第百十八話「心の迷宮・19」


 気が付くと薄暗い林の中にいて、そばに涼音が倒れていた――と、日可理はかすれた弱々しい声で言った。
 彼女が涼音を起こすと、いったんは意識を取り戻したものの、また気を失ってしまったらしい。
 竜介は心臓の拍動が早くなるのを感じた。
 学校からまだ帰宅していない妹。
 それが今、どういうわけか日可理と一緒にいる。しかも、意識を失って。
「今、どこにいる?」
 先に訊いたのと同じ質問。今度はちゃんと返答があった。
『裏山です……紺野家の』
 日可理の声が言った。
 涼音が再び意識を失う前にそう教えてくれた、と。

 薄闇の中を、竜介はできる限り早足で歩いていた。
 降り続く雨のせいで足下は相当悪い。
 ぬかるみに足を取られないよう、先をライトで照らしながら進むのは骨が折れた。
 気ばかり焦ってなかなか距離をかせげない。が、そのおかげで彼のあとに続く紅子と、彼女のフォロー役である鷹彦との距離があまり開かずにすんでいた。

 白鷺の娘には、気を許すな――

 屋敷を出てからずっと、黄根老人から言われた言葉が頭の中でぐるぐると回っている。
 紅子を一緒に連れて来たことは、果たして正解だったのだろうか。

 遠く離れた青森の白鷺邸から行方知れずになった日可理が、なぜ、この屋敷の敷地にいるのか。
 しかも、涼音と一緒に。
 涼音は日可理を嫌っていたはずだ。なのになぜ、どうして――
 何かの罠か。日可理の言葉を本当に信じていいのか。
 しかし、電話から聞こえた彼女の憔悴し疲れ切った声は、演技やうそとは到底思えなかった。
 彼女たちの位置を特定するため、周囲に何か目印になる物はないかと竜介がたずねると、「少し開けた場所で、大きな岩がある」という答えが返ってきた。
 それだけで彼にはそれがどこなのか見当がついたが、念のため自分の部屋のラップトップから涼音の携帯GPSにアクセスしてみる。
 幸い、彼女の携帯は生きていた。
 私有地だからマップは出ないけれど、航空写真と重ねてみれば――思った通り、八番目の結界石がある場所だ。
 涼音が日可理と一緒にいるというのは、どうやら真実らしい。
 八番目の結界石。あそこはたしか、すぐそばに崖があったはず。
「今からそっちに行く」
竜介は急いで送話口にむかって言った。
「今いる場所を絶対に動かないでくれ。危ないから」
 電話を切ると、待ちかねたように鷹彦が訊いた。
「日可理さん、どうかしたのか」
「裏山の、八番目の結界石の近くに涼音といるらしい」
 竜介が答えると、案の定、紅子と二人して
「ええっ、なんで?」
「いつの間に?」
「どうやってここまで?」
という質問の雨を降らせてくる。
 竜介は玄関にむかって歩き出しながらイライラと言った。
「俺が知るか!それを今から訊きに行くんだよっ」
 玄関に着いたとき、それまで黙って後をついてきた紅子が口を開いた。
「あたしも行く」

 紅子を連れて行くなどとんでもない、と最初は思った。当然だ。
 日可理がうそを言っているとは思わないが、結界が消えたとたんに彼女からの電話がかかってきたという、奇妙な符丁がどうしても気になる。
「何が起きるかわからないのに、連れていけるわけがないだろう」
 そう一蹴すると、鷹彦が口を挟んだ。
「何が起きるかわからないのは、ここにいても同じなんじゃねーの?」
 一瞬、こいつは何を言い出すのかとにらみつけると、相手はばつが悪そうに目をそらし、
「だからさ、白鷺さんとこであったみたいに、バラバラになってお互いどうなってんのかわかんねー状態になるよりは、固まってたほうがいいんじゃないかって話。むこうの目的は俺たちにまた別行動させることかもしんないだろ」
 聞いてみれば、たしかに一理ある。
 少なくとも、紅子のご機嫌をとるためだけの発言ではなさそうだ。
「わかったよ」
  竜介は弟と紅子の顔を交互に見ながら言った。
「ただし、紅子ちゃんは鷹彦から絶対に離れるな」

 熟慮の末の判断とは言いがたい。
 だが、鷹彦の力や、これまで何度も生命の危機にさらされながらもどうにか無事にすんでいる紅子の強運を信じるならば、何かが起きたとしてもうまく切り抜けられるのではないか――
 そんな目算が竜介の中にはあった。
 かつての紅子が言った、「運も実力のうち」という言葉の通りに。

 夜になると山はその表情を一変させる。
 ましてや悪天候ともなればなおのこと、昼間の勝手知ったる裏山と同じ山とは思えないほど気むずかしく、人を寄せ付けない。
 何度かあやうく道に迷いかけたりしたため、目的地まで思ったよりも時間がかかってしまった。
 紅子たち二人には念のため木立の影に隠れているように指示してから、竜介は一人で結界石のほうへむかった。
「鷹彦、頼んだぞ」
 疎林を出る前に竜介が言うと、鷹彦からはいつもの調子で、
「ま〜かして」
 その軽い返事に苦笑してから、彼は紅子に向き直った。
「何度も言うようだけど、鷹彦のそばを絶対離れるんじゃないぞ」
 彼女はいつになく神妙な顔でうなずくと、言った。
「竜介も、気をつけてね」
 大丈夫。そう返す代わりに不安そうな彼女の肩を優しく叩いて、彼はそこを離れたのだった。

 ライトの中に浮かび上がる結界石には、紙が貼られている。
 その紙に描かれた紋様が呪的なものであることは、一見してわかった。
「いったい誰がこんな……」
 苦々しくそう一人ごちながら、目の前の呪符をはがそうと手を伸ばした、そのとき。
 突然、闇の中から二本の腕が現れ、彼をうしろから羽交い締めにした。

2010.02.08

2010.03.21一部改筆


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