第百十四話「心の迷宮・8」


「紺野涼音、だな?」
 その少女――少なくとも、涼音にはそう見えた――は、そんなふうに、声をかけてきた。
 ぎりぎり肩にかからない長さに切りそろえられた、まっすぐな黒髪と、抜けるように白い肌、赤い唇がそう思わせたのかもしれない。
 一瞥して、変な子、と涼音は思った。
 身長は自分と同じくらいなのに、顔立ちや言葉遣いが奇妙に大人びている。
 長い前髪の奥で鋭い光を放つ切れ長の黒い目は、まるで老人のようだ。
 服装も、奇妙だった。
 小雨がぱらつく寒い日だというのに、身にまとっているのは身体の線が見て取れるほど薄い黒衣だけ。
 その体型は皮肉なまでに涼音と似ていて、華奢というにはあまりに細く、女性らしさのかけらもなかった。
 奇妙なことは、まだあった。
 少女は、傘を持っていなかった。
 なのに、その髪も服も、まったく雨にぬれていなかったのである。


 放課後だった。
 雨でグランドが使えないため、部活は柔軟に筋トレ、それに校舎の廊下を使った走り込み程度で終わってしまった。
 だから、学校を出る時刻としてはいつもより早いのだが、天候がよくないせいか、外は既に薄暗く、友人たちと別れた後、涼音は何となく急ぎ足になった。
 徒歩で二十分あまりの距離が、今日はやけに遠く感じる。
 暗くて心細いから早足になるだけで、別に家に帰りたいわけじゃない、と、彼女は自分で自分に言い訳をした。
 家に帰っても最近はちっとも面白いことがない。
 あの紅子とかいうのが家に来てから、ずっと。
 大事なお客さんだということは、母親の英莉から何度も聞かされている。
 だけど、気に入らない。
 あの長い髪も、きれいな顔も、何もかも。
 兄たち、とくに竜介があの子に気を遣うのは、もっと気に入らない。

 小さいときから、自分のことをお姫様のように大切にしてくれた、大好きな兄。
 すらりとした長身で、顔もスタイルもいい、自慢の兄。
 竜介に会ったことがある涼音の友達は、皆一様に彼を「かっこいい」とほめ、涼音をうらやましがったものだ。
 たまに「似てないね」と言われることもあったけれど、竜介は母親似で、自分は父親似なのだろうと思っていたから、気にしたことなどなかった。
 英莉が実は後妻で、兄たちと自分とはいわゆる「異母兄妹」なのだということを知ったのは、中学一年のとき。
 家で大きな法事があり、そのときに両親――普段は東京で仕事をしている父も帰ってきていた――から教えられた。
 その法事は、竜介たちの母親である美弥子の十三回忌だった。
 両親は、集まった親戚連中の話を聞いて涼音が妙な誤解をするよりは、先に事実を教えてしまおうと思ったようだ。
 兄たちと自分の母親が違う、ということはもちろんショックだったが、そのことは同時に、もしかしたら、自分と竜介は血がつながっていないのではないか、という、淡くも愚かな期待を涼音に抱かせた。
 もっとも、そんな期待は、
「おまえが生まれてすぐDNA鑑定をしたから、間違いない。おまえはわたしの娘だ」
という父の言葉に、あっけなくついえてしまったのだが。
 家に連れてきた女友達を涼音が牽制しても、竜介は苦笑するだけで許してくれた。
 だから、たとえ兄妹でも、彼にとっての「一番」は自分なのだとずっと自負してきた。
 なのに――
 紅子に関しては、今までと勝手が違う。

 殴ったのは悪かったと自分でも思っている。
 だが、涼音でさえ「勝手に入るな」と言われている竜介の部屋に、紅子がしれっとした顔で出入りしているのを見かければ、誰だって頭に血がのぼるというものだ。
 涼音には涼音の言い分がある。
 それなのに、竜介はそんなことを聞くそぶりさえ見せてくれなかった。
 いつもの竜介なら、少ししょげた顔を見せるだけで、仕方ないなというように表情を和らげ、頭をくしゃっと撫でてくれるのに今回はそれもなし。
 こんなこと、今までなかった。
 竜介は変わってしまった――知らない男の人みたいに。

