第百十四話「心の迷宮・15」


 竜介も驚いたが、むこうもかなり驚いたようだ。
 大きな目がさらに大きく見開かれている。
 彼女の頬が上気しているのは、風呂上がりだからだろうか?
 廊下は静かだった。
 家人の話し声も、外の雨音さえ、聞こえてこない。
 静かすぎて、焦る――がんがんと早鐘を打っている心臓の音が、相手にまで聞かれてしまいそうで。
 どれくらい、そうやって互いの顔をまじまじと見つめ合っていただろう。
 何か話さないと。
 この心臓の音を消さないと。
 そう思いながらも、言葉が何も浮かんでこない。
 口蓋に貼り付いた舌をどうにかはがし、
「……二日も寝てたのに、大丈夫か?」
と、言った。
「起きあがって、歩いて?」
 そう言われて紅子はようやく我に返ったらしい。
 竜介の顔から目を逸らし、
「あ、うん」
と返事をした。
「もう大丈夫。別に、病気じゃないし」
「そうか。よかった」
 会話が途切れた。
 自分は今、どんな顔をしているだろう。
 いつも通りに振る舞っているだろうか。
 ほんのわずかな沈黙が、ひどくいたたまれない。
「あの……」
 二人はほぼユニゾンでそう言った。
「何?」
 竜介が訊くと、紅子は、
「いや、その……そこ、どいてくれないと、あたし出られないんだけど」
 彼は苦笑した。
「悪い」
 そう言って、出入り口をふさぐように立っていた自分の身体を一歩退き、紅子を廊下に出してやる。
 湿った髪から立ちのぼる、甘い香り。
「竜介は?」
と、彼女は相手の顔をちらりと一瞥して言った。
「何言おうとしたの?」
 別になんでもない。
 そう答えようとして、知らせておくべき事があったのを思い出す。
「黄珠が見つかった」
 長らく行方不明だったのが、黄根家に戻っているという連絡があったことを竜介は告げた。
 二、三日中に、こちらから借り受けに行くか、向こうから持ってきてもらうか相談しようと思っていることも。
「そっか」
 かすかに、紅子の頬がゆるむ。
 現実に戻ってきて、初めて見る笑顔。
「これで、封術を立ち上げる最低ラインはどうにかクリアできるんだ」
 竜介がどういう返事をするべきかためらっていると、また紅子が言った。
「えらく中途半端な時間だけど……お風呂、入りに来たの?」
「ん?ああ、まあね」
 そう答えて、あいまいに笑う。
 まさか「酒の匂いを消しにひと風呂浴びに来た」とは言えない。
 意識不明の自分を放っておいて昼酒かと、紅子は気分を害するだろう――いや。
 いっそ怒らせたらどうだ。
 嫌われたほうが、都合がいいんだろう?

 紅子が部屋に戻ると言って立ち去った後、竜介は脱衣室に入って引き戸を閉め、しばらくそこにもたれて、まだせわしない鼓動を続けている心臓をなだめていた。
「……中学生じゃあるまいし」
 そう独りつぶやき、自嘲する。
 自分の気持ちを抑えることには慣れているつもりだった。
 なのに――
 たかがキス、と虎光は言った。
 そう、たかがキスだ。
 軽く触れただけの、あいさつ程度の。
 だが、その記憶はまだ鮮烈すぎて、どうしようもなく意識してしまう自分がいる。
 酒の匂いを気づかれなくてよかったと安堵している自分がいる。
 嫌われたくないと思っている自分がいる。

