第百十六話「心の迷宮・17」


 涼音は携帯で時刻を確かめた。
 青白く光る液晶画面に表示される、17:55という数字を見て、ため息をつく。
 封筒の中に残っている、あの奇妙な模様の描かれた和紙は、あと一枚。
 部活が休みの日だから早く始めれば明るいうちに終わるだろうと思っていたのに、かなり時間がかかってしまった。
 始めたときにはまだ薄明るかった空も、今はもうすっかり暗くなり、足下がおぼつかない。
 それでなくても、昨日からの雨でゆるんだ地面やぬれた落ち葉にすでに何度か足を取られ、お気に入りのスニーカーは泥だらけだ。
 もう家に帰りたい。
「ねえ」
涼音は携帯に話しかけた。
「暗くて足下がわかんないよ。あとの一枚は、明日でもいいだろ?」
『だめよ』
 電話の向こうから、優しい、けれどきっぱりとした声が言った。
 氷のような拒絶。
『あとたった一枚でしょう?終わらせなさい』
それとも……と、声は続ける。
『まだあの子のいいようにさせておくつもり?』
 涼音の脳裏を、紅子の顔がよぎる。
 竜介と見つめ合っていたときの横顔。
 彼のことが好きなのかと訊かれたときの、あからさまにむっとした顔。
 涼音は傘を握り直すと、
「わかった」
と、ぶっきらぼうに言った。
「じゃあ、さっさと教えろよ。次の石までは、どう行けばいいの」

 最初に「不思議な模様の刻まれた石」と聞いたとき、涼音には一つだけ心当たりがあった。
 それは邸内の庭のすみという庭石にしては目立たない場所に置かれた岩で、注連縄(しめなわ)が張られている。
 大きさは、涼音の背丈くらい。
 幼い頃、その上にのぼって遊んでいて、母親にたいそう叱られたことがあった。
「このお屋敷を守っている大事な石を足蹴にするなんて」
 落ちたら危ないなどということよりも先に、そう言われたのが印象に残っている。
 その岩にたしか、文字なのか絵なのかわからない奇妙な模様が刻まれていた。
 一つ目はまずこの岩で間違いないだろう――そう思い、涼音は帰宅してそのまま、屋敷の建物には近寄らずに庭へ迂回して一枚目の紙片を貼り付けた。
 岩は屋敷の建物からは離れた場所にあるから、家人に見とがめられることもない。
 「誰にも見られるな」と言われたわけでもないのに、なぜか見られてはいけないような気がして、涼音の心臓はドキドキと早鐘を打っていた。
 よく考えてみたら、こんなふうに家族の誰にも内緒で何かをする、ということが自分には今まで一度もなかったのだ。
 誰にも知られてはならない、秘密のミッション。
 まだ一枚目を貼ったばかりなのに、もうすべてクリアしたような気がして満足感にひたっていたとき。
 携帯が鳴った。
『早くしないと、足下が見えなくなりましてよ』
 いつもながら、いったいどこから見ているのかと思うような周到さで、電話をかけてきた声は言った。
『次の石の場所。教えてさしあげましょうか?』

 楽だったのはこの一枚目だけで、残り七枚を貼って回るのはかなり骨の折れる仕事だった。
 岩と岩のあいだは細いながらも道が通っている。
 その距離は直線にしてだいたい五、六百メートルといったところだから、大したことはない。
 そう、距離だけなら。
 問題は、その道がひどく険しいということだ。
 木立のあいだにほとんど埋もれかけた獣道のような心細い場所をたどるそれは、ハイキングというよりはトレッキングに近い。
 涼音はこのときほど、自分が陸上部で長距離をやっていてよかったと思ったことはなかった。
 そうでなければ、三個目か四個目くらいでばててしまい、あきらめて家に帰っただろう。
 実際のところ、彼女はこのミッションの決行を別の日にゆずってもよかったのだ。
 小雨のぱらつく薄暗い夕刻などではなく、明るく晴れた昼間、もっと山歩きに適した日に。
 けれど、途中でやめるのを電話の声が許さなかった。

 こんなことで、本当にできるのだろうか。
 紅子を竜介から引き離すなんて。
 ぬかるみに足を取られるたび、そんな疑念が涼音の頭をもたげたが、ではもっと良い策があるのかと訊かれれば、そんなものはない。
 親密になっていく二人を目にするよりも、電話の声に唯々諾々と従うほうが、そのときの涼音にはずっとましに思えたのだ。
 自分のしていることの意味さえ知らずに。