 その紅子が魂縒を受けて眠り込んでしまってから、今日で二日目。
 家の中はお通夜のようだ。
 竜介の沈んだ顔を見るのはつらい。
 でも、もういっそこのまま紅子の目が覚めなければいいのに、などとも思う。
 そして、そんな自分がいやになる。
 わかってる、いつまでも自分だけの竜介でいてもらうなんて無理。
 でも、もう少しだけ、ほんの少しだけ、彼の「お姫様」でいたい。
 本当に、それだけだったのに。

 長い築地塀のむこうに見慣れた門が見えてくると、涼音は足が急に重くなったような錯覚に捕らわれた。
 紅子が目を覚ましていたら、どうしよう。
 竜介からは、紅子に会ったらちゃんと謝っておくようにときつく言われている。
 でも、あの子に頭なんか下げたくない。
 あとから割り込んできたのは、あの子なのに。
 ともすれば止まりそうになる足を、忍び寄る寒気から逃れるため懸命に動かしながら、深いため息をつく。
 と、そのときだった。
 見知らぬ少女が、突然、声をかけてきたのは。


 涼音の視界に入るかぎり、周囲に人影などなかった。
 にもかかわらず、その奇妙な少女は、たしかにそこにいた。
 涼音は驚きのあまり返事もできずにいたが、少女は質問の答えを期待してはいなかったらしく、手に持っていた白い封筒を彼女に差しだし、言った。
「これを」
 相手の雰囲気に呑まれたまま、涼音は差し出された物を受け取る。
 その封筒はちょうど大学ノートくらいの大きさで、裏も表も真っ白なまま、宛名も差出人も書かれていなかった。
 もちろん、中身の説明なども、ない。
「たしかに渡したぞ」
 わけもわからず、ただ呆然と封筒に視線を落とす涼音の耳に、少女の満足げな声が聞こえた。
「え?」
 慌てて視線を上げる。
 だが、時既に遅く――あの黒い少女の姿は、もはやどこにもなかった。

 まるで、闇が人の形をとって現れ、ふたたび闇に戻ったかのように。

 説明も何もなく、ただ手渡された差出人不明の封筒は厚みもさほどなく、振っても音がしなかった。
 封緘もされていなかったので、涼音は思い切って中を開けて見た。
 中身は、和紙でできた大きめの短冊のような紙片が六枚。
 いずれも複雑な幾何模様が、墨で黒々と描かれている。
 こんなもの、どうしろというのだろう――
 意味が分からずに呆然と立ちつくしていると、今度は突然、電子音が鳴り響いた。
 不意をつかれ、涼音は思わず小さな悲鳴をあげたが、携帯の着信音だということに気づくと、急いで通学鞄を開く。
 薄暮の中、携帯の液晶だけが青白く光る。
 そこに浮かび上がる発信者の名前を見て、涼音は通話ボタンを押した。
『呪符は、受け取っていただけたかしら』
 涼音が何か話す前に、相手の声が聞こえた。
 なぜ、自分が受け取ったことを知っているのだろう。
 涼音は声の震えを悟られないよう、できるだけ堂々とした口調で尋ねた。
「……これ、どうすればいいの」
『あなたのお屋敷の敷地に、岩があるわ。不思議な……模様が刻んである』
 涼音が嫌いな、きれいな声。
『岩は全部で六つ。その岩に、一枚ずつ、貼っていっていただきたいの』
 ちょっと手間だけれど、やっていただけて?
「貼ったら……どうなるの」
 電話のむこうで、ふっと笑う気配がした。
 わかっているくせに、と言わんばかりに。

『消えるのよ』

 その声は優しいのに、涼音の耳には、なぜか寒々として恐ろしく響いた。
『邪魔者が』


 少し、考えさせて……。
 電話はそう言って切れた。
 何を考えることがあるのだろう?
 きっと、あの子もすぐに気づく。
 迷う事なんて、何もないと。
 彼女はツーという信号音だけになってしまった携帯を閉じると、それをいとおしい物のように両手で抱いた。
 赤い唇から、溜息がもれる。
 もうすぐ、会える。
 愛しいあの人に。

2009.9.14

2021.10.18改稿


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