 脱衣室の中は、紅子のつけていた甘い香りが、まだ残っていた。
 この苦しみが消えるまでは、あとどれくらいかかるのだろう。


 一方――
 紅子は自室に戻るなり、しばらく放心したように畳の上に座り込んでいた。
 湯あたりしたわけでもないのに、心臓の動悸がおさまらない。
 迷子になりそうなほど広いとはいえ、同じ屋敷の中で生活していれば、おのずと遭遇率が高くなるのは当然のことだ。それはわかっているけれど、あの場所で、あのタイミングで、会ってしまうなんて。
 顔を見ることができたのは嬉しかった。
 でも、あまりにも不意で、気持ちの準備ができていなかったから、ろくに話ができずに終わってしまった。
 もっと話したいことがあったのに。
 たとえば――意識を失っている間に見た、夢のこととか。
 あの夢がふつうの夢でないことは、生々しいほどにリアルな感覚を伴っていたことからも明らかだ。
 けれど、夢の中にいた竜介が彼本人だったのかどうかは、自分の腕に残ったあざだけでは確信が持てない。
 どうにかして、確かめたい。
 でも――
 でも、確かめてどうする?
 竜介を困らせるだけだとしたら。
 あの夢の中でのキスは、紅子が「現実に戻らない」と脅したからだ。
 彼の意志ではない。
 第一、どう訊けばいいのか。
 どうしたって、滑稽な質問になるだろう。
 そしてその結果、彼が「知らない」と答えることだってありうる。
 本当に知らないか、あるいは、もう忘れたいと思っているか、どちらかの理由で。
 考えているうちに、何だか泣きたくなってきた。
 胸が、苦しい。
 詰まる息をどうにか楽にしようと、呼吸を深くしてみたけれど、うまくいかない。
 どうしよう。
「どうしよう……」
 思わず声に出してしまった、そのとき。
「何が?」
 心臓が止まりそうになった。
 一人きりだと思っていた部屋の中で、いきなり他人の声が聞こえたのだから。
 声のほうを振り返ると、閉め忘れた廊下側の襖にもたれて、涼音が立っていた。
 学校から帰ったばかりらしく、校名の入った臙脂色のジャージ姿のままだ。
 風呂で充分温まっていたはずの身体が、つま先からすうっと冷えていくのを紅子は感じた。
「……いつからそこにいたの」
 相手の質問を無視して尋ねる。
 もともと独り言なのだから、答える義務はない。
 それよりも、人の気配を感じ取れないほど考え込んでいた自分に、彼女はいらだちを覚えた。
「ちょっと前から」
 相変わらず律儀に答える涼音。
 彼女の部屋は竜介のそれと同じく、紅子が使っている客間とは中庭を挟んで反対側にある。
 偶然通りかかることはありえない。
 わざわざここまで足を運んで、いったい何の用だろう。
 紅子がそう思っていると、
「オマエに訊きたいことがあるんだ」
涼音は、しばしためらってから、続けた。
「……竜介のこと、好き?」
 婉曲という言葉を知らないのかと疑いたくなるほど、単刀直入な質問。
 心の最奥部にまでいきなりずかずかと踏み込まれたような気がして、紅子はむっとした。
「何であんたにそんなこと答えなきゃいけないの?」
 気が付くと、そう言っていた。
 もともと、答える義務はないし、答えたくもない。
 へたなことを言って竜介に伝わってしまうのも怖い。
 涼音の顔が険しくなり、紅子は思わず身構える。
 まずい。身体がまだうまく動かないのに。
 だが、彼女は襖にもたれていた身体を起こしただけで、こちらへ近づいては来なかった。
「わかった。もういい」
涼音はくるりときびすを返し、肩越しに言った。
「さよなら」


 涼音は自室に戻ると、廊下に人の気配がないことを確かめ、襖を閉めた。
 次いで、勉強机の上の充電器に立てかけてあった携帯電話を取り上げる。
 相手はワンコールで出た。
「さっきの件だけど」
涼音は言った。
「明日、学校が終わってから、やるよ」
 相手の返事を待たず、それだけを言って電話を切る。
 充電器の隣には、B5サイズの白い封筒。
 あの奇妙な黒い少女から受け取った、封筒。
 帰宅直後に思いがけず目撃した光景が、脳裏をよぎる。
 ひとけのない廊下で見つめ合う、竜介と紅子。
 あんな目で、あんな顔で、竜介が誰かを見るなんて――
 涼音は何かを振り切ろうとするかのように頭を振ると、封筒を手早く通学鞄に入れた。

 もう、戻れない。

2009.9.28


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