『最初は、一番楽な場所から始めましょう』
 そう言って、涼音が大嫌いないつもの声は、道案内を始めたのだった。
 まるで涼音が今まさに見ている景色が見えているかのように、的確な道案内。
 声の言う通り、最初の「石」は家からさほど遠くない平坦な木立の中にあって、すぐに見つかる「楽な場所」にあった。
 四つの側面に牙をむく怪物の顔が浮き彫りになった、気味の悪い石の柱。
 電話の声に言われるまま、封筒から出した和紙の短冊を一枚出してその石柱に近づける。
 すると、墨で模様が描かれた紙は、吸い付くように石柱に貼り付いた。
 そこには、涼音が知っている世界とは相容れない、異質な何かによる力が確かに存在していた。

 何か冷たく不快で、恐ろしい力が。

 涼音は得体のしれない罪悪感に襲われたが、電話の声に急かされて、気がつくと次の石柱の場所へと向かっていた。
 楽だったのは、この最初の一枚だけだった。
 残りの五枚を貼って回るのはかなり――いや、相当に骨の折れる仕事だった。
 石柱と石柱の間隔は、直線にしておよそ五、六百メートルくらい。全行程を足してもほんの三、四キロメートルというところなのだが――
 問題は、その間を結ぶ道が、密生する木々にほとんど埋もれた獣道だということだ。
 アップダウンの厳しさもさることながら、土から張り出した木の根に足を取られ、生い茂る枝が行く手を遮る。
 まるで森が、涼音に先へ進ませまいとしているかのように。
 晩秋の日没は早い。
 空にはまだ明るみが残っているというのに、木々に阻まれて日差しの届きにくい山中はどんどん暗くなっていく。
 街灯もない山の中で迷子になるなんて御免だ。なんとかして、真っ暗になる前にすべてを終わらせなければ。
 涼音は必死になって、文字通り道なき道を進んだ。
 つまづき転び、木の枝に引っかかれ、膝や頬に血をにじませながら。
 そして今――封筒の中に残っている和紙は、あと一枚。
 だが、もう辺りは暗く、足元が見えない。
 涼音は肩で息をしながら携帯に話しかけた。
「最後の一枚は、明日でもいいだろ?」

『だめよ』

 電話の声は冷たかった。
『一日延ばせば、その分、あの二人は今日より親密になるのよ』
 あなたはそれでいいの?

 涼音の脳裏を、紅子の顔がよぎる。
 竜介と見つめ合っていたときの横顔。
 彼のことが好きなのかと訊かれたときの、あからさまにむっとした顔。
 涼音はかぶりを振り、疲れた足を闇の中に踏み出した。
 こんなことで、本当に紅子を竜介から引き離すなんてできるのだろうか?
 そんな疑念が頭をもたげる。
 けれど、他に方策などあるはずもない。
 親密になっていく二人をただ眺めるしかない無力さをただ味わうより、たとえ気に入らなくとも、電話の声に唯々諾々と従うほうが、そのときの涼音にはずっとましに思えたのだ。
 自分のしていることの意味さえ知らずに。

 最後の石柱は、木立の中で埋もれていたこれまでのものと違い、ひときわ開けた場所にあった。
 石柱のそばは切り立った崖で、その向こうには街の灯がちらちらと瞬いている。
 が、疲れ切った涼音はそんな夜景などには目もくれず、石柱に近づくために、柵代わりに置かれている丸木を乗り越えて崖のほうへ出た。
 封筒から、最後の紙片を取り出す。黒々とした墨書。
 これでおしまい。家に帰れる。
 早く終わらせて、帰りたい。
 そう思うのに、なぜか身体が動かない。
『どうかなさって?』
 電話の声が言う。
 こちらを気遣っているのではない、いらついた声。
『早く終わらせておしまいなさいな』
 涼音は荒い呼吸を縫うようにして訊いた。
「ねえ、これって……本当に意味あるの?」
 一瞬の沈黙の後、相手はくすくすと笑いだした。
『今更、何を言うかと思えば……』
冷たい嘲笑。
『意味があるかどうかは、その最後の一枚を使ってみれば、すべておわかりになってよ』
 声の言う通りだった。
 涼音は手の中にある紙片に目を落とす。
 これで、わかるのだ。
 この一時間あまりの自分の行動に、意味があったのか否かが。
 それなのに、身体が言うことをきかないのはなぜだろう。
 してはいけないことをしようとしている――そんな気がする。
 山中を歩き回ったせいではない、もっと冷たい、いやな汗が背中を伝い落ちる。
『さあ』
 耳元で急かす声。
 本当に、いいの?
 自分の心に尋ねてみても、答えは返ってこない。
『早く』
 身体が震えているのは、冷え込んできたから。
 息が整わないのは、疲れているから。
 怖いからじゃない。怖くなんかない。
 涼音は心の迷いを振り切ろうとするかのようにかぶりを振ると、目の前の岩を見た。
 震える手を、ゆっくりとのばすと――
 最後の一枚が、手を離れ、その奇妙な石柱に吸い付いた。

 一秒、二秒。
 何も起こらない――目に見えるような、劇的な変化は、何も。
 拍子抜けした涼音が、思わずその場に座り込みそうになった、そのとき。

「ご苦労さま」

 すぐそばで、声が聞こえた。
 涼音は反射的に電話を耳に当てたが、それはすでに切れており、ツーという信号音だけになっている。
「あなたのすぐ後ろですわ」
 慌てて振り返って見れば、背後の雑木林から、声の主がまさしく姿を現すところだった。
「どうして……?」
 いつの間に。いつから、そこにいたの。
 そう尋ねようとした、涼音の声はしかし、そこで途切れた。
 姿を現した電話の相手。彼女は一人ではなかった。
 その背後の闇がふくれあがり、二つの影を生む。
 一つは涼音と同じくらいの、小さな影。
 それは昨日、封筒を渡しに来た黒衣の少女だった。
 そして、もう一つは――
 見たことのない、男だった。
 背が高く、黒い巻毛に縁取られた白い顔は、息を呑むほど美しい。
 それは黒い甲冑のようなものを着ている彼の出で立ちの異様さを、帳消しにして余りあった。
 が、涼音はなぜか、彼の美しさに凍てつくような恐怖を感じた。
 一歩、二歩と、思わず後退しようとして足下を確かめれば、地面はあとほんの数メートル先でぷっつりと途切れている。
 そこから先にはただ、闇が広がるばかり。
「なぜ逃げるの?」
 笑いを含んだ声がすぐ耳元で聞こえた。
 驚いて涼音が振り向くと、そこには大輪の白菊のように美しい顔があった。
 涼音の大嫌いな顔。
 それが光輝を放った瞬間――
 涼音の意識は、闇に飲み込まれてしまったのだった。

2010.02.01

2021.11.30改稿


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