第百十七話「心の迷宮・18」


 それよりも、少し前。

 竜介は自分の部屋で電話をかけていた。
 相手は黄根家の現当主――十四年前、日奈の葬儀の日に会った朋徳の妹だという初老の女性である。
 彼女は竜介が紺野の姓を名乗ると、
『黄珠の件ですね』
と即応した。
『兄からおおまかな話は聞いております』
 その話の通りの早さは、竜介が拍子抜けするほどだった。
 こちらは黄珠を借り受ける理由をどう説明しようかと考えあぐねながら電話したのに。
 彼女――久乃(ひさの)という名前らしい――の聡明さによるところもあるだろうが、朋徳の手回しの良さにも感謝せねばなるまい。
 彼女は電話の相手が十四年前のあの少年だとわかると、驚いた様子で、
『まあ、それはそれは……全然わかりませんでした。今、おいくつ?……二十五歳?そうですか』
と言ったあと、しみじみと続けた。
『あれは、悲しいお葬式でしたわねぇ……』
 とはいえ、昔話をするために電話をしたのではない。
 竜介は話の頃合いを見て、
「一両日中にそちらへ伺いたいのですが」
と、本題を切り出した。
 すると相手は意外な提案をしてきた。
『いえ。よろしければ、私がそちらへお持ちいたしましょう』
 竜介は驚いた。
 そうしてもらえれば、こちらとしては確かに願ったりかなったりではある。
 しかし、黄珠の気配をまき散らしながらの道中では、いつ黒珠の襲撃を受けるかわからない。
 それを、力のない、それも老女一人に任せることなどできるはずがない。
 ところが、
『そのことでしたら、ご心配には及びません』
と久乃は笑って言った。
『黄珠は今、兄が封術をかけた木箱に入れてありますから』
 そして彼女はこう続けた。
 誰も木箱を開けることはおろか、黄珠の気配を感じ取ることさえできないでしょう。
 竜介は密かに感嘆の息をもらした。
 なぜ、紺野家と白鷺家は黄珠を、朋徳を探し出せなかったのか――その理由が、こんなところにあろうとは。
 朋徳ほどの術者がかけた封術ならば、完璧に黄珠の気配を消すことも可能だろう。
 気配という唯一の手がかりを絶たれてしまっては、三つの御珠から魂縒を受けた今の紅子でも、黄珠の場所を特定できまい。
 大丈夫。黒珠が久乃の運ぶ黄珠を見つけだすことはありえない。
 ここはむこうの厚意に甘えておくか――
 竜介がそう思い、
「そういうことなら、ご足労をおかけしますが……」
お願いします、と言いかけた、まさにそのとき。
 エレベーターが下降するとき感じるような、ほんの一瞬の浮遊感。術圧が消失する感覚。
 それが彼に教えた。
 結界が消えたのだ、と。

『もしもし……もしもし?どうかなさったの?』
 いきなり黙り込んだ相手をいぶかしむ久乃の声に、竜介はハッと我に返った。
「すみません」
今は電話の相手に説明しているひまはない。
「またあとでこちらからかけ直します」
 早口にそれだけ言って携帯を切る。
 それをシャツの胸ポケットに滑り込ませながら廊下に出ると、ちょうど同じように自分の部屋から出てくる鷹彦の姿が 見えた。
 目が合うと、お互い無言でうなずきあう。
 こういうとき、説明の要らない相手というのは都合がいい。
結界石(けっかいせき)を見てくる」
竜介は言った。
「俺が出たら、お前は屋敷の周りに『壁』を作ってくれ。あと、紅子ちゃんのそばを離れるな」
 ふられたばかりの相手に貼り付くのはかなり気まずいものがあるだろうが、今はそんなことを言っている場合ではない。
 鷹彦もそれはわかっているのだろう、無表情に「了解」と答えて紅子の部屋へむかおうとする。
 と、その足が不意に止まった。
「彼女のほうからお出ましだ」
 鷹彦がそう言ってあごで示す先を見れば、廊下をこちらへほとんど駆け寄るようにやってくる紅子の姿があった。
 異変に気づいているのだろう、緊迫した表情。
「竜介。鷹彦」
彼女は二人のそばに来ると、息せき切って尋ねた。
「さっきのあの変な感じ、何?何が起きたの」
「結界が消えたんだよ」
と、鷹彦。
 そのあとを竜介が引き取り、紺野家の結界は「結界石」という八つの岩によって造られていることを説明した。
「その岩に何かあったってこと?」
 紅子の質問に彼は首肯した。
「たぶん。それを今から確かめに行ってくる」
「紅子ちゃんは俺っちと留守番な」
 鷹彦の言葉に彼女が一瞬、不満そうに唇をとがらせて何ごとか抗議しようとした、そのとき。
 それをさえぎるように、竜介の携帯が着信を告げた。
「んだよ、こんなときに……」
 舌打ちしながらフリップを開いて液晶を見る彼の顔に、わずかに驚きの色が浮かぶ。
 鷹彦が訊いた。
「誰?」
「日可理さんだ」
 そう答えて通話ボタンを押す。
 行方が知れないという彼女から、まさかこのタイミングで連絡が入るとは。これはいったい、どういう偶然だろうか。
 視界の端では、紅子が不安そうな顔でこちらを見ている。なぜそんな顔をするんだろう――
 だが。
 電話から聞こえた声を聞いたとたん、その疑問は頭の片隅へ押しやられてしまった。
『竜介さま……』
 いつになく張りのない、か細い声。
「日可理さん?今どこ?志乃武くんが心配してるよ」
 彼女はしかし、竜介の質問に何一つ答えることはなかった。
 ただ一言、今にも途切れそうな声で、彼女は言った。
『助けて……たすけて、ください……』

2010.02.01


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