 最後の岩は、木立の中で埋もれていたこれまでの岩と違い、ひときわ開けた場所に置かれていた。
 岩のそばは切り立った崖。
 昼間なら眼下に紺野家の敷地を一望できただろうが、今はただ、闇がぽっかりと広がっているばかりだ。
 周囲に手すりさえない闇は、じっと見ていると吸い込まれそうで、涼音はできるだけ目をそらすようにして岩の前に立った。
 封筒から、最後の紙片を取り出す。黒々とした墨書。
 これでおしまい。家に帰れる。
 早く終わらせて、帰りたい。
 そう思うのに、なぜか身体が動かない。
『どうかなさって?』
電話の声が言う。こちらを気遣っているのではない、いらついた声。
『さあ、早く終わらせておしまいなさいな』
 これまでの行程ですっかり上がってしまった呼吸を整えながら、涼音は思いきって訊いた。
「ねえ。これって本当に意味あるの?」
 一瞬の沈黙の後、相手はくすくすと笑いだした。
『今更、何をおっしゃるのかと思えば』
 嘲弄するような、いやな笑い方。
 涼音は、かあっと頭に血がのぼるのを感じた。
「ボクのこと、からかってたら承知しない」
『あなたをからかって楽しむほど、わたくし、ひまではないつもりでしてよ』
心外だと言わんばかりに、電話の相手は言う。
『お疑いなら、その最後の一枚をお使いになってみればよろしいのですわ』
 声の言う通りだった。
 涼音は手の中にある紙片に目を落とす。
 これで、わかるのだ。
 この一時間あまりの自分の行動に、意味があったのか否かが。
 それなのに、身体が言うことをきかないのはなぜだろう。
 してはいけないことをしようとしている、そんな気がするのはなぜだろう。
 山中を歩き回ったせいではない、もっと冷たい、いやな汗が背中を伝い落ちる。
『さあ』
 耳元で急かす声。
 本当に、いいの?
 他に方法はないの?
 自分の心に尋ねてみても、答えは返ってこない。
『早く』
 身体が震えているのは、冷え込んできたから。
 息が整わないのは、疲れているから。
 怖いからじゃない。怖くなんかない。
 涼音は心の迷いを振り切ろうとするかのようにかぶりを振ると、目の前の岩を見た。
 震える手を、ゆっくりとのばし――
 最後の一枚が、その奇妙な模様の上に貼られた。

 一秒、二秒。
 何も起こらない。目に見えるような、劇的な変化は、何も。
 拍子抜けした涼音が、思わずその場に座り込みそうになった、そのとき。
「ご苦労さま」
 声が聞こえた。
 涼音は反射的に電話を耳に当てたが、それはすでに切れており、ツーという信号音だけになっている。
 では、どこから?
「こちらです」
また、声。今度は、かなり近くから。
「あなたのすぐ後ろですわ」
 慌てて振り返って見れば、背後の雑木林から、声の主がまさしく姿を現すところだった。
 ずっとあとをついてまわっていたのだろうか。
 それなら、電話などという回りくどいことをせずに、すぐそばで直接監視すればいいものを。
 驚きに次いで、怒りが涼音の胸にわきあがった。
「どうして……!」
 いつの間に。いつから、そこにいたの。
 そう尋ねようとした、涼音の声はしかし、そこで途切れた。
 姿を現した電話の相手。彼女は一人ではなかった。
 その背後の闇がふくれあがり、二つの影を生む。
 一つは涼音と同じくらいの、小さな影。
 それは昨日、封筒を渡しに来た黒衣の少女だった。
 もう一つは――
 小山ほどもありそうな、巨大な影。
 薄闇の中、その輪郭が少しずつ露わになっていく。
 それは、涼音の知るどんな生物にも似ていなかった。
 強いて言えば、サルに近い。
 だが、その身体を覆うのは毛皮ではなく、硬質な鱗。いや、鎧、と言ったほうがいいだろうか。
 いずれにしても、大きさが全く違う。この地上に、これほどまでに巨大なサルはいない。
 よくできた作り物――
 そう思おうとした。けれど。
 ぐる……ぐるる……。
 犬のそれに似た、低いうなり声。
 そして、その異物の血走った黄色い目は、たしかに涼音をとらえていた。
 一歩、二歩と、思わず後退しようとして足下を確かめれば、地面はあとほんの数メートル先でぷっつりと途切れている。
 そこから先にはただ、闇が広がるばかり。
「なぜ逃げるの?」
 笑いを含んだ声がすぐ耳元で聞こえた。
 驚いて涼音が振り返ると、そこには大輪の白菊のように美しい顔があった。
 涼音の大嫌いな顔。
 それが、今、この世のものとは思われぬ光輝を放ち――
 涼音の意識はそれきり、闇に飲み込まれてしまったのだった。

2010.01.20